第9話 厨房潜入と見栄の手口
異種格闘技戦の熱気がようやく静まった翌朝、港には妙な静けさが残っていた。
騒いだ翌日らしい眠たさもある。だがそれだけではない。笑って力を抜いたぶん、皆が次に来るものへ身構えているのだ。月食はもう目前で、王都から来た客人二人はまだ宿にいる。しかも前日の広場で恥をかいたわりに、リディベルは少しもおとなしくなっていないらしい。
「朝から宿の女将さんが疲れた顔してたわ」
アレンが食堂の鍋をかき混ぜながら言う。
「“お部屋の香りが足りない”“窓辺の布の色が寒そう”“魚の骨がこちらを見ている気がする”ですって」
「骨は見るでしょうね」
マグブラが即答する。
「見ているというより、そこにあるだけでは」
エフィジェニオが控えめに補足する。
「もう泊めないでほしい」
ジャファルが真顔で言う。
「お前に決定権はない」
ポリミリスが切った。
アヌッカは記録札を束ねながら、宿のほうをちらりと見た。
リディベルは昨夜、広場では派手に転びかけた。けれどああいう人は、一度恥をかくと引くのではなく、“もっと良く見える形で挽回しよう”とする。王都で何度も見た種類の粘り強さだ。セルギオも同じで、自分が不利だと悟るほど、都合のいい言葉の置き場を探し始める。
「何か仕掛けてくるでしょうか」
アヌッカが呟くと、ロイトが短く答えた。
「来る」
「断言ですね」
「来ないなら、そもそも来ていない」
その通りすぎて、皆が一瞬黙った。
ロイトは今日も朝から執務舎の地図の前に立ち、灯の落ちた地点と願文の回収経路を照らし合わせている。広場で試合をしていた人と同一人物とは思えないほど顔が硬い。だがアヌッカには、祭りのあとの空気も含めて町全体を見ているのがわかった。
「宿の動きも見張りますか?」
ポリミリスが問う。
「露骨にはするな。だが、厨房と裏口の出入りは押さえろ」
「厨房?」
アヌッカが顔を上げる。
「願文や月種に直接触れられないなら、次は人心へ手を入れる」
ロイトは地図から目を離さず言う。
「この町で早く噂が広がる場所はどこだ」
「食堂」
アレンが胸を張った。
「悪い意味で自慢しないでください」
ハウケアが呆れる。
「だって本当だもの」
「本当ですが」
アヌッカはそこで、ふと昨夜のリディベルの視線を思い出した。観覧台から何度も食堂の売り場と幸せ丼を見ていた。あれは単に“北方の庶民料理”を見下していたのではなく、人がどこに集まり、どこで本音をこぼすかを測っていたのかもしれない。
「厨房に近づくつもりでしょうか」
「その可能性が高い」
ポリミリスが頷く。
「食べ物は警戒を越えやすい。しかも善意の顔をしやすい」
「差し入れとか?」
アレンが嫌そうな顔をする。
「そうです。王都から取り寄せた珍しい菓子、香りのよい茶葉、祭礼向けの飾り果実。そういうものは“親切”の形をしていますから」
アヌッカの胸に、小さく嫌な予感が刺さった。
昼前、予感はあっさり当たった。
食堂の裏口へ、白い籠を抱えた使いの娘が二人現れたのである。籠の上には刺繍入りの布がかかっており、開けた瞬間、甘い香油に似た花の香りがふわりと広がった。
「王都より、リディベル様からの差し入れです」
娘の一人が丁寧に言う。
「祭礼前のお忙しい皆さまへ、心ばかりの焼き菓子と香茶を」
アレンの眉がぴくりと上がる。
「いりません」
「ちょっとアレン」
ハウケアが袖を引く。
「即答しすぎ」
「だって匂いが強い」
「気持ちはわかるけど」
「だめですか?」
娘が困ったように首を傾げる。
「皆さまで召し上がっていただければ、と」
その姿自体には悪意がない。命じられて来ただけの、まだ若い使いだ。断るにしても角が立つ。だが受け取れば、港の台所へ王都の“善意”が入り込む。
