第14話 私の願いで選ぶ未来
月食から三日後、ルーンサンドの朝はまだ少しだけ忙しかった。
魔導灯は安定している。北の防波堤の灯も、食堂前の灯も、灯台へ向かう坂の途中の灯も、もう不安そうには瞬かない。けれど人のほうは、安心したぶん後回しにしていた仕事が一気に戻ってきて、港じゅうが朝からよく働いていた。
食堂では幸せ丼の鍋が昼前から二つ並び、願い札の壁は一度外されたあと、今度は“今年の月食を起こした願い”として木枠へきちんと収められ始めている。網繕い小屋の年長の女は「孫があの札を見て、自分で字を覚えたいって言い出したよ」と誇らしげで、アレンは「だったら読み書きの場所が必要じゃない」と当然のように言い出していた。
その言葉を聞くたび、アヌッカの胸の中で同じ思いが少しずつ形になる。
願いを書いてもらうだけではなく。
誰かに整えてもらうだけでもなく。
自分で、自分の願いを言葉にできるようになる場所。
それを、この町につくれたら。
午前の終わりごろ、ポリミリスが一通の封書を持って食堂へ現れた。
「王都からです」
「もう?」
アヌッカが目を丸くする。
「早馬を使いましたので。開けますか」
「……はい」
封蝋は祈祷院のものと、王都の監査局のもの、さらに子爵家の簡易印が重ねられている。嫌な予感がないわけではなかったが、今のアヌッカは以前ほど手が震えなかった。
中には三枚の文書が入っていた。
一枚目は、王都祈祷院から。
ルーンサンドの月食時における願文改竄の件、ならびに過去の祭礼文面改変の件について、正式に調査を開始するという通達。
二枚目は監査局。
ベルノアの関与、祈祷院書記への不正な指示、月種と灯力運用に関する不当介入について、召喚と聴取が命じられたという報せ。
三枚目は、子爵家からだった。
差出人の名はベルノアではなく、家名のみ。
内容は短い。
『これまでの行いにより家名へ損失をもたらした者につき、家内の整理が必要となった。王都への即時帰還は求めない』
つまり、都合よく使う手が消えたから今は戻らなくていい、というだけだ。
「最後まで、言い方が」
アヌッカは苦笑した。
「ええ」
ポリミリスも頷く。
「ですが、実質的には追及が始まったということです」
「ベルノアは」
「しばらく王都から動けないでしょう」
「……そうですか」
胸がすく思いがまったくないわけではない。
だが、それ以上に大きかったのは、“もう戻る場所ではなくなったのだ”という静かな実感だった。
王都は過去になりつつある。
大切なのは、これからどこで何を選ぶかだ。
昼過ぎ、アヌッカは食堂の裏手にある空き部屋を見に行った。
もともとは帳簿や食器の予備を置いていたらしい小さな部屋で、窓は海と港の両方が少し見える。広くはない。けれど机を二つ並べ、小さな棚を置き、壁際に札を掛ける紐を渡せば、読み書きの稽古くらいなら十分にできそうだった。
「ここが気になるの?」
後ろからハウケアが声をかける。
「はい。少しだけ、考えていて」
「読み書きの部屋?」
マグブラがすぐに察した。
「え」
「顔に書いてあるわよ。“子どもに字を教えたい”って」
「そんなにわかりやすいですか」
「わかりやすい」
今度はアレンまで頷く。
「この部屋なら、昼の仕込みが落ち着いたあと使えるわ。夕方前なら子どもも来やすいし」
「でも、勝手に決めていいのでしょうか」
「誰に聞けばいいと思う?」
ハウケアが問う。
「ロイト……でしょうか」
「じゃあ聞きなさい」
「簡単におっしゃいますね」
「簡単よ」
アレンがにやりと笑う。
「だってあの人、アヌッカに“だめ”って言える顔してないもの」
「そこまででは」
「そこまでです」
マグブラが即答した。
結局その日の夕方、アヌッカは執務舎へ向かった。
月食が終わっても、ロイトは相変わらず忙しい。押収品の整理、王都向けの報告文、補助灯の恒久修理、見張り体制の見直し。机の上には紙が山のように積まれているのに、彼はその間から顔を上げた瞬間、すぐにアヌッカだとわかる目をした。
