第10話 霧の夜にこぼれた本音
月食の前夜、ルーンサンドの霧は昼から重たかった。
海も空も境目を失い、港の端から端までが薄い白布の内側へ閉じ込められたようになる。魔導灯はところどころ明滅し、遠くの灯台の光も、回るたびに輪郭を食べられていた。
それでも町は止まらない。
食堂の壁には、今日も新しい願い札が増えていく。午前のうちに来た漁師の妻が、
『明日の月食のあとも、夫が海へ出るたび無事でありますように』
と書き、荷運びの青年が少し照れながら、
『母さんの腰が少しでも楽になりますように』
と札を吊るした。誰も笑わない。読んだ者は、そうだな、と頷くだけだ。
アヌッカは昼の間じゅう、その札を書き続けた。
願いを聞き、短く整え、けれど削りすぎない。語尾ひとつ、順番ひとつで意味が変わる。王都にいたころは“見栄えよく整える”ために言葉を削った。今は逆だ。“削らないために整える”。その違いが、筆を持つ手にまで染み込んできている気がした。
「少し休みなさい」
ハウケアが後ろから肩へ布をかける。
「気づいていないでしょうけど、朝からほとんど座りっぱなしよ」
「でも、まだ何枚か」
「何枚でも、手が震え始めたら字に出るわ」
言われて初めて、自分の指先が少し強ばっているのに気づく。
アヌッカは筆を置き、ふうっと息を吐いた。食堂の奥ではアレンが幸せ丼の鍋を混ぜ、マグブラが香草を選り分け、ジャファルがなぜか札を読むたびに大げさな鼻を鳴らしている。
「おい、これ泣けるな……」
「どれ?」
アレンが問う。
「“明日の朝も娘が笑って起きますように”」
「読んで泣く暇あったら椀運んで」
「心が忙しいんだ!」
「手を動かしながら忙しくして」
「理不尽!」
騒がしい。けれど、その騒がしさの底には緊張がある。皆、明日の月食で何かが決まると知っているからだ。
昼過ぎ、ロイトが執務舎から食堂へ顔を出した。
いつもよりさらに無口で、外套の肩には霧の粒が薄く光っている。彼は願い札の壁を一度見上げ、それからアヌッカの卓へ歩み寄った。
「東側の補助灯は仮修復が済んだ」
「よかった」
「だが今夜の霧次第では、また落ちる」
「月種は」
「数はある。問題は目覚め方だ」
ロイトの視線が、壁いっぱいの札へ向く。
「これだけの願いがあっても、正しく灯へ届かなければ意味がない」
「届かせます」
アヌッカは自分でも驚くほど、はっきり言えた。
「皆さんの言葉のまま」
「……そうだな」
ロイトはそれ以上何も言わない。
だが、卓の端に置かれた空の湯呑へ目を留め、小さく眉を寄せた。
「茶は飲んだか」
「さっき少し」
「少しでは足りない」
「またそこですか」
「大事だ」
「わかっています」
「わかっていない顔だ」
そう言うと彼は、そのまま食堂の台所へ入り、勝手を知った手つきで薬草湯の鍋を持ち上げた。侯爵がする動きではないのだろうが、今さら誰も止めない。アレンなどは「塩だけ入れないでね!」とだけ声を飛ばしている。
ほどなくして、湯気の立つ杯がアヌッカの前へ置かれた。
「飲め」
「命令口調ですね」
「頼んで聞かないからだ」
「まだ何も言っていません」
「飲まない顔をしていた」
「見抜かれていますね」
「見ている」
その一言に、胸がひどく落ち着かなくなる。
見ている。
最近のロイトは、そんなふうに時々まっすぐ言う。大げさな言葉ではないのに、古い恋札よりずっと危ない。
夕暮れが近づくころ、ポリミリスが食堂へ入ってきた。眼鏡の奥の目が、珍しくはっきり疲れている。
「宿の見張りから報告です」
「動きましたか」
ロイトがすぐに問う。
「はい。リディベル様の使いが、北の旧祈祷庫へ向かおうとしていました」
「旧祈祷庫?」
アヌッカが顔を上げる。
「昔の願文や祭礼器具を一時保管している場所です」
ポリミリスが答える。
「現在はほとんど空ですが、月食の時期だけ、古い祈願札を一部移しています」
アヌッカの背筋に冷たいものが走った。
古い祈願札。
ロイトが以前拾ってしまった、あの妙に甘い恋札も、たしか旧祈祷庫から流れてきたものだった。
「何をするつもりでしょう」
「差し替えか、持ち出しか、あるいは」
ポリミリスは言い淀む。
「火を入れる可能性もあります」
「火?」
アレンが素っ頓狂な声を上げる。
「願い札の壁に?」
「そっちは見張りが厚い。だが旧祈祷庫なら、人が少ない」
火を入れられれば、古い願文も証拠も一度に消せる。
しかも混乱はすべて“北方の管理不足”へされかねない。
「今すぐ止めますか」
アヌッカが立ち上がると、ロイトが短く首を振った。
