第13話 夜明けのざまぁは潮風とともに
月食の夜が明けるころ、ルーンサンドの空は驚くほど澄んでいた。
昨夜まで町を覆っていた霧は、まるで長く息を止めていた者がようやく吐き出したみたいに、沖のほうへ薄くほどけている。灯台の白い光は夜の役目を終えつつあり、代わりに東の水平線から、冷たく淡い朝日が少しずつ滲み出していた。
港の魔導灯は、まだ消えていない。
むしろ、昨夜より安定しているように見える。
坂道の途中の灯も、食堂前の灯も、北の防波堤沿いの灯も、ふらつかずに朝を迎えていた。
「……点いてる」
アレンが食堂の前で呟く。
「全部」
「ええ」
ハウケアが静かに答える。
「ちゃんと、朝まで」
その場にいた誰もが、少しの間だけ何も言えなかった。
昨夜の灯は一時しのぎではなかったのだ。本当に起きたのだ。眠っていた月種が、皆の願いで。
やがて港のあちこちから、じわじわと歓声が広がる。
大声で叫ぶ者もいれば、黙って涙を拭う者もいる。抱き合うほどではないが、隣の肩を叩き、灯を見上げ、同じ朝を迎えたことを確かめ合っている。
アヌッカは食堂の壁に残った願い札を見上げ、胸の奥で何かがようやく落ち着くのを感じた。
終わった。
本当に。
見栄でも、取り繕いでもなく、この町の願いが届いたのだ。
「起きていられますか」
声に振り向くと、ポリミリスが湯気の立つ杯を持って立っていた。さすがに今朝は彼も隠しきれないほど疲れている。けれど背筋だけは、いつも通りきっちり伸びていた。
「少し、夢みたいです」
アヌッカが答える。
「その状態で立ったまま眠られても困りますので、まず飲んでください」
「また温かいものですね」
「ロイト様の指示です」
「やっぱり」
「今朝は三回言われました」
「三回」
「“茶を飲ませろ”“座らせろ”“食べさせろ”の順で」
「……細かい」
「ええ。実に細かいです」
そう言いながらも、ポリミリスの声にはどこか安堵が混ざっていた。
杯の中身は、昨夜より少し甘みを足した薬草茶だった。喉を通ると、夜通し張りつめていた身体がようやく“朝になった”と理解する。
「ロイトは?」
もう“様”をつけないでいいのか迷い、言い淀みながら尋ねる。
ポリミリスはそこを面白がるような人ではなく、何事もなかったように答えた。
「セルギオの取り調べと、宿の整理です」
「リディベルは」
「逃げようとしましたが、宿の裏口でアレンさんに見つかり、回り込んだジャファルさんが捕まえました」
「……すごい連携ですね」
「ルーンサンドですから」
妙に納得してしまう答えだった。
朝の広場では、昨夜の出来事を正式に記録するため、簡単な聞き取りが行われていた。灯台兵が補助線の切断地点を確認し、ポリミリスの補佐役たちが押収した器具や灯脂を並べ、旧祈祷庫へ火を入れようとした証拠がひとつずつ整理される。
その中央へ、セルギオとリディベルも連れてこられた。
セルギオは昨夜よりさらに覇気を失い、髪も乱れたままだった。もう“事情があって”の顔すら作れないらしい。一方のリディベルは、朝になっても背筋を崩していなかったが、その目元には眠れなかった痕がはっきり残っている。完璧な顔を保とうとしても、港の朝日は容赦がない。
「王都へ送る前に、確認だけ取る」
ロイトの声は、朝の空気より冷たかった。
彼は広場の中央に立ち、押収した器具を示す。
「補助線の切断具、灯脂、旧祈祷庫の鍵写し、王都祭礼用の見本文。これらを持ち込み、昨夜、旧祈祷庫へ火を入れようとした」
「誤解ですわ」
リディベルがすぐに言う。
「火を入れるなんて、そんな野蛮なこと」
「ならなぜ灯脂が必要だった」
「灯りのためよ」
「祈祷庫の中にか」
「夜道が」
「その言い訳は昨夜聞いた」
ロイトが切る。
彼は次に、セルギオへ視線を向けた。
「お前は昨夜、“ベルノア夫人の指示だ”と証言したな」
「……」
「撤回するか」
