決意
次の日、俺は荷造りを始めた。
気づけば、この街に留まる理由がなくなっていた。
もともと物が少ないこの家は、数箱のダンボールで事足りそうだ。本や衣類を詰めるだけで、あっという間に部屋は家具が残されるだけになった。
退去の手続きはどうしたらいいだろう。そもそも、ここはリオが借りているはずだけど、いったいどんな契約になっているのか。
そんなことを考えていた時、この部屋のインターホンが鳴った。一ヶ月間暮らしてきて、初めて聞いた音だった。
ドアを開けると、家の前に立っていたのはリオだった。
「やあやあ。ごめんね、ご無沙汰になっちゃって」
軽い調子でそんなことを言いながら、ずかずかと家の中に上がってくる。
「あ。鴨ちゃんご期待のお土産だけど、今回はもみじ饅頭ね」
リオの手には相変わらず紙袋が提げられている。こんな時もお土産だけは忘れないらしい。
「どうしたんですか、急に家まで来るなんて」
「そりゃあ来るよ。教師をクビになって、すごく落ち込んじゃってるみたいだったからさ。電話ならできたけど、実際に会って話したかったし」
リオと話をするのは、この仕事から降りたいと電話越しに告げて以来だった。
俺を引き止めに来たのだろうと察しはつく。
「だから、別に落ち込んでなんかないです」
「いやいや、バリバリ落ち込んじゃってるでしょ。部屋の中、家宅捜索に入られたみたいになってるけど」
リオは家主に断りなく、机の前の椅子に座る。いや、名義上の家主はリオになるのかもしれないけど。
「ここを出ていくことにしました。俺には、もうこの場所でやることがないので」
「連絡が遅くなったのは謝るけどさ、諦めるには早いんじゃない? 今、どうにか学校に入れる方法を考えてるからさ」
「俺はもう、塵霊とは戦えません」
常にヘラヘラとした表情を浮かべるリオの顔から笑みが消えた。
「まだそんなこと言ってるの?」
「俺にはもう、塵霊と戦う理由がないんです」
ずっと、塵霊という存在は莉菜の仇だった。だけど、莉菜と再会して、その前提はもう完全に崩れてしまった。
これ以上はもう、理由もなく戦い続けられない。
「鴨ちゃんになにがあったか分からないけどさ、さすがに迷走し過ぎじゃない? 塵霊はその存在自体許しちゃいけない、オレたちにとっての宿敵なんだから」
リオの反応は分かっていたことだった。
リオがどうして塵霊を恨み、いつから戦い続けているのか俺は知らない。それでも、俺よりもずっと深いところで憎しみを持っているのは分かっていた。
「俺もずっとそう思ってました。けど、会ったんです。五年前に塵霊に魂を食べられたはずの人に」
「それって、前に鴨ちゃんが話してくれた大事な同級生のこと?」
リオは自分で持ってきた紙袋からもみじ饅頭の箱を取り出すと、びりびりと包装を開け始めた。
「はい。彼女は魂を食べられたはずなのに、そんなこと、微塵も感じさせない様子で……。塵霊はただ、彼女のことを少し変えただけだった」
「オレ、鴨ちゃんのことは、それなりに気にかけてきたつもりなんだけどなぁ」
取り出したもみじ饅頭を、リオは少し不機嫌そうにむしゃむしゃと食べ始める。
「そのことは、俺も感謝しています。リオさんに出会えなかったら、きっと路頭に迷っていましたから」
「だったら、その恩義は返してくれないの?」
リオはわずかに目を細めて、じっと見つめてくる。その目で見られていると、なにも言えなくなってしまう。
肯定も否定もできずに、しばらくの間沈黙が流れた。
「とりあえず、鴨ちゃんが本気だってことは分かったよ。けど、オレだって貴重な戦力を手放すわけにはいかないんだよね」
「リオさん、俺は――」
「残念だけど、辞めさせてあげないよ。鴨ちゃんはもう、塵霊と戦って生きていくしか道はないんだから」
そう言って、リオは椅子から立ち上がる。そこで話は強引に断ち切られた。
用事は済んだというように、リオは再び玄関の方まで歩いていく。靴を履きながら、「そうだ」と言った。
「犬塚ちゃんが会いたがってたよ。怪我の具合も心配してたし、せめて連絡くらいしてあげてよ」
それじゃあね、と、ひらひら手を振ってリオはこの家を出て行った。
なんだかとても疲れてしまった。リオが残したのは、中身が一つ減ったもみじ饅頭と無駄な疲労感だけだった。結局、仕事を辞めることも、この家を出ていくことも、はっきりとした許しを得ていない。
許可がなくても、勝手に出ていくことはできるけど、これまでのリオへの恩義がそれを踏みとどまらせる。
「とりあえず、犬塚に連絡先しないとか……」
教師をクビになり、田村の計画を手伝うようになってから、ほとんど連絡も取れていない状況だ。
連絡先から犬塚の名前を見つけて、そこに電話をかけた。