「焦るな。現場を押さえる」
「でも」
「証拠ごと取る」
ロイトはその場で簡潔に指示を飛ばした。
ポリミリスは見張りを増やす。
ジャファルは旧祈祷庫の裏手を押さえる。
エフィジェニオは温室から予備の湿布布を持ち出す。火が出た場合に備えるためだ。
アレンとハウケアは食堂を閉める準備をしつつ、願い札の壁を内側へ移す。
そしてアヌッカへ向き直る。
「君は来るな」
「嫌です」
「危険だ」
「願文を見分けられるのは私です」
「火が出たらどうする」
「逃げます」
「信用できない」
「信用してください」
「そこは逆だ」
「逆でも何でも、行きます」
言い合いのようでいて、周囲は誰も止めない。皆もう知っているのだ。ロイトが心配していることも、アヌッカが引かないことも。
結局、ロイトは深く息を吐いた。
「……私のそばを離れるな」
「はい」
「危ないと思ったら、命令する前に下がれ」
「努力します」
「努力では困る」
「なぜ毎回そこへ戻るんですか」
「君が毎回そこを曖昧にするからだ」
その返しに、緊張していたはずのアヌッカまで少し笑ってしまう。
夜が落ちるころ、町の表通りにはまだ灯があった。けれど旧祈祷庫のある裏通りへ回ると、霧と石壁のせいで音まで沈む。海の匂いより、湿った木と古紙の匂いが濃い。
旧祈祷庫は、小さな礼拝堂を改装した石造りの建物だった。窓は高く、扉は重く、今はほとんど使われていない。だからこそ、何かをするには都合がいい。
ロイトとアヌッカは正面の影へ、ポリミリスは横手の物置陰へ、ジャファルは裏の柵沿いへ回る。しばらく待つと、霧の向こうから足音が近づいた。
白い灯りを覆う外套。
細い人影が二つ。
そして、その後ろにもう一人。
リディベル本人だった。
彼女はさすがに広場で見せた華やかな服ではなく、黒に近い濃紺の外套をまとっている。だが歩き方だけでわかる。見つからないようにしているのに、“隠れている自分”さえ綺麗に見せたい歩き方だ。
「急ぎなさい」
低い声が霧を切る。
「誰かに見られたら面倒だわ」
「中の棚、左側でございます」
使いの娘の一人が答える。
「古い札束は燃えやすいですし、灯脂もそこへ」
「なるほど」
アヌッカは息を呑んだ。
本当に火をつけるつもりなのだ。
ロイトの横顔が、一瞬で硬くなるのがわかった。だが彼はまだ動かない。証拠が足りるところまで待つつもりなのだろう。
リディベルは鍵を差し込ませ、扉を少し開ける。中へ滑り込もうとした、その瞬間だった。
「そこで何をしている」
低い声が石壁へ響く。
ロイトが前へ出た。
リディベルが振り向く。驚いた顔をするが、ほんの一拍でそれを消し、すぐに困惑した令嬢の表情へ変えてみせた。
「まあ、ロイト様。わたくし、古い祈願札も月食の参考にと思って」
「灯脂を持ってか」
「夜道が暗いので」
「祈祷庫の中で使う必要はない」
「それは……」
言い逃れを探す目が揺れる。
そのとき裏手から、ジャファルの大声が飛んだ。
「こっちにもいるぞ!」
続いて短い悲鳴。どうやらセルギオが裏から逃げようとして掴まったらしい。
リディベルの顔から、ついに作り笑いが消えた。
「……野蛮ですこと」
「火を入れて証拠を消すほうが、上品だとは思わない」
ロイトの声は氷みたいに冷たい。
ポリミリスも横から現れ、使いの娘たちから灯脂の小瓶と火打ち具を取り上げる。娘たちは青ざめていた。命じられただけなのだろうが、もう言い逃れできる場所にはいない。
「違うのよ」
リディベルが今度はアヌッカへ顔を向ける。
「これは、あなたのためでもあったの。古い札が残っていれば、王都との行き違いがいつまでも揉めるでしょう? なら、ここで一度きれいにして――」
「きれいに、ですか」
アヌッカはまっすぐ彼女を見た。
「見えなくすることを、そう呼ぶのですね」
リディベルの瞳が細くなる。
「あなたは昔から、余計なところに目が行くのよ」
「そうかもしれません」
「だから損をするの」
「以前はそうでした」
でも今は違う。
その言葉を、アヌッカは胸の中で続ける。
「ここでは、見たものを見たと言ってもいいので」
霧の夜なのに、声は不思議なくらい澄んでいた。
リディベルはそれ以上、言葉で優位に立てないと悟ったのだろう。扇もない手で外套の端を握りしめ、とうとう言った。
「北方なんて、少し整えれば十分でしょうに」
「十分ではない」
ロイトが即座に切る。
「ここで暮らす者にとって、一つの灯の遅れは生死に関わる」
「大げさですわ」
「妹が死んだ」
その一言で、空気が凍った。
アヌッカでさえ息を止める。