セルギオは唇を震わせたが、広場を囲む港の人々の目に耐えきれなかったのだろう。俯いたまま、小さく首を振る。
「撤回は、しない」
「なら改めて言え」
「ベルノア夫人が……王都の祭礼で優位に立つため、北方の願文を整えさせ、月種を眠らせるよう……」
「整えさせ、ではありませんね」
アヌッカは思わず口を挟んだ。
「削らせた、です」
セルギオが顔を上げる。
その目には怒りでも未練でもなく、ただ追い詰められた者の濁りがあった。
「……そうだ。削らせた」
「誰の願いを?」
「北方だけじゃない。王都でも、祈祷院へ持ち込まれる願文のうち、人前で読まれるものは……大半が」
「見栄え優先で」
「そうだ」
広場の空気が、一段重くなる。
願文の改竄は北方だけではなかった。王都でも当たり前のように行われていた。ベルノアが黒幕だとしても、それを許す土壌がずっとあったのだ。
リディベルはそこで、最後の抵抗のように扇もない手を胸元へ当てた。
「でも、それは皆のためだったのよ。神前にふさわしく、美しく見えるようにしただけ」
「皆のため?」
アレンが低く繰り返す。
「うちの食堂の札を燃やそうとしたのも?」
「それは……誤解」
「“北方の願いは野暮ったいから整えたほうがいい”って思ってたんでしょ」
マグブラが腕を組む。
「香りの強い菓子でごまかしてまで」
「わたくしは、王都流を教えて差し上げようと」
「いりません」
アヌッカがはっきり言う。
「昨夜、灯は起きました」
リディベルの眉がぴくりと動く。
「私たちの願いで。生活の言葉で」
「それはたまたま」
「たまたまではありません」
今度はポリミリスが淡々と続けた。
「昨夜の月種反応、起灯台の出力、補助灯への伝播、すべて記録済みです。王都向けの見本文を混ぜた過去数年との比較も取れます」
「……」
「数字でも、負けです」
その一言は、リディベルにとってかなり堪えたらしい。
感情ではなく、記録で負けたと言われたのだ。社交界では、印象さえ勝てば押し通せることもある。だがルーンサンドは違う。灯が点いたか、点かなかったか。それがすべてだった。
広場の隅では、昨夜の代表札がまだ風に揺れている。
『家族と食卓を囲めますように』
『一人も欠けず、明日の朝を迎えられますように』
その文字を見てから、アヌッカはリディベルへ向き直った。
「あなたはずっと、“良く見えること”が先でした」
「それの何が悪いの」
リディベルはとうとう取り繕うのをやめた。
「見られてこそ価値があるのよ。気に入られてこそ、生き残れる。そうでしょう?」
「王都では、そうだったかもしれません」
「なら」
「でも、ここでは違います」
アヌッカは静かに言う。
「ここでは、帰ってきたかどうかが大事なんです。鍋に温かいものがあるかどうかが。子どもが泣きやむかどうかが」
「そんなの、地味じゃない」
「はい」
アヌッカは頷く。
「でも、生きるってそういうことでした」
その言葉に、広場の誰かが小さく「そうだな」と呟いた。
リディベルは、そこで初めて完全に言葉を失った。
派手であること、印象的であること、上手に匂わせること。それらでは越えられないものが、この町にはあるのだと、ようやく理解したのだろう。
ロイトが締めるように告げる。
「二人は王都へ送る。証拠と証言も添える」
「ベルノア夫人へ直接?」
ハウケアが問う。
「王都の祈祷院と、関係各所へ同時だ」
ポリミリスが答える。
「一人に握り潰されないように」
「さすが」
アレンが感心する。
「潰される前提なんですね」
「王都ですから」
ポリミリスの返答は静かだが、一切の遠慮がなかった。
セルギオは護送役に挟まれながら、最後に一度だけアヌッカのほうを見た。
けれどそこに、もう縋る言葉はない。
アヌッカもまた、何も返さなかった。
戻らない。
もう、自分の願いを後回しにする場所には。
リディベルが連れていかれるとき、ふいに振り返って言った。
「あなた、運がよかったのよ」
「いいえ」