アヌッカは一歩前へ出た。
「お預かりはします」
「アヌッカさん?」
アレンが振り向く。
「ただし、すぐには出しません。こちらで確認してからにします」
「確認、ですか?」
使いの娘が瞬く。
「はい。ルーンサンドでは、祭礼前の持ち込み品はすべて中身を改める決まりです」
「そんな決まり、あった?」
ジャファルが小声で聞く。
「今できました」
マグブラが同じ声量で答える。
「便利」
「便利ね」
娘たちは顔を見合わせたが、逆らうほどの立場ではないのだろう。籠を置き、一礼して去っていった。
裏口が閉まると同時に、アレンが腕を組む。
「どうする?」
「中を見ましょう」
アヌッカが布をめくる。
籠の中には、花蜜を練り込んだ小さな焼き菓子、乾燥果実を砂糖で固めた飴菓子、香りの強い茶葉の小袋。それ自体に毒や傷みはなさそうだった。見た目も味もたぶん悪くない。だが、菓子の下に敷かれた薄紙の一枚へ、アヌッカの指が止まる。
「これ……」
薄紙の端に、小さな飾り文字で文章が刷られていた。
『王都の洗練を、北方の皆さまへ』
さらにその下へ、もっと小さく、
『願いは美しく整えてこそ、神前に届く』
と。
食堂にいた全員の顔が、一斉に硬くなる。
「嫌な感じしかしないわね」
ハウケアが静かに言う。
「嫌な感じどころじゃない」
アレンは紙を覗き込み、口をへの字に曲げた。
「これ、うちの食堂で配られたら、“北方の願いは整っていない”って言ってるのと同じじゃない」
「そのつもりでしょうね」
マグブラが鼻を鳴らす。
「菓子と一緒に言葉を置いていく。匂いも甘さも強いから、つい印象に残る」
「つまり、じわじわ書き換える気だ」
ジャファルが低く言った。
「願文だけじゃなく、人の腹の近くまで」
ロイトが呼ばれ、紙を確認すると、顔から完全に温度が消えた。
「受け取ったこと自体は問題ない」
だが声は冷静だった。
「証拠になる」
「返しませんか?」
アヌッカが尋ねる。
「返すと警戒される。表向きは礼を言え」
「礼を」
「北方流でな」
その一言に、ポリミリスの口元がわずかに動いた。たぶん、何か作戦がある顔だ。
ほどなくして、アヌッカ、アレン、ポリミリスの三人で宿へ向かうことになった。表向きは“差し入れのお礼”。実際には、相手の出方を見るためだ。
中央宿の二階、海の見えるはずの一番広い部屋は、香りと布でむせかえるようだった。窓辺には持ち込まれた花、卓上には銀の茶器、椅子にはふわふわの膝掛け。ここだけ王都を無理やり再現したみたいで、かえって浮いている。
「まあ、お礼にいらしてくださったのね」
リディベルが嬉しそうに立ち上がる。
「お気に召して?」
「ええ、とても印象的でした」
アヌッカが微笑む。
「北方ではあまり見ない言葉でしたので」
「あら、そうでしょう? 王都では、祭礼前の心得としてよく使われますの」
「心得」
「願いは美しく、見苦しくなく、品よく。そうしてこそ、多くの人に愛されるものになりますわ」
横でアレンの笑顔がぴくぴくしている。怒るな怒るなと自分へ言い聞かせている顔だった。
「なるほど」
ポリミリスが静かに口を開く。
「では王都では、“家族と食卓を囲めますように”のような願いは、見苦しいのでしょうか」
「まあ」
リディベルは扇を口元へ当てた。
「そういう直接的すぎるものは、もう少し整えるかもしれませんわね。たとえば“家内安全と団欒の継続を”とか」
「長い」
アレンが素で言った。
「え?」
「いえ。幸せ丼の売り札に書くには長いなって」
「幸せ……?」
「うちの看板料理です」
「存じていますわ。昨日も随分人気でしたものね」
リディベルの声音は甘いのに、目が笑っていない。
「でも、少し惜しいと思って」
