第十五話「黒百合は、今日も微笑む」
カインからの報告が来たのは、三日後だった。
朝食の後、書斎で文献を読んでいたヴィオレットのところへ、カインが静かに入ってきた。
「ルーベン商会の件です」
「わかりましたか」
「市場で聞き込みをしました。商会の周辺で取引をしている商人が数名いて、話を聞けました」
「何がわかりましたか」
「ルーベン商会は表向き香料と薬草の卸売ですが、七年前に経営者が変わっています。変わる前は小さな普通の商会だったそうです。変わった後から急に取扱量が増えて、王都の北区に商館を構えた」
「七年前に経営者が変わった。新しい経営者の出自は」
「王国の南東から来たとだけ聞きました。それ以上は市場の商人も知らなかったようです」
ヴィオレットは手帳を取り出した。
南東。
カインの部族がいた山岳地帯の方角だった。
「もう一つ聞きます。部族を売った商人との繋がりは」
「直接の証拠はありませんでした。ただ」
カインが少し止まった。
「ルーベン商会が王都に来る前、南東の地方で人の売買に関わっていたという話を一人から聞きました。その商人は信頼できる人間ではないと前置きをしていたので、確実ではありません」
「その話をした商人の名前は」
「聞きました。手帳に書いてあります」
カインが小さな紙を渡した。名前が一つ書いてあった。
ヴィオレットはそれを自分の手帳に書き写した。
「よくやりました」
「お役に立てましたか」
「はい。ただ、これで確定ではありません。もう少し時間が必要です」
「わかりました」
カインが下がりかけた。
「カイン」
「はい」
「ミアは今日、どんな様子ですか」
カインが少し考えた。
「昨夜、遅くまで剣の手入れをしていました。何か考えている時の癖です」
「何を考えているかは」
「聞いていません」
「そうですか」
「聞いた方がいいですか」
「いいえ。ミアが話したい時に話します。待っていてあげてください」
カインが頷いて、出ていった。
ヴィオレットは手帳を閉じた。
点がまた一つ、増えた。
ルーベン商会、カインの部族、フォルタン子爵、セダン、ドレヴァン家。
それぞれの点の間に、まだ線が引けていない部分がある。しかし点の位置が、少しずつ近づいてきている。
そして書類に書かれていた名前が、前世の霧の中の何かと同じ場所にある感覚が、三日経っても消えなかった。
その日の学園は、普段と変わらない一日だった。
政治学の講義があった。経済の講義があった。舞踏の実技があった。
昼食の時間に、アメリが走ってきた。
「ヴィオレット様、今日のお昼一緒にどうですか。新しいお菓子を持ってきたんですけど」
「喜んで」
「やった。中庭にしましょう、今日は天気がいいので」
二人で中庭のベンチに座った。アメリが包みを開けた。小さなタルトが並んでいた。
「お母様が昨日焼いたんです。洋梨のタルトで」
「ありがとうございます」
ヴィオレットは一つ手に取った。一口食べた。
甘さと酸味のバランスが良かった。洋梨の香りが鼻に抜けた。
「美味しいですね」
「でしょう! お母様の洋梨タルトは最高なんですよ。ヴィオレット様のお母様も料理をされますか」
「お菓子は時々。ただ専ら食べる方で」
「私もです。作るより食べる方が好きで」
アメリが笑った。
この笑い方に、計算がないということを、ヴィオレットは何度確認しただろうかと思った。確認するたびに、同じ答えが出る。ない。
「そういえば」
アメリが少し声を落とした。
「最近、フォルタン子爵と文通しているって聞いたんですけど、本当ですか」
「植物学のことで少し手紙のやり取りを」
「大丈夫ですか」
「何がですか」
「フォルタン様、私はやっぱり苦手で。茶会の時も言いましたけど、なんか視線が気持ち悪くて。ヴィオレット様は大丈夫ですか、近づいていて」
ヴィオレットはアメリを見た。
この娘の感覚は、いつも正確だ。言葉は大雑把だが、感じ取るものは本物だ。
「気にかけてくれてありがとうございます」
「心配なんです。ヴィオレット様って、怖いものがない人みたいに見えるから、逆に心配で」
「怖いものがないわけではありませんよ」
「何が怖いですか」
以前も聞かれた問いだった。
その時は答えに詰まった。今日は少し違う答えが出た。
「大切なものを、気づかないうちに失うことが怖いです」
アメリが少し驚いた顔をした。
「それは怖いですね。私も怖い」
「そうですか」
「何が大切なんですか、ヴィオレット様にとって」
ヴィオレットはタルトを見た。
何が大切か。
「まだ、全部わかっていません」
「わかっていないんですか」
「少しずつわかってきている最中です」
アメリがそれを聞いて、少し考えた。それから言った。
「なんか、それってすごく正直な答えですね」
「そうですか」
「うん。大切なものってわかってる人の方が少ないと思うし、わかってきている最中って言える人はもっと少ないと思う」
