旧校舎からの旅立ち
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俺は一人、旧校舎の中を歩いていた。
電灯による明かりはなく、窓から微かに差し込む月明かりだけが、ぼんやりと廊下を浮かび上がらせる。床は素材も分からないくらいに黒くくすんで、壁に貼られた掲示物は風化して色あせている。
俺の手の中には武器もライトもない。誰かを探して、そろそろと廊下を進んでいた。
いったい誰のことを探して、いつからここを彷徨っているんだろう。
もう何年も歩き続けているような気もするし、まだ歩き始めたばかりのような気もしてくる。
ふと、廊下の向こうに淡く白い光の塊が見えた。近づいてみると、縦に長いその光は、人間のシルエットに見えた。
顔の部分はのっぺらぼうだが、長く真っ直ぐに伸びる髪の毛と柔らかな曲線のシルエットから、それが女性の姿だと分かる。
顔のない、ただのシルエットでしかない光なのに、俺はその人のことを知っていた。
俺はずっと、この人のことを探していたんだ。
彼女の目の前まで歩いて、手を伸ばせば触れられる距離で向かい合う。いつの間にか、俺の右手には一枚のお札が握られていることに気づいた。
のっぺらぼうのその顔と、右手のお札を交互に見比べる。女性の形をしたその光は、逃げることも抵抗することもせず、ただその場に佇んでいる。
ずっと迷っていた気がする。もし彼女と会うことができたら、自分はどうするべきなのか。
俺は、手の中の札を床に投げ捨てた。答えなんて、とっくに決まっていた。
必要なのはこんな武器じゃない。
淡く光る彼女の手を取る。
その途端、光が瞬いて、それから霧散していった。
やがて、光が消えた場所には一人の少女が残されていた。片側の髪を編み込んだその少女は、目が合うといたずらな笑みを浮かべた。
◆
目を開けると、窓から差し込む月明かりで、ぼんやりと浮かび上がる廊下が見えた。
床は素材も分からないくらいに黒くくすんで、壁に貼られた掲示物は風化して色あせている。
何度も夢に見た光景だ。だけど、たぶんこれは夢じゃない。
顔を上げると、歯を食いしばる犬塚の顔が至近距離であった。目が合うと、その顔がパッと輝く。
「鴨居さ……あっ!」
突然、訳もわからないままに俺は床へ転んでいた。転んだのは、犬塚も一緒だった。
たった今転んでぶつけたところ以外も全身が痛んで、その痛みでさっきまでのことを思い出す。
「そうだ、俺、気絶して……」
階段を上り切ると猿の塵霊が三体いて、ポーチから札を抜こうとした。それが記憶の最後だった。
だけど今、その時とは違う場所にいる。
「もしかして、運んでくれてた?」
倒れた拍子にぶつけたのか、犬塚は赤くなった鼻をさすりながら答えた。
「まあ一応。全然、ちょっとしか進んでないですけど……」
でも、とすぐに思う。
あれだけ強力な塵霊がいたはずなのに、どうやって。
ふと、犬塚の隣に中原の幽霊が浮かんでいることに気づく。なにか邪魔をしようとするわけでもなく、ただ俺たちのことを見守っているように見えた。
犬塚は俺の疑問に気づいたみたいだ。
「中原さんが、鴨居さんのところまで案内してくれたんです。しかも、全然塵霊も襲ってこなくなって」
まさか。
中原が、俺や犬塚を助けてくれたのか。間違いなく、このまま全部が終わるものだと思っていたのに。
「ありがとうございます」
礼を告げると、中原はゆっくりと前に進みだす。
先導しようとしているのだと気づいて、その後ろについていく。まだ全身が痛むけど、ゆっくりとなら歩いていけた。
しばらく廊下を真っ直ぐ進むと、とある教室の前で中原は立ち止まった。
この中にきっと田村がいる。
早くなる心臓の鼓動をなだめながら、ゆっくりと目の前のドアを開ける。
教室の奥へと視線を向けると、そこに彼女の姿はあった。両手を身体の後ろで縛られて、窓際の手すりに括られている。壁に背中をもたれ、目を閉じて眠っていた。外傷はなさそうだ。
机を避けながら、ゆっくりと教室の奥まで進む。
そして、彼女の前で膝をついて、顔を寄せた。
「田村」
名前を呼んでも起きる様子はない。
「保乃科」
今度は呼び方を変えてみる。
人前で改めてそう呼ぶと、なんだかむず痒い気持ちになった。
と、彼女の長いまつ毛がピクリと動いて、ゆっくりと目が開いた。色素の薄い大きな瞳と、すぐ至近距離で目が合った。
にい、と。彼女の顔にいたずらな笑みが浮ぶ。
「来てくれるって、信じてました」
その言葉と表情だけで、全部が報われた気がした。
「帰ろう。もう全部大丈夫だから」
それが、今日まで五年もの間続けてきた仕事の、終わりの合図だった。