「どうした」
「お忙しいところ、すみません」
「そういう前置きのときは、大抵すでに決めている顔だな」
「……わかりますか」
「見ればな」
やはりこの人には通じない。
アヌッカは小さく息を吸い、考えていたことを話した。
食堂の空き部屋のこと。
読み書きと一緒に、“自分の願いを言葉にすること”を子どもたちへ教えたいこと。
整えてもらわないと願いを言えない子ではなく、自分の口で、自分の字で言える子が増えたら、この町の灯ももっと強くなるのではないかと思うこと。
話し終えるまで、ロイトは一度も口を挟まなかった。
「……どうでしょうか」
最後に問うと、彼は静かに答える。
「やるべきだ」
「いいのですか」
「いい、ではない」
「え?」
「必要だ」
その言い方が、妙にうれしい。
「ただし」
ロイトは続ける。
「机と棚は足りない。窓際の隙間風も塞ぐ必要がある」
「もう前提が具体的ですね」
「考えた」
「今、ですか」
「お前が話している間に」
「早い」
「必要なことはすぐ考える」
真顔で言うので、アヌッカは笑ってしまう。
「ありがとうございます」
「礼はまだだ」
「では何を」
「形になってからでいい」
「はい」
そこで会話が終わるかと思った。
けれどロイトは、机の端を指先で軽く叩き、それからわずかに視線を逸らす。
「それと」
「はい」
「以前、私は求婚を考えていた」
「……以前?」
「月食前からだ」
さらりと言うことではない。
アヌッカは思わず息を呑む。
「だが」
ロイトは低く続ける。
「灯が守られる前に肩書きで縛るのは違うと思った」
「……はい」
「それに、お前は王都で“肩書きで選ばれる結婚はもうたくさんだ”と言う類の顔をしていた」
「そんな顔まで」
「見ていた」
その一言へ、胸がまた静かに熱くなる。
「だから改めて言う」
ロイトは立ち上がった。
執務舎の窓から入る夕暮れの光が、彼の横顔を淡く縁取る。
「私は侯爵だ」
「はい」
「だが、その肩書きで返事をさせたいわけではない」
「……はい」
「一人の男として、お前の隣にいたい」
言葉は少ない。けれど誤魔化しがない。
「食べたか気にして、冷えていないか確かめて、無理をしていたら止めて、笑っていたら少し困って、それでもずっと見ていたい」
「十分重いですね」
「知っている」
「でも」
アヌッカは小さく笑う。
「嫌ではありません」
ロイトの目が少しだけ揺れた。
「すぐに結婚を決めなくていい」
彼はさらに言う。
「一年」
「一年?」
「一年だけ、肩書き抜きで隣にいさせてくれ」
それは、plotで描かれていたまさにその言葉に近い。いや、いまユーザーは本文を作成しているから明言不要。 But it's okay as in story.
「その先の返事は、お前が自分で決めればいい」
「一年、ですか」
「長いか」
「いいえ」
アヌッカは首を振った。
「ちょうどいいです」
「そうか」
「はい。私はもう、誰かに決められた形で選ばれたくありません」
「知っている」
「でも、自分で選んだ未来なら」
「……ああ」
「その隣に、あなたがいてほしいです」
自分で言ってから、顔が熱くなる。
だがロイトは今度こそ、はっきり笑った。
初めて見る、きちんとした笑顔だった。
冷たく見えていた眼差しがほどけ、長く抱えていたものがようやく軽くなったみたいな顔。
「では一年だ」
「はい」
「その間に、読み書きの部屋も整える」
「そこも一緒なんですね」
「当然だ」
「恋と実務が並列ですね」
「実務が抜けると部屋が寒い」
「たしかに」
「それに」
ロイトは少しだけ言い淀み、しかし逃げなかった。
「お前の願いを叶える手伝いをするのは、私の望みでもある」
その言葉に、アヌッカはふっと息を吐いた。
王都では、自分の力は“利用されるもの”だった。
ここでは違う。願いそのものを支えてくれる人がいる。