ヴィオレットはアメリを見た。
この娘はやはり、侮れない。
「アメリ様は何が大切ですか」
「お母様のタルトと、友達と、晴れた日の中庭です」
即答だった。
ヴィオレットは少し笑いそうになって、こらえた。こらえようとして、こらえきれなかった。
口元が、わずかに動いた。
アメリがそれを見て、目を丸くした。
「ヴィオレット様、今笑いましたか」
「笑っていません」
「笑いかけました」
「気のせいです」
「笑いかけてた。絶対笑いかけてた。やった」
「やった、とは何ですか」
「ヴィオレット様が笑うところ、ずっと見たかったんです。完璧な令嬢の笑顔じゃなくて、普通の笑顔を」
ヴィオレットは何も言わなかった。
アメリが満足そうにタルトをもう一つ食べた。
「また笑ってくださいよ。次はちゃんと見たい」
「約束はできません」
「でも可能性はありますよね」
「……あるかもしれません」
アメリがまた笑った。
今日の中庭は、秋の終わりの光の中にあった。木の葉が半分落ちて、空が広く見えた。
ヴィオレットはタルトをもう一口食べながら、思った。
大切なものが何か、まだ全部はわからない。
しかし今この中庭にあるものが、その一部かもしれないということは、わかった。
放課後、帰りの馬車の中でミアが口数が少なかった。
カインが言っていた通り、何かを考えている様子だった。
「ミア」
「はい」
「話したいことがあれば、いつでも」
ミアが少し止まった。
「お嬢様、私に隠していることがありますか」
ヴィオレットは少し間を置いた。
「あります」
「話せないことですか」
「今はまだ、全部は話せません。でも、いつか話せることが増えると思います」
「いつか、というのはいつですか」
「わかりません」
ミアが窓の外を見た。
「お嬢様が何かをしていることは、わかっています。危ないことかどうかも、なんとなくわかります」
「心配していますか」
「します。でも止めようとは思いません」
「なぜですか」
「お嬢様が止まる人じゃないことを知っているから」
ヴィオレットはミアを見た。
「それと」
ミアが続けた。
「お嬢様がしていることが、意味のないことだとは思えないから」
「なぜそう思いますか」
「なんとなく、ですけど」
ミアがまた窓の外を見た。
「昨夜、剣の手入れをしながら考えていました。私はなぜお嬢様に仕えているんだろうって」
「答えは出ましたか」
「出ました」
「どんな」
「お嬢様が誰かを守ろうとしているから、だと思います。何を守っているかは全部わからないけど、守ろうとしていることはわかる。そういう人の傍にいたいと思いました」
ヴィオレットは何も言わなかった。
しばらくして、言った。
「話せることが増えたら、一番に話します」
ミアが振り返った。
「本当ですか」
「約束します」
ミアが今日初めて、いつものミアの顔になった。
「やった」
「アメリ様と同じ反応ですね」
「アメリ様というのは学園のお友達ですか」
「はい」
「会ってみたいです」
「機会があれば」
馬車が公爵家の門をくぐった。
夕暮れが庭に長い影を作っていた。
夕食が終わった後、父から声がかかった。
「書斎へ」
いつも通りの呼び出し方だった。ヴィオレットはいつも通りに書斎へ向かった。
暖炉が燃えていた。茶の用意がされた。砂糖入れが差し出された。
ヴィオレットは砂糖を二つ取った。
少し考えて、三つ目を取った。
父は見ていなかった。
二人で黙って紅茶を飲んだ。
暖炉が爆ぜた。風が窓を鳴らした。
今夜の沈黙は、いつもより少し重かった。重いが、不快ではなかった。何かが積もっている沈黙だった。
「ヴィオレット」
「はい」
父が紅茶を置いた。
いつもとは少し違う置き方だった。丁寧に、時間をかけて置いた。
「お前は幸せか」
以前も聞かれた問いだった。
その時は、わかりませんと答えた。
今夜もわからない、と思った。
しかしわかりません、だけでは今夜は足りない気がした。
「わかりません」
「そうか」
「ただ」
父が少し顔を上げた。
「以前はわからないことだけがわかっていました。今は、わからないことに少し近づいている気がします」
「近づいている」
「はい」
父が暖炉を見た。
「何が近づかせているんだ」
ヴィオレットは少し考えた。
「アメリ様のタルトだったり、お母様が持ってきた花だったり、カインとミアのことだったり」
「他には」
「お父様と飲む紅茶の砂糖の数が、増えていることだったり」
父が動かなかった。
暖炉の光の中で、父の横顔が静かにあった。
「三つになりましたか」
「今夜は三つです」
「そうか」
父が新しい紅茶を注いだ。先にヴィオレットのカップに。
砂糖入れを差し出さなかった。今夜は差し出さなかった。
ヴィオレットは自分で砂糖入れを引き寄せた。
四つ目を取った。
父は見ていなかった。
四つの砂糖が、紅茶の中に溶けた。
