第12話 月が欠ける夜、灯が起きる
月食の始まりは、誰かが合図をしたわけでもないのに、町じゅうへ同時に伝わった。
夜の海の上に浮かぶ月の端が、ほんの少しだけ暗く欠けたのだ。
最初は見間違いかと思うほど小さな変化だった。けれど灯台の見張りが鐘を一つ鳴らし、港のあちこちで人々が空を見上げ、やがてその暗がりが確かに広がっていくと、ルーンサンド全体の空気が一段深く張りつめる。
アヌッカは祈願札の板を抱え、港中央の祭礼場へ向かった。
足元の石畳は夜露で冷え、海から吹く風は昼よりも鋭い。けれど肩の濃紺の掛け布と、内側へ仕込んだ温かな手袋のおかげで、指先はまだ動く。食堂の壁から選び抜いた代表の願い札が、板の上でかすかに揺れていた。
祭礼場は灯台へ向かう坂の途中にある。海を見下ろす石の広場に、月種を納める灯盆がいくつも並べられ、その奥には古くから使われている起灯台が据えられていた。普段なら祭りめいた飾りもあるのだろうが、今夜は実務の顔が濃い。飾り布は少なく、代わりに予備灯、湿布布、道具箱、記録板が整然と置かれている。
「こっちだ!」
ジャファルが大声で手を振る。
「大声を出すな」
ロイトがすぐに切った。
「気合いを入れようと」
「気合いは声量ではない」
「はい!」
「返事だけは大きいのね」
アレンが呆れる。
人は多いのに、誰も浮ついていない。
灯台兵、漁師、網繕いの女たち、食堂の手伝い、温室番、診療所のジーギルデ。各々が自分の持ち場を知っていて、必要以上の言葉を交わさず動いている。その中をロイトが行き来し、補助灯の線を確かめ、月種の配置を見、灯盆の位置まで細かく整えていた。
「アヌッカ」
呼ばれて振り向くと、ロイトがすぐそばまで来ていた。
「札は」
「ここに」
「祭礼台の中央へ置く。だが、最終の読み上げはまだだ」
「はい」
「月種の反応を先に見る」
彼の声音はいつも通り低いが、今夜はその奥に鋼みたいな緊張があった。
アヌッカは小さく頷く。
「大丈夫ですか」
「何がだ」
「眠れていない顔です」
「お前こそ」
「私は少し眠りました」
「少しでは足りない」
「今夜が終わったら寝ます」
「本当か」
「努力します」
「それは困る」
「そこまでがいつもの流れですね」
「……そうだな」
ほんの一瞬だけ、ロイトの目元がゆるむ。
それだけで、張りつめた胸へ少し呼吸が戻る。
月食が半ばへ差しかかるころ、儀式の準備が始まった。
エフィジェニオが白、青、金の月種を布の上へ並べる。白は数が多いがまだ眠りが深く、青は薄く震え、金はごく少数だけが内側から脈打つように光っていた。あの砂浜で拾った金の月種も、今夜のために特別に残されている。
「これを、願いと合わせて起こすんですね」
アヌッカが問うと、エフィジェニオは真面目な顔で頷いた。
「はい。月食の陰がもっとも深くなる瞬間、願いの響きと月種の眠りが噛み合えば、灯へ変わります」
「噛み合わなければ」
「起きません。あるいは、極端に弱い光しか出ない」
ロイトがそこへ加わる。
「だからこそ、今夜は“綺麗な言葉”ではなく“必要な言葉”を使う」
「はい」
「お前が読め」
「私が?」
「そのためにここまで来た」
アヌッカは息をのむ。
月食の夜の中心で、願い札を読む役目。王都なら、身分ある神官か、もっと形式を知る者へ任される仕事だろう。だがルーンサンドは彼女をそこへ立たせる。
「……できます」
声が震えないようにして答える。
「やります」
ロイトは短く頷いた。
「私がそばにいる」
その一言が、何よりの支えだった。
やがて月は大きく欠け、広場へ落ちる光が目に見えて薄くなる。
海の黒が深くなり、灯台の白がいっそう鋭く見えた。魔導灯のいくつかが、まるでそれに呼応するように不安定に明滅しはじめる。町のあちこちから、わずかなざわめきが上がる。
「北側、補助灯が一つ落ちた!」
見張りの声が飛ぶ。
「予備線へ回せ」
ロイトが即座に返す。
「ジャファル、右の灯盆!」
「おう!」
空の異変と地上の対応が、同時に走り始めた。
アヌッカは祭礼台へ上がる。
手の中の札は、どれも見慣れた文字だ。だが今夜は重みが違う。一枚一枚の裏に、書いた人の顔がある。網繕い小屋の年長の女、灯台兵の青年、娘の嫁ぎ先を案じる魚屋の親父、怖がりの子どもを抱く母親。
形式ではない。
生活だ。
そして、ここで守りたいものそのものだ。
ポリミリスが静かに告げる。
「時が来ます」
月はほとんど闇に食われていた。
空全体が息を潜めたようになる。海も、灯も、人も、一瞬だけ音を失った。
「今です!」
アヌッカは最初の札を掲げた。
「一人も欠けず、明日の朝を迎えられますように」
