第11話 月食前夜の告白未満
月食当日の朝、ルーンサンドはひどく静かに始まった。
静かなのに、眠っているわけではない。
むしろ町じゅうが息を潜めて、海と空の様子をうかがっているような朝だった。
霧は昨夜ほど濃くない。だが晴れているとも言いがたい。灰色の雲が高く流れ、その隙間に薄い光が時折のぞく。灯台の白い光は昼でも弱く見え、港の魔導灯は点いたり揺れたりを繰り返していた。
食堂の壁一面には、願い札がぎっしりと掛かっている。
朝早くから立ち寄った者たちが、新しい札をひとつ、またひとつと足していったのだ。
『月食のあとも港が静かでありますように』
『今夜、海へ出る舟がひとつも迷いませんように』
『兄ちゃんが無茶しませんように』
『うちの子が怖がりすぎて泣きませんように』
『明日の朝も、家族と同じ鍋を囲めますように』
願いはどれも飾っていない。けれど、飾っていないからこそ強い。
アヌッカは壁を見上げながら、胸の奥がじんとあたたかくなるのを感じた。
「眠れましたか」
背後から声がした。
振り向くと、ポリミリスがいつも通り整った姿で立っている。だがその眼鏡の奥には、徹夜明けに近い疲れがかすかに残っていた。
「少しは」
アヌッカは答える。
「でも、途中で何度か目が覚めました」
「皆似たようなものです」
「ロイト様も?」
「とくに」
やはり、と思う。
昨夜、食堂でロイトは“怖い”とはっきり言った。
灯が落ちることも、失うことも、まだ怖いのだと。それを隠さず口にしたのは、おそらく初めてだった。
アヌッカはその一言を、朝になっても胸の中で何度も反芻していた。
怖いと言える人は、強いのかもしれない。
少なくとも、怖くないふりをしていた王都の人たちより、ずっと。
「ロイト様は?」
「北の灯台へ」
ポリミリスが答える。
「夜までに補助灯の最終調整を終えるそうです。止めましたが、聞きませんでした」
「……そうでしょうね」
「ですが、出る前に」
ポリミリスは少しだけ間を置く。
「あなたが起きたら、温かいものを飲ませろと」
「また、そこなのですね」
「ええ。かなりそこです」
思わず笑ってしまう。
こんな大事な日にまで、あの人は“ちゃんと食べろ、冷えるな、無理をするな”から離れないらしい。
「では、飲みます」
「それがよろしいかと」
食堂の奥では、アレンが朝用のやさしい汁物を温めていた。幸せ丼ほど重くなく、けれど空腹では外へ出られない者のための、豆と魚だしの薄い粥だ。アレンは椀をよそいながら、わざとらしく大きなため息をつく。
「みんな今日に限って“食欲ない”とか言うのよね」
「緊張しているのでしょう」
「だからこそ入れとくの。空っぽで怖いこと考えると余計ろくなことにならないんだから」
「その通りです」
「でしょ? ほら、アヌッカも食べる」
椀を渡され、アヌッカは素直に受け取った。
湯気の立つ粥は、舌へ乗せると驚くほどやさしかった。魚のだしと豆の甘み、ほんの少しの塩、仕上げに落とされた刻み香草。身体へ“起きなさい”ではなく、“大丈夫だから動きなさい”と告げる味だ。
「おいしい」
「今日はね、“がんばれ”より“まず落ち着け”の味にしたの」
アレンが言う。
「食堂娘って、そういうのも考えるのですね」
「当然! みんなの腹の機嫌は町の機嫌に直結してるんだから」
その理屈は乱暴なのに、なぜか正しい。
朝のうち、アヌッカは願い札の最終整理に追われた。
同じような願いを近くへまとめ、子どもの札は低い位置へ移し、年配の者が書いた細い字は少し読みやすい場所へ掛け直す。どれも勝手に“整える”のではない。その人の願いが、ちゃんと見つかる場所へ置いていく感覚だった。
途中でハウケアがやって来て、赤みを帯びた濃紺の短い肩掛けを渡してきた。
「これを使って」
「私に、ですか?」
「ええ。今夜は冷えるし、人前にも出るでしょう」
「でも、こんなきれいな」
「きれいに見せるためじゃないわ」
ハウケアは肩をすくめる。
「防寒と、動きやすさと、あと少しだけ背筋が伸びるため」
触れると、厚すぎないのにしっかり暖かい。襟元と端にだけ細い銀糸が入っていて、灯台の光を思わせる色合いだった。
「ありがとうございます」
「礼はあと。今夜、役に立ったらそれでいいの」
その言い方まで、この町らしい。
昼を少し過ぎたころ、食堂の入口がにわかにざわついた。
見ると、網繕い小屋の年長の女を先頭に、港の女たちがぞろぞろ入ってくる。手には籠、布包み、小さな瓶、毛糸玉、何やらいろいろ持っている。