「惜しい?」
アヌッカが聞き返す。
「ええ。せっかくおいしいのに、名前があまりに素朴で。王都風に整えたら、もっと評判になるかもしれませんわ。“北灯香魚の祝福椀”とか」
「ながいですね」
アレンがまた素で返した。
「お客さんが注文する前に冷める」
「そういう問題では」
「港では大問題です」
アレンは真顔だった。
セルギオは部屋の隅で、会話の流れを読もうとしていたらしい。ここで何か“橋渡し役らしい”ことを言えば立場を保てると考えたのだろう。
「つまりだね、北方の良さを残しつつ、王都の格も取り入れる調整が必要で」
「必要ありません」
アヌッカはきっぱり言った。
「この町には、この町に合う言葉があります」
「だが外へ伝えるには」
「外へ良く見せることより、ここで本当に届くことが先です」
セルギオは口ごもった。
以前なら彼はそこで“君は感情的だ”とでも返しただろう。だが今のアヌッカの後ろには、幸せ丼を食べる港の人々の顔も、願文を聞き直して頷いてくれた網繕いの女たちの声もある。それを知っているから、彼の“外へ良く見せる”がどれだけ空疎か、もう隠せない。
「それに」とアヌッカは続ける。
「“願いは美しく整えてこそ神前に届く”という言い方、北方では不評でした」
「……不評?」
リディベルの笑みが少し止まる。
「ええ。こちらでは、願いは暮らしに近いほど強いので」
「まあ、野趣があって素敵」
「野趣ではありません」
「では何ですの」
「生活です」
その一語に、部屋の空気が止まった。
王都の人々はよく、“生活”という言葉を少し下に見る。土や鍋や洗濯や咳や足の痛みが混ざっているからだ。けれどルーンサンドでは、その生活こそが願いの芯であり、灯の種を起こす力だ。
リディベルは扇を閉じた。
「アヌッカ様、ずいぶん変わられたのね」
「そうかもしれません」
「北方侯のおかげかしら」
「ルーンサンドの皆さまのおかげです」
ロイトの名を出されて胸が少し熱くなったが、今ここでそれを見せるつもりはない。
ポリミリスはそこで、用件を終えるように一礼した。
「差し入れ、ありがとうございました。菓子自体は保管し、祭礼後に職人方へ分配いたします」
「今は出さないの?」
リディベルが問う。
「祭礼前の持ち込み品は、すべて確認のうえ扱いますので」
「ずいぶん慎重ですこと」
「灯に関わる時期ですから」
「たかがお菓子で?」
「この町では、“たかが”と言えるものが少ないのです」
その返しには、もう微笑みすらいらなかった。
宿を出たあと、階段の踊り場でアレンがふうっと長く息を吐く。
「疲れる!」
「お疲れさまでした」
「なんなのあの部屋! 匂いが五種類くらい喧嘩してた!」
「五種類どころではなかったかもしれません」
「あと名前! 北灯香魚の祝福椀!」
「冷めるわね」
マグブラならそう言うだろうなと思い、アヌッカは少し笑った。
笑いながらも、頭の中ではさっきの紙が引っかかっていた。
願いは美しく整えてこそ神前に届く。
あれはただの嫌味ではない。誰かへ刷り込むための短い標語だ。言葉として覚えやすく、何度も目に入れば、少しずつ“そのほうが正しい気がしてくる”種類の文句。
「標語まで用意しているなら、前から計画されていたのでしょうか」
アヌッカが問う。
「ええ」
ポリミリスが頷く。
「願文の見本、王都からの祭礼用手引き、差し入れの添え紙。全部ひとつの方向を向いている」
「本心を削って、見栄えへ寄せる」
「そうです。しかも“親切”の顔をして」
食堂へ戻ると、ロイトが例の薄紙を机へ広げて待っていた。その隣には、過去数年の王都祭礼向け配布文の控えが何枚も並んでいる。
「一致した」
ロイトが言う。
「飾り文字の癖、文末の語尾、神前という語の使い方。すべて同じ書き手の系統だ」