声は広場を渡り、海へ向かう。
その瞬間、白い月種のひとつが小さく震えた。
次の札。
「家族と食卓を囲めますように」
今度は青い種がかすかに光る。
次。
「灯が遅れず、帰る道を照らしますように」
金の月種が、内側から熱を帯びたように明るさを増す。
ざわり、と人々が息を呑む気配が広がる。
アヌッカは止まらない。止まれば、王都で切り捨てられたあの日へ戻りそうだった。だから前だけを見る。ここで聞いた願いを、そのまま届ける。
「怖がる子どもの涙が少しでも早く乾きますように」
「孫の咳が春までひどくなりませんように」
「仲間が一人も海に呑まれませんように」
「明日の鍋にも温かいものが入りますように」
読むたびに、月種が呼応する。
白が青へ、青が金へ、金が灯へ変わるように、盆の中の光が少しずつ強まっていった。
「すごい……」
エフィジェニオが掠れた声を漏らす。
「起きている……ちゃんと」
だがその時だった。
北の坂道の先で、突然、大きな音がした。
灯台へ繋がる補助線のひとつが、眩い火花を散らして切れたのだ。
「線が!」
「誰か触ったぞ!」
「北側だ!」
ざわめきが一気に恐慌へ変わりかける。
ロイトの顔が厳しくなる。
「ポリミリス、場を止めるな!」
「はい!」
「ジャファル、右手の予備灯を上げろ! ジーギルデ、転倒者に備えろ!」
「承知!」
「アヌッカ!」
名を呼ばれ、アヌッカは顔を上げる。
「読むのを止めるな」
「でも」
「止めれば月種が眠る」
「……はい!」
ロイトはそのまま北の坂へ駆け出した。
外套が夜気を切る。灯台兵たちも後を追う。彼の姿が霧の中へ消えかける寸前、アヌッカには、あの人がまた一人で全部抱えようとしているのがはっきり見えた。
だが今は追えない。
自分の役目がある。
アヌッカは息を吸い、もう一枚の札を掲げた。
「灯が消えても、人の心まで消えませんように!」
その言葉は予定していた文面ではない。
今、この場で、自分の胸から出た言葉だった。
反応したのは、あの砂浜で拾った特別な金の月種だった。
それは他のどれより強く脈打ち、ひときわ大きな光を放つ。
「続けて!」
ポリミリスが叫ぶ。
「今です!」
アヌッカは次々と読む。
生活の願い、恐れの願い、帰りたい願い、笑っていたい願い。
誰かを格好よく見せるためではない。
誰かが明日も生きるための言葉だ。
すると祭礼台の中央、起灯台の芯が、ぼうっと青白く起き上がった。
「点いた……!」
アレンが泣きそうな声を出す。
だがまだ足りない。
灯は細く、風が吹けば消えそうだ。しかも北の坂では、まだ騒ぎが続いている。誰かが本当に補助線へ手を入れたのだ。
その時、ジャファルが広場の端から大声を張り上げた。
「捕まえたぞ! セルギオだ!」
月光に代わる灯の下、引きずられるようにして現れたのはセルギオだった。
顔は蒼白で、手には切断具のような小さな器具。どう見ても言い逃れはできない。
「違う、私は命じられて」
「誰に」
ポリミリスが冷たく問う。
「それは、その」
「答えろ」
セルギオは観念したように肩を落とした。
「ベルノア夫人だ……王都の祭礼へ灯力を優先的に回すため、北方の月種を眠らせろと。願文の見本も、差し入れの文句も、全部……あの人が」
ざわめきが広場を走る。
「リディベルは知っていた?」
アヌッカが思わず問う。
「一部は……。でも彼女は、自分がうまく立ち回れば侯爵へ取り入れることもできると……」
言葉は最後まで続かなかった。
ジャファルが「最低だな!」と怒鳴り、周囲の空気も冷え切っていく。
ベルノア。
やはり、あの人だった。
アヌッカは一瞬だけ目を閉じた。
王都で自分を便利に使い、追い出した人。北方の灯までも見栄えと都合で削ろうとした人。その影がこんなに遠くまで伸びていたことへ、怒りと、ようやく終わらせられるかもしれないという熱が同時に湧く。
「アヌッカさん!」
エフィジェニオの声で我に返る。
「光が、まだ不安定です!」
見ると、起灯台の火は確かに起きている。だが北の補助線が切れたせいで、町の端々まで届くにはまだ弱い。
その時、霧の坂道の向こうから、再び人影が駆け下りてきた。
ロイトだった。
肩で息をしている。袖に煤がつき、片手には切り離された導線、もう片手には予備の金具。どうやら自分で応急接続を終えて戻ってきたらしい。
「北は繋いだ!」
低い声が広場へ響く。
「今なら通る!」
アヌッカは最後の一枚を握る。
手が震える。
怖い。
失敗したらどうしようと思う。
でも、ここまで来たのだ。
ロイトが祭礼台の下から見上げる。
目が合う。
そのまま彼は、周囲にも聞こえる声で言った。
「アヌッカ。届けろ」
