鴨居廉
「痛っ……!」
側頭部に激痛が走り、思わず声が出た。覚悟はできていたけど、簡単に我慢できる痛みじゃなかった。
「だから染みるって言ったじゃないですか」
田村はそう言って可笑そうに笑う。
「分かってても痛いものは痛いんだよ」
旧校舎で最後の仕事を終えた後、田村は俺の家に来て傷の治療をしてくれていた。
俺は椅子に座って田村に頭を差し出して、消火器を食らって出血した側頭部に消毒液をつけられた。
こんな空っぽになった家へ、まさか人を招くことになるなんて。
一通りの治療を終えた田村は、もはや定位置になったベッドに腰掛けた。
「今回は巻き込んでごめん」
田村に捕らえられた経緯を聞くと、帰宅しようと校舎を出たところで、怪しいスーツの男に声をかけられたらしい。そのスーツの男とは、間違いなくリオだろう。そして、その男に何かされたと思ったら、気づけば旧校舎に運ばれていたということだった。
「たしかに怖かったけど、ちょっと役得だったかも」
「役得?」
「もしかしたら、鴨居先生はもう会ってくれないのかもって思ってたから」
パタン、と、田村は救急箱の箱を閉じた。
荷物のほとんどが段ボールにしまわれたこの家で、これだけはまだ使えるように残しておいて良かったと思う。
「そんなこと、あるわけないよ」
「本当に?」
田村の瞳に、片づけられたこの部屋が映るのが分かった。疑われるのも無理はないと思う。
「別に田村の前から逃げるわけじゃないよ。ただ、俺はこれ以上この街にいちゃいけないと思ったから」
田村は救急箱を膝に抱えると、どこか寂しそうに目を伏せた。
「先生は、この街でなにをしていたんですか?」
部屋が突然、静かになった気がした。
気のせいだとは分かっている。
「保乃科のこと、先生にはたくさん話したけど、先生のこと、保乃科は何も知らないよ」
伝えるべきか、わずかに迷った。
どこから伝えればいいのか、どこまで伝えられるのか分からなかった。
それでも俺は、俺を田村に知ってほしいと思った。
「高校生の時、好きな人がいたんだ」
俺はそんな言葉で語りはじめた。
「出かけるのも勉強するのもいつも一緒で、自意識過剰かもしれないけど、たぶん向こうも好きでいてくれたと思う。『この受験が終わったら想いを伝えよう』なんて、一歩踏み出せずにいたんだけど……。突然、彼女が行方不明になったんだ」
自分でも驚くほど冷静だった。
こんな話、今までは思い出すだけでも胸が潰れそうだったのに。
田村は何も言わず、ただじっと真剣に耳を傾けてくれている。
「俺の人生は、そこから歯車が狂った。どうにか大学には入ったけど、ほとんど通わず結局中退。ずっと親の期待には応えてきたから、余計に家には帰れなかった」
言葉にしていると、嫌でも思い出す。
全部を失って、人生のすべてがどうでもよくなっていたあの頃。
「あてもなく街をさまよってたら、突然怪しい男から怪しい仕事に誘われてさ。それが、行方不明の彼女につながる仕事だったんだ」
一気に話をして、俺は一度息を吸った。
「ここまでが、田村に会うまでの話」
「全然、保乃科の知ってる先生と違う」
そう言って笑う田村は、どこか嬉しそうだ。
「俺が教師になったのは、その怪しい仕事の一貫。もちろん、教員免許なんて持ってない」
冗談めかして言うと、田村は「やばー」と笑った。
「最初は俺も、自分が教師なんて意味が分からないと思ってた。けど、いろんな生徒や他の先生と関わるうちに、昔の自分に戻っていく感覚があったんだ」
「確かに。先生、最初の頃とだいぶ印象変わったかも」
「本当は、教師なんてやりたくなくてしょうがなかったからね」
まだ田村と会ったばかりの頃、生徒に興味がない教師だと、痛烈に言われたのを思い出す。最後までちゃんとした教師にはなれなかったけど、少しは人に関心が持てるようになったと思う。
「そんな頃、会ったんだ。ずっと好きだったのに、行方が分からなくなっていた彼女に」
田村の顔から表情が消える。たぶん、もう気づいているだろう。
「あの時、田村が見た人だよ」
莉菜と思い出話に花を咲かせたその別れ際、田村に問い詰められたことを思い出す。
こんな話、田村が嫌がるのは分かっていたけど、ちゃんと伝えておきたかった。
「五年ぶりだったんだけど、すごく綺麗になってたから、少し緊張しちゃって。けど、話してるうちに、やっぱり変わらない部分もたくさんあるって分かって……。俺の恋は、まだ死んでないって気づいたんだ」
田村は小さくくちびるを噛んで、なにかに必死に耐えているように見えた。
「でも、俺はまた一歩を踏み出せずにいる」
除霊師は辞めた。また一から真っ当な人生をやり直そうと決めた。
だけどこの恋心だけは、五年前のあの場所で立ち止まったままだった。
河野も、田村も、犬塚も、みんな前に進んでいるのに、俺一人がまだ昔に囚われたままでいる。
田村は、泣きそうな顔で茶化すように笑った。
「告白しちゃいなよ。もしかしたらその人も、まだ先生のことを待ってるかもしれないよ?」
今さら、どんな言葉で伝えればいいんだろう。
せっかく諦めかけていた再会を果たせたのに、もしも上手くいかなければ、それさえ手放すことになる。そのことがとても怖い。
だけど――。
「遅くないかな。今からでも、伝えていいのかな」
「こういうのに、遅すぎるなんてないんですよ。もし玉砕したら、保乃科がなぐさめてあげますから」
田村の声が少し震えていることには気づいていた。目も赤くなっていて、感情を必死に堪えているのが分かる。
だけど、それには気づかないふりをする。きっとそれがお互いのためだから。
「ほら、こういうのは勢いが大事なんですから。早くスマホ出して」
田村はそう言って、莉菜に連絡をするように催促する。そんな田村の姿に胸が痛んだ。
『話したいことがあるんだけど、近く会えないかな?』
促されるまま、そんなメッセージを送る。
緊張の中、二人で返事を待つ。莉菜から返信が届いたのは、それから五分も経たないでのことだった。