「ベルノア様、でしょうか」
「本人か、近い者だろう」
アヌッカは胸の奥がひやりとした。
やはり継母の影はここまで伸びている。王都の家の中だけでは飽き足らず、北方の灯にまで手をかけているのだ。理由はまだ読めない。だが、願いを“見栄え”へ変えさせることが、彼女たちの利益になる。それだけは確かだった。
「どうなさいますか」
「反撃する」
ロイトの答えは短い。
「ただし、怒鳴っては向こうの土俵だ」
「では」
「こちらは、生活で返す」
その言葉に、アヌッカは瞬きをした。
「生活で」
「見栄えの標語に対抗するには、この町の本当の願いを、人が見える形で集めればいい」
ポリミリスが補う。
「月食前の願い札の掲示ですね」
「はい。ただし、飾らない」
「飾らない?」
「鍋の湯気でも、擦り切れた手袋でも、帰りを待つ食卓でもいい。願いがどこから生まれるか、そのまま見せる」
ロイトが言う。
「王都の“整えた言葉”と並べたとき、どちらが月種を起こすかを、町ごと証明する」
アヌッカの胸が高鳴る。
怒りをそのまま返すのではない。
この町の良さを、曖昧にせず見える形へする。
それは願文師として、いちばんやりたいことに近かった。
「やります」
気づけば声が出ていた。
「皆さんの願いを、ちゃんとその人の言葉のまま集めます」
「頼む」
ロイトがまっすぐ言う。
「君にしかできない」
その一言で、頬が少し熱くなる。けれど今は照れている場合ではなかった。
その日の午後から、食堂の壁際には大きな板が立てられた。粗削りの木板を磨き、紐を渡し、小さな札を掛けられるようにする。アレンは「食堂でやるの?」と最初は驚いたが、すぐに「ここがいちばん本音が集まるものね」と得心した。
最初に札を書いたのは、網繕い小屋の年長の女だった。
『春まで孫の咳がひどくなりませんように』
次は灯台兵。
『交代の朝まで、一人も欠けずに戻れますように』
魚屋の親父。
『娘が嫁ぎ先で腹を空かせませんように』
若い母親。
『鍋の底を焦がさず、子どもに温かいものを食べさせられますように』
どの札も短い。けれど読むと、その人の手の温度まで伝わってくる。
「いいですね」
アヌッカが呟くと、ハウケアが紐の高さを直しながら頷く。
「ええ。綺麗すぎないのがいいわ」
「綺麗すぎない、ですか」
「生きてる感じがするもの」
夕方には、食堂の一角が小さな願いの森みたいになっていた。札が揺れ、湯気が上がり、人が立ち止まり、自分の願いを読んだり、他人の願いへうなずいたりする。
そこへリディベルが通りがかったのは、たぶん偶然ではないだろう。
彼女は立ち止まり、札の列を見た。表情は笑顔のままなのに、目の奥だけが硬い。
「ずいぶん素朴ね」
「ええ」
アヌッカが答える。
「でも、よく眠れます」
「眠れる?」
「はい。嘘が少ないので」
リディベルは何も言い返さなかった。
ただ一枚一枚の札を見て、その中に王都の標語ひとつでは太刀打ちできない種類の強さがあると、きっと感じたのだろう。
その夜、食堂を閉めるころ、ロイトが壁の札を見上げていた。
「どうでしょう」
アヌッカが隣へ立つ。
「十分だ」
「王都へ勝てますか」
「勝ち負けではない」
ロイトは札の一枚へ目を留める。
「だが、灯はこっちで起きる」
言い方はいつも通り簡潔だった。けれどそれは、何より頼もしい保証に聞こえた。
アヌッカは壁いっぱいの札を見渡す。
願いは、飾りではない。
腹を空かせないこと。
咳がひどくならないこと。
一人も欠けずに戻ること。
それを恥ずかしいと思わなくていい町が、ここにはある。
リディベルたちの持ち込んだ甘い匂いは、もう食堂の湯気に押されてほとんど消えていた。