「一つ聞いていいか」
父が言った。
「はい」
「お前が今、色々なことをしているのは知っている。何かは聞かない。ただ」
父が娘を見た。
「一人でやろうとしすぎていないか」
ヴィオレットは父を見た。
「一人でやろうとしすぎている、とはどういう意味ですか」
「そのままの意味だ。一人でできることには限りがある」
「周りに迷惑をかけたくないということもあります」
「迷惑をかけることと、頼ることは違う」
ヴィオレットは少し止まった。
「頼る、ということが」
「苦手か」
「苦手というより、慣れていません」
「そうか」
父が紅茶を飲んだ。
「慣れていないなら、練習すればいい」
「練習ですか」
「まず俺に一つ、頼ってみろ。何でもいい。小さなことで構わない」
ヴィオレットは父を見た。
この人はどこまで知っているのか、という問いを、何度も繰り返してきた。
今夜もわからなかった。
しかし、どこまで知っているかに関わらず、この人が今夜言った言葉の意味は受け取れた。
頼ってみろ、と言った。
練習でいいと言った。
「一つ、聞いていいですか」
「なんだ」
「お父様は、なぜ私が色々なことをしていると思うのですか」
父が少し目を細めた。
「砂糖の数が増え始めたのはいつ頃からか、覚えているか」
「覚えていません」
「俺は覚えている。少しずつ増え始めたのは、半年ほど前だ」
ヴィオレットは何も言わなかった。
半年前。リュカと接触する前後だった。
「砂糖の数は、お前が何かを背負い始めた重さだと思っていた」
「重さ、ですか」
「何かが増えるたびに、甘いものが必要になる。それがお前の、隠れた癖だ」
ヴィオレットは紅茶を見た。
四つの砂糖が溶けた紅茶が、燭台の光を反射して揺れていた。
「気づいていましたか」
「最初から」
「何も言わなかったのは」
「お前が話したくなるまで待つつもりだった」
「今夜は」
「話しかけてみようかと思った。お前の顔が、今夜は少し違ったから」
「どう違いましたか」
「以前より、近い顔をしていた」
「近い、とは」
「この部屋に来る時の顔が、以前は遠かった。今夜は近い。それだけだ」
ヴィオレットは暖炉を見た。
近い顔。
前世の暗殺者として持っていた顔と、今世の公爵令嬢として作ってきた仮面と、その間のどこかにある、言葉にならない顔。
それが今夜、父には見えたのかもしれない。
「お父様」
「うん」
「一つ、頼っていいですか」
「なんだ」
「ルーベン商会という名前を、知っていますか」
父が少し間を置いた。
「聞いたことはある。北区の商会だろう」
「その商会について、お父様の人脈で調べられることがあれば、教えていただけますか。表の情報だけで構いません」
父が娘を見た。
その目に何があったか、ヴィオレットはしっかりと見た。
驚きと、何か別のものが混じっていた。別のものが何かは、言葉にならなかった。しかし悪いものではなかった。
「わかった」
「ありがとうございます」
「他には」
「今夜はこれだけです」
「そうか」
父が新しい紅茶を、今度は自分のカップに注いだ。
「頼むのは一つだけにしなくていい」
「はい」
「練習なんだから、何度でも」
ヴィオレットは父を見た。
何か言おうとした。
言葉が出る前に、父が新聞を取り出した。
いつも通りの動作だった。しかし今夜の新聞の広げ方は、少し違った。早かった。
ヴィオレットは気づいた。
父も今夜、何かをこらえているのだと。
何をこらえているかは、聞かなかった。
聞く必要がなかった。
二人で、しばらく静かに紅茶を飲んだ。
暖炉が燃えた。風が鳴った。
いつもと同じ書斎の夜だった。
しかしいつもより、何かが多かった。
言葉にならないまま、そこにある何かが。
その夜、自室に戻ったヴィオレットは手帳を開いた。
今夜書くことを整理した。
カインの報告。ルーベン商会と南東の繋がり。父への依頼。
書きながら、別のことも考えた。
アメリが言った言葉。大切なものがわかってきている最中と言える人は少ない、と。
ミアが言った言葉。守ろうとしている人の傍にいたい、と。
父が言った言葉。頼ることと迷惑をかけることは違う、と。
それぞれが別の言葉だったが、今夜は全部が同じ方向を向いている気がした。
どの方向かは、まだわからない。
ただ、向いていることはわかった。
手帳を閉じた。
窓の外の夜が、深かった。
しかし今夜の深さは、以前の深さと少し違う気がした。
同じ暗さの中に、何かがある。
形にならないが、ある。
それが何かわかる日が来るとしたら。
その日に自分がどんな顔をしているかを、今夜初めて、少しだけ想像した。
想像できた。
それだけで、今夜は十分だった。
黒百合は今夜も、静かに眠る準備をした。
砂糖は四つだった。
それがどんな意味を持つかは、まだ誰にも言わなかった。
ただ、意味があることは、自分にはわかっていた。
第十五話 了