数日後、食堂の裏手の空き部屋には、小さな机が三つ並んだ。
ハウケアが窓の隙間を布で塞ぎ、アレンが子ども向けの軽いおやつを置き、エフィジェニオが鉢植えの灯草を窓辺へ置き、マグブラが“字を書くときに眠くならない香り”だと言って控えめな香草袋を吊るした。
初日に来たのは五人。
網繕い小屋の孫娘、灯台兵の弟、魚屋の末の子、荷運びの姪、そしてアレンの店を手伝う小柄な少年。
「ここではね」
アヌッカは最初の一枚の紙を前に言う。
「うまい字を書くことより先に、自分が何を願っているかを大事にします」
「へんな願いでも?」
魚屋の末の子が聞く。
「へんでもいいの?」
「いいです」
アヌッカは笑って頷く。
「誰かに笑われるかもしれないと思う願いほど、大事なことがありますから」
「じゃあ、ぼく」
灯台兵の弟が、おそるおそる手を挙げる。
「兄ちゃんが、無茶してもちゃんと帰ってきますように、って書きたい」
「ええ。とてもいい願いです」
小さな部屋に、紙の擦れる音が満ちる。
ぎこちない字。
途中で止まる手。
考え込む顔。
それでも誰かが自分で、自分の願いを書こうとしている。
その光景を見た瞬間、アヌッカは胸の奥で静かに思った。
ここに残ってよかった、と。
夕方、授業が終わったあと、ロイトが扉の外で待っていた。
子どもたちが帰ると、彼は部屋の中をぐるりと見回す。
「どうだ」
「いい部屋です」
「寒くないか」
「そこからですか」
「大事だ」
「今日は大丈夫です」
「ならいい」
部屋の隅には、初日に子どもたちが書いた願い札が、小さな紐へ並んでいる。
『兄ちゃんが無茶しても帰ってきますように』
『お母さんの手が冬でも切れませんように』
『今日のおやつが明日もありますように』
ロイトはそれを見て、ごく自然に言った。
「強いな」
「はい」
「小さい字でも、ちゃんと届きそうだ」
「届かせます」
「お前が?」
「皆で、です」
ロイトは頷く。
それから、部屋の扉を閉め、誰もいないのを確かめるみたいに一拍置いた。
「アヌッカ」
「はい」
「今日は食べたか」
「食べました」
「冷えていないか」
「大丈夫です」
「無理は」
「していません」
「……そうか」
問診みたいだと思って、アヌッカは笑う。
「では今度はこちらから」
「何だ」
「今日は、私のことを見ていてくれましたか」
「当然だ」
「即答」
「見ていた」
ロイトは真顔で答える。
「子どもに話すときの声も、字を褒めるときの目も、この部屋に立っている顔も」
「それはもう」
「何だ」
「だいぶヤバイ想いですね」
「……ポリミリスか」
「少しだけ借りました」
ロイトは一瞬だけ黙り、観念したみたいに息を吐く。
「否定はしない」
「でしたら」
アヌッカは一歩だけ近づく。
「一年、よろしくお願いします」
「ああ」
「肩書き抜きで」
「ああ」
「一番大事にする男として」
「……ああ」
最後の相槌だけ、ほんの少し掠れていた。
アヌッカはもう笑いを堪えられなかった。
好きだと思う。こんなふうに不器用で、実務が先で、けれど大事なところで逃げない人を。
窓の外では、月食を越えたあとの月が、きれいな輪郭を取り戻していた。
恋愛運最悪のおみくじを引いたあの日から、ずいぶん遠くまで来た。
誰かに選ばれるのを待つのではなく。
自分で居場所を選び、
自分で願いを言葉にし、
自分で好きだと伝えられる場所へ。
王都で削られてきた願いは、もうここにはいらない。
代わりにルーンサンドには、潮の匂いのする灯と、あたたかな鍋と、小さな学び舎と、隣に立つ人がいる。
アヌッカは窓辺へ立ち、夜の港を見渡した。
灯が点いている。
人が帰っていく。
どこかの食卓で、きっと湯気が上がる。
その景色の中で、ようやく自分の願いを胸を張って言える気がした。
この町で。
この人と。
私の幸せを、私が選んで育てていきたい。
そう思った瞬間、窓辺の月種が小さくひとつ、やさしい金の光を返した。