「どうしたんですか」
アヌッカが目を丸くすると、先頭の女がふんと鼻を鳴らした。
「どうしたもこうしたもないよ。今夜が本番なんだろう?」
「ええ」
「なら、あんたにもちゃんと“本番の支度”がいる」
そう言うなり、籠の中身が卓へ広げられる。
乾きやすい布手袋。
香りの弱い保温油。
髪をまとめるための紐。
海風で唇が切れないようにと、蜜蝋を混ぜた小さな軟膏まであった。
「こんなに……」
「願いを書いてもらったろう」
別の女が言う。
「なら今度は、こっちが返す番さ」
「でも」
「でもじゃないよ」
「そうそう」とアレンも乗っかる。
「今日は“ありがとう”を押し返される日なの」
「押し返される日」
「北方だからね」
「理屈が強いようで雑です」
「雑でもあってる!」
笑いが起きる。
アヌッカは、胸の奥が急に熱くなるのを感じた。
王都では“してもらう”ことはあっても、たいていは立場と引き換えだった。親切の顔をした貸し。見返りを含んだ気遣い。けれど今、目の前に広げられているのはそういうものではない。ただ、この町の夜へ出る仲間に持たせる支度だった。
「似合うようにしてやるから、座りな」
「え、ここで?」
「ここでだよ。今さらだろう」
結局、アヌッカは食堂の隅へ座らされ、髪をまとめ直されることになった。
マグブラが香りの弱い油を少しだけ髪へなじませ、ハウケアが乱れないよう後ろで結び、アレンが「顔色は悪くないわね」と真顔で確認する。網繕いの女たちは口々に好き勝手言いながらも、手元は驚くほどやさしい。
「もっときつく結ぶ?」
「いや、これくらいで」
「寒くなったら耳、ちゃんと隠しなよ」
「はい」
「緊張したら肩を回すんだよ」
「はい」
「泣くのは終わってからにしな」
「え」
「泣くなら、って意味さ」
「その前提なんですね」
「月食の夜に泣かなきゃ、いつ泣くんだい」
「勝手なこと言わないで」
アレンが笑う。
「でも、まあ、泣いてもここなら大丈夫よ」
その一言に、アヌッカは何も返せなくなった。
大丈夫。
ここなら。
あまりにもあっさり言われて、かえって胸へ沁みる。
夕方近く、ロイトが灯台から戻った。
食堂の扉が開き、冷たい外気と一緒に灰色の外套が現れる。肩には霧、靴には塩、顔は疲れているのに目だけは覚めきっている。だが彼は入るなり足を止めた。
「……何だ、その周りは」
目の前の光景が予想外すぎたのだろう。
アヌッカの周囲には、女たちが半円になって立ち、卓には手袋や紐や小瓶が並び、髪はきっちり整えられ、肩には濃紺の肩掛け。どう見ても“支度中”だった。
「北方の本番支度です」
アヌッカが答えると、ロイトはしばらく黙り、それからごく小さく頷いた。
「……似合っている」
「え」
「え?」
アレンまで聞き返した。
「今、似合ってるって言った?」
「言ったな」
ジャファルが即答する。
「しかも自然に」
マグブラが腕を組む。
「ロイト様、成長しましたね」
ポリミリスが穏やかに締める。
ロイトは一瞬で無表情へ戻ったが、耳の端だけがわかりやすく赤い。
「事実を言っただけだ」
「それを自然な褒め言葉と言うんです」
アレンが得意げに言う。
「何なんだ、お前たちは」
「感動してるの」
「余計だ」
食堂中が笑った。
アヌッカは笑えなかった。いや、笑うどころではなかった。
似合っている。
たったそれだけなのに、昨夜の霧よりずっと濃く胸へ広がる。
「ありがとうございます」
やっとのことでそう言うと、ロイトは少しだけ目をそらした。
「……本番前だ。支度が必要なのは当然だ」
「そうですね」
「冷えるから、その肩掛けは外すな」
「はい」
「手袋は」
「いただきました」
「そうか」
会話は短い。短いのに、どうしてこんなに息が詰まりそうなのだろう。
やがて人が散り、食堂の奥が少し落ち着いたころ、アヌッカは壁の願い札を最終確認していた。そこへロイトが静かに近づいてきた。
「少し外へ出られるか」
「はい」
食堂の裏手へ回ると、海からの風が真正面から吹きつけた。昼よりずっと冷たい。空はまだ完全には暗くないが、東の雲の薄いところに、これから欠け始める月の輪郭がもう見えている。
しばらく二人で黙って立つ。
沈黙が苦ではなくなったのは、いつからだろう。
王都では、黙るとたいてい相手の機嫌をうかがっていた。ここでは違う。言葉にしない時間にも、同じ方向を向いていられる。