背中が、まっすぐ伸びた。
アヌッカは最後の札を掲げる。
これは誰か一人の札ではない。食堂の壁に集まった願いを見て、自分で書き起こした一枚だった。
「この町で生きる願いが、誰にも削られず、灯となって届きますように!」
読んだ瞬間、金の月種が一斉に光を放った。
起灯台の芯が、青白い細火から、あたたかな金の灯へ変わる。
その光は一本の筋となって補助線へ走り、坂を上り、灯台へ届き、そして港中の魔導灯を順に目覚めさせていった。
ぱっ。
ぱっ。
ぱっ、と。
消えかけていた灯が次々に起きる。
広場の端。
食堂の前。
北の防波堤。
石段の途中。
遠くの桟橋。
そして最後に、灯台の白い光がひときわ強く夜を裂いた。
歓声が上がる。
誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが肩を叩き合う。
アレンは本当に泣いていたし、ジャファルはなぜか自分の手柄みたいな顔をし、マグブラは「うるさい」と言いながら目元をぬぐっていた。
アヌッカは祭礼台の上で、しばらく動けなかった。
灯が起きた。
願いが届いた。
見栄えではなく、生活の言葉で。
「終わった……?」
自分でも頼りない声が出る。
「いや」
ロイトが祭礼台へ上がってくる。
「始まった」
その答えは、この町の人らしいと思った。
灯が守られたから終わりではない。これからまた、明日の朝へ向かって生きていくのだ。
だがアヌッカにとっては、たしかにひとつ終わっていた。
王都で削られ続けた自分の言葉が、今夜ようやく役目を得たのだ。
祭礼がひと段落し、セルギオは見張り付きで拘束され、証拠の器具や灯脂はすべて押さえられた。リディベルの姿はどこにもなかった。逃げたのか、宿へ戻されたのかはまだわからない。だが今夜の勝敗は、もう誰の目にも明らかだった。
人々が灯の様子を確かめに散り、広場の中央が少し静かになる。
月はまだ食の中にある。空は暗いのに、町の灯があるだけで不思議と寒さの質まで変わっていた。
ロイトがアヌッカの前へ立つ。
「怪我は」
「ありません」
「喉は」
「少しだけ熱いです」
「後で茶を」
「やっぱりそこなんですね」
「当然だ」
そこでようやく、二人とも少し笑った。
広場の隅ではまだ人が動いている。完全に二人きりではない。けれど今、話さなければきっとまた忙しさが割り込む。そう思った瞬間、ロイトが静かに口を開いた。
「終わったら話したいと言ったな」
「はい」
「先に言う」
月食の夜の灯が、彼の横顔を照らす。
冷たく見えた眼差しの奥にあるものが、今はもう隠れていなかった。
「私は、お前をこの町の臨時願文師として必要としている」
「……はい」
「だが、それだけではない」
低い声が、はっきり続く。
「気づけば、お前が食べたか、冷えていないか、無理をしていないかばかり見ていた」
「はい」
「声が聞こえると安心する」
「……はい」
「怒ると怖いが、笑うともっと困る」
「それは」
「知っている。変な言い方だ」
けれどロイトは目をそらさなかった。
「私は、お前が好きだ」
世界が、一瞬だけ静かになった気がした。
海の音も、人の声も、灯のうなりも、全部遠くなる。
アヌッカの胸の奥で、長く抱えていたものが一度にほどける。
驚きはない。嬉しさも、安堵も、苦しさも、全部ずっと前からあった。ただ今、ようやく名前を持っただけだ。
「……私も」
喉が少し詰まる。
「好きです、ロイト様」
言ってから、すぐに言い直す。
「ロイト」
その名を、今度はちゃんと呼ぶ。
ロイトの目が、ほんのわずかに見開かれる。
それから、今まででいちばんやわらかな表情になった。笑う、というより、長く張っていたものが解けた顔だった。
「そうか」
「はい」
「……よかった」
その一言が、たぶん今夜いちばん甘い。
アヌッカは思わず笑う。
「今の、すごく自然でした」
「何がだ」
「言葉です」
「それはよかった」
「成長しましたね」
「お前は本当に……」
「失礼ですか」
「少し」
「でも好きでしょう?」
「……否定できない」
月食の夜の告白としては、少し締まらない。
けれど、そういうところまで二人らしいと、アヌッカは思った。
風が吹く。
ロイトは反射みたいにアヌッカの肩掛けを整え、それから自分の手を少しだけ止めた。触れたいのに、乱暴にはしたくないという逡巡が見える。
アヌッカはその手へ、自分からそっと指先を重ねた。
冷えた夜の中で、その手だけが不思議なくらい確かだった。
灯は起きた。
願いは届いた。
そして今、二人の気持ちもようやく言葉になった。
月はまだ欠けている。
けれど、ルーンサンドの夜はもう暗くなかった。