アヌッカは首を振る。
「運だけではありません」
「じゃあ何」
「選んだんです」
自分の声が、こんなにも落ち着いていることに驚く。
「ここで生きることを。自分の言葉で話すことを」
リディベルは苦い顔をした。
それが答えだった。
二人が馬車へ乗せられていくのを見送ったあと、広場の空気はようやく本当にほどけた。
「終わったあああ」
ジャファルがその場へ寝転ぶ。
「まだ終わってないわよ、片づけ!」
アレンがすぐに蹴る。
「いたっ! 功労者に厳しい!」
「功労者は床じゃなくて灯を見なさい」
「理不尽!」
「理不尽でも動く!」
笑い声が戻る。
その戻り方が、昨夜までよりずっとやわらかい。
アヌッカはようやく肩の力を抜いた。
その途端、今度は眠気と疲れがどっと押し寄せる。膝が少しだけ揺れて、危うくその場でへたり込みそうになった。
「座れ」
すぐ近くでロイトの声。
次の瞬間には、当然のように肘を支えられていた。
「大丈夫です」
「今のは大丈夫ではない」
「少しだけ、気が抜けて」
「だから座れ」
有無を言わせない口調で、広場の端の木箱へ座らされる。
アヌッカは苦笑しながら肩をすくめた。
「昨夜の告白のあとでも、最優先はそこなんですね」
「何がだ」
「食べたか、冷えていないか、倒れないか」
「当然だ」
「好きな相手への気遣いにしては、ずいぶん実務寄りです」
「実務が抜けると倒れる」
「それはそうですね」
「だから実務は大事だ」
あまりにも真顔なので、アヌッカは笑ってしまう。
「でも、そういうところが好きです」
言ってから、自分で顔が熱くなる。
広場の喧騒に紛れて聞こえないかと思ったのに、ロイトはしっかり聞いていたらしい。ほんの少しだけ目を逸らした。
「……お前は時々、不意打ちが過ぎる」
「お返しです」
「何の」
「昨夜の」
「そうか」
それだけなのに、ロイトの耳がまた赤い。
わかりやすすぎて、愛おしくなってしまう。
少しして、ハウケアが毛布を一枚持ってきた。
「はい、これ」
「ありがとうございます」
「礼はあと。今日の午後、まだ少しやることがあるわ」
「まだ?」
「ええ。食堂の壁の願い札を、今度は正式な記録として残すの」
「残せるのですか」
「残すのよ」
ハウケアは当然のように言う。
「今年の月食を起こした願いだもの。来年以降の誰かが、自分の願いを恥ずかしく思わないために」
その言葉に、アヌッカは胸が熱くなる。
去年までなら、こうした願いは“整え直される前提”だった。
けれど今は違う。
残すために、ちゃんとそのまま書き留める。
それ自体が、この町の未来になるのだ。
午後、港が少し落ち着いたころ、食堂の壁から札を外す作業が始まった。
一枚ずつ、丁寧に。
どの札も、ただの紙切れではない。昨夜、灯を起こした言葉たちだ。
アヌッカは卓へ向かい、それらを書き写していく。
最後に自分の手元へ残ったのは、昨夜の決め札だった。
『この町で生きる願いが、誰にも削られず、灯となって届きますように』
少しだけ迷ってから、アヌッカはその下へ小さく追記した。
『そして、その願いを抱く人たちが、明日も笑って食卓を囲めますように』
書いてから顔を上げると、向かいにロイトが立っていた。
「増えている」
「はい」
「必要だと思いました」
「……そうだな」
彼は紙へ目を落とし、それからごく低い声で言う。
「その願いの中に、私も入っているか」
不意打ちすぎて、アヌッカは筆を落としかけた。
「はい」
やっと答える。
「もちろん」
「ならいい」
それだけなのに、昨夜の告白より少しだけ甘い気がした。
灯は守られた。
ベルノアたちの企みも、ようやく王都へ向けて暴かれる。
けれどそれだけではない。
ルーンサンドには、願いをそのまま残そうとする朝が来た。
アヌッカには、自分で選んだ人と、自分で選んだ居場所がある。
そのことが、朝よりも午後よりも、今いちばん確かな光に思えた。