「……昨夜、よく言った」
ロイトが不意に口を開く。
「リディベルにも、セルギオにも」
「必死でした」
「それでもだ」
「でも、ロイト様がいたから」
「私だけではない」
「はい。皆さんも」
「そうだ」
ロイトは頷き、それから少しだけ視線を落とした。
「だが、私もいた」
低い声だった。
「それを、お前が覚えていてくれたなら……ありがたい」
“ありがたい”なんて、この人が使う言葉だろうか。
アヌッカは胸の奥で何かがきゅうっとなるのを感じた。
「覚えています」
すぐに答える。
「ずっと」
ロイトがこちらを見る。
その目は相変わらず冷たい色なのに、今はそれだけではなかった。海の夜より深いものが、その奥で揺れている。
「月食が終わったら」
彼が言う。
「話したいことがある」
「……はい」
告白だ、とは思わない。
けれど、告白ではないとも思えなかった。
アヌッカの心臓がうるさくなる。
月食前でただでさえ町全体が落ち着かないのに、自分の胸だけ別の意味でも騒いでいる。
「私も」
思わず口をついて出た。
「終わったら、お話ししたいことがあります」
「そうか」
「はい」
「なら、終わらせよう」
「……はい」
それだけのやりとりなのに、指先まで熱い。
風が強くなり、肩掛けの端が揺れた。ロイトは無言でそれを直し、留め具の位置を少しだけ詰める。いつも通り自然な動きだ。けれど今日のアヌッカには、その自然さのほうが危険だった。
「近い」
彼が言う。
「何がですか」
「月食も」
一拍置いて。
「……たぶん、他のことも」
アヌッカはもう、本当に返事ができなかった。
そのとき、食堂の裏口が勢いよく開いた。
ジャファルだった。
「ロイト様! 北側の見張り――」
そこまで叫んで、彼は固まる。
「……あっ」
「何だ」
ロイトが振り向く。
「い、いや、その、俺は何も見てない!」
「何も起きていない」
「そうか? いや、そうならいい! じゃあ報告する! 北側の見張り、配置完了! あとアレンが“二人とも今のうちに食べとけ”って!」
「わかった」
「うん! じゃあ行く!」
ジャファルは来たときの倍の速さで去っていった。
アヌッカは両手で顔を覆いたくなった。
何も起きていないと言われればそうなのだが、何も起きていない顔でいられるほど平静ではない。
「……すみません」
「なぜ謝る」
「なんとなくです」
「変なところで謝るな」
「変なのは、今の空気では」
「否定はしない」
ロイトがそこを否定しないせいで、余計に困る。
食堂へ戻ると、案の定アレンとマグブラが何かを察した顔をしていた。だが二人とも今は追及しなかった。月食前だ。茶化すより先にやることがある。
「ほら、食べる!」
アレンが二人分の椀を突き出す。
「今日は夜が長いんだから」
「はい」
「……助かる」
ロイトも珍しく素直に受け取った。
月食の準備は日が落ちてから一気に加速した。
灯台の確認。
補助灯の配線。
祈願札の移送。
月種の仕分け。
旧祈祷庫から移した古札の再点検。
港のあちこちで人が動き、声を掛け合い、灯の明滅を確かめる。
アヌッカは食堂の壁から代表の願い札を選び、祭礼用の板へ掛け替える作業を任された。皆の願いをそのまま全部運ぶことはできない。だからといって王都のように立派な言葉へまとめる気はさらさらなかった。
選んだのは、生活の匂いがしながら、この町全体へ通じる札だった。
『一人も欠けず、明日の朝を迎えられますように』
『家族と食卓を囲めますように』
『灯が遅れず、帰る道を照らしますように』
『怖がる子どもの涙が少しでも早く乾きますように』
それを書き写す手は、驚くほど落ち着いていた。
怖くないわけではない。けれど今は、怖さごと抱えて手を動かせる。
夜の最初の鐘が鳴るころ、アヌッカは窓辺で一瞬だけ足を止めた。
港中の灯が、霧の中で微かに揺れている。
月はまだ完全には欠けていない。
けれど、あと少しで夜は動く。
背後から、ロイトの声がした。
「アヌッカ」
「はい」
「終わったら、逃げるな」
「逃げません」
「本当か」
「はい」
「努力ではなく?」
「今度は本当です」
「……ならいい」
その声に、かすかな安堵が混じっていた。
アヌッカは振り向き、小さく笑う。
「ロイト様も、逃げないでくださいね」
「逃げる理由がない」
「なら安心です」
月食の夜は、もう始まろうとしていた。
灯も、願いも、こぼれそうな本音も、全部を抱えたまま。