ロイトは一歩前へ出る。霧を押しのけるような立ち姿だった。
「お前たちが軽く扱う“見え方”のせいで、願いが削られ、灯が遅れ、届くはずのものが届かなかった」
「それは昔の――」
「昔だから許されると思うな」
リディベルは何も言えなくなった。
代わりに、裏手からセルギオが引きずられるように連れてこられた。ジャファルに襟を掴まれ、靴には泥がつき、いかにも惨めだ。
「離せ! 私はただ」
「ただ、何だ」
ロイトが問う。
「手伝っていただけだ! 王都ではこういう調整は必要で」
「必要?」
アヌッカの声が、自分でも驚くほど冷たく出た。
「誰のためにですか」
「それは、皆のために整えて」
「皆、ではありませんね」
「アヌッカ」
「あなたが守りたかったのは、いつも王都での見え方だけでしょう」
セルギオが口を開きかける。
だがもう、その続きは聞く価値がないとアヌッカにはわかった。
「私は戻りません」
静かに言う。
「前にも言いました。王都にも、あなたの隣にも」
「だが」
「あなたと一緒にいると、自分の願いが後回しになるんです」
セルギオは、そこで本当に言葉を失った。
リディベルのほうは、まだ負けを認める顔ではない。だが火打ち具も灯脂も押さえられ、使いの娘たちは泣きそうで、セルギオは役に立たない。これ以上ここで粘れば、自分の立場まで焼けると理解したのだろう。
「……失礼いたしましたわ」
最後にそう言い、顎を上げる。
「善意が通じない土地もあるのね」
「善意の顔をした都合は、通じません」
アヌッカが返した。
リディベルはそれきり何も言わず、霧の中へ去っていった。セルギオも連れていかれるようにその後を追う。
張り詰めていたものがほどけた瞬間、アヌッカは大きく息を吐いた。脚が少しだけ震えている。怖くなかったわけではない。けれど今日は、目の前の火種を見逃さなかった。
「大丈夫か」
ロイトが低く問う。
「はい……少しだけ」
「少しではない顔だ」
「またですか」
「まただ」
そのやりとりをした瞬間、急に力が抜けた。
ロイトは周囲を一度見て、ポリミリスへ短く指示を出す。証拠品の保全、使い娘の保護、宿への移送、見張りの増員。すべてが済むと、ようやくアヌッカへ向き直った。
「歩けるか」
「歩けます」
「嘘だな」
「なぜすぐわかるんですか」
「見ているからだ」
今夜だけで二度目のその言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
次の瞬間、ロイトは迷いなく自分の外套を広げ、アヌッカの肩ごと包んだ。驚いて顔を上げると、彼はいつもの無表情のままだ。ただ耳のあたりだけが、霧の冷たさとは別に少し赤い。
「冷えている」
「でも、ロイト様が」
「私は平気だ」
「その台詞、信用がありません」
「今は本当だ」
「今は」
「……お前は細かい」
「そこだけは見逃せません」
霧の夜道を、二人で並んで歩く。
外套の影は狭いのに、不思議と苦しくない。むしろ、冷えきっていた胸のあたりへ少しずつ熱が戻ってくる。
「ありがとうございました」
アヌッカが小さく言う。
「私のために、怒ってくださって」
「お前のためだけではない」
「はい。でも、それもありましたよね」
「……」
「今の沈黙は、肯定ですか」
「都合よく解釈するな」
「では違うのですか」
「違わない」
結局、そう返ってくる。
アヌッカはもう笑うしかなかった。
食堂へ戻ると、アレンたちがまだ起きて待っていた。事情を聞くなり、アレンは拳を握りしめ、マグブラは「やっぱりね」と鼻を鳴らし、ハウケアは何も言わずに温かい布を差し出してくる。
「……火なんて」
アレンが悔しそうに言う。
「札を燃やされたら、皆の願いまで雑にされたみたいで嫌だ」
「燃えませんでした」
アヌッカが答える。
「間に合いました」
「うん」
アレンは強く頷いた。
「間に合ったなら、それでいい。今日はとにかく、食べて寝る」
幸せ丼の夜用鍋が、静かに温め直される。
食堂の壁には、吊るされた願い札が揺れていた。さっきまで火の話をしていたせいか、その一枚一枚がいつもより大事なものに見える。
アヌッカは椀を受け取り、ひと口すすった。
温かさが喉を通り、腹へ落ち、指先までほどけていく。
「明日ですね」
ぽつりと呟く。
「月食だ」
ロイトが隣で答える。
「怖いですか」
「怖い」
彼は嘘をつかなかった。
「だが、今回は一人ではない」
「……はい」
その一言だけで、椀の中の湯気まで少し違って見える。
月食の夜は、もうすぐそこまで来ていた。




