母娘の時間
しばらく田村親子の話し合いは続いて、やがて、やっと決まったメニューを注文した。
選ばれたのはお寿司で、これは田村の意向が強く反映されたものらしい。ただ、お店の中では一番安いメニューだったところに、多少の気遣いは感じられた。
ほどなくして食事が届くと、ダイニングの小さなテーブルに三人集まって座る。本来は二人用のサイズなのか、テーブルの上は寿司の大皿と食器でいっぱいになった。
食事を始めると、田村はひょいひょいとお寿司を自分の口の中に入れていく。頬張って、ご満悦な笑顔を浮かべた。
「すみません、今日はみっともないところをお見せしました」
食事を始めるより先に、母親は謝罪の言葉を口にした。
「改めて、保乃科の母の麻里乃です」
真理乃さんは、改めて話をすると普通の大人しい女性だった。少し顔色も良くなって、乱れていた髪を直したせいか、ますます田村に似た綺麗なひとだと印象を受ける。
「こちらこそ、勝手に押し入ってしまってすいません」
「いえ。先生が来てくださらなかったら、私たち家族はどうなっていたか分かりません」
「別になにもしてません。田村なら――保乃科さんなら、きっと大丈夫だったと思います」
麻里乃さんは小さく頭を下げる。
「主人は、昔はあんな人ではなかったんです。怪我をして、生活に余裕がなくなって、そこから全部がおかしくなってしまったんです」
麻里乃さんの中では、きっと今でも怪我をする前のあの男が生き続けているんだろう。
「ママは気づいてたの? あの人が、保乃科に殺されたがってたって」
ずっと食事を続けていた田村は手を止めて、正面に座る麻里乃さんを見つめている。
麻里乃さんは耐え切れずに目をそらす。それが答えだった。
「やっぱり、そうだったんだ」
「分かってたの、全部。あの人が考えることも、それを私が止めなきゃいけないことも。けど、ごめんなさい……」
それきり真理乃さんは、テーブルの上で小さくうつむいてしまう。
田村は、サーモンを一口で平らげてから、「ママ」と、穏やかな声で母を呼んだ。
麻里乃さんは、親に叱られるのを怯える子供のように顔を上げる。
「保乃科、高校を卒業したら一人暮らしがしたいな」
それはまるで、当たり前の母娘の会話の一幕だった。
「え……?」
「正直ね、あの人だけじゃなくてママのことも赦せないと思ってる。だから、ちょっと距離を取った方がいいのかなって」
田村は変わらない明るい口調のままそんなことを言う。麻里乃さんもそれにつられて、悲壮感はなかった。
「うん、そうだね」
どこか肩の荷が降りたような、そんな表情に見えた。
「これからは、保乃科は保乃科の人生を生きようと思うんだ」
「……うん。保乃科の人生なんだから、それでいいよ」
田村は、「あ、ねぎとろ予約」と言って自分の小皿にお寿司を移動する。
「じゃあ、私はマグロをもらおうかな」
麻里乃さんもそう言って、やっと一つめのお寿司を頬張った。
俺はそんな二人の様子を、同じテーブルから眺め続けた。
今の田村なら、きっともう大丈夫だろう。そんなことをこの光景から直感した。
人生で初めて頼んだお寿司の出前も、こうして二人が親子としての会話をするきっかけになったら、少しは奮発をした甲斐もあったと思える。
やがて、三人前の寿司桶が空っぽになったところで、この不思議な食事の時間は終わりになった。
これ以上、この家に留まる理由もない。
家を出ると、田村はアパートの前まで見送りに来てくれた。いつの間にか、外はすっかりと夕陽の色に染まっていた。
「先生、今日は本当にありがとね」
「別に。俺はなにもしてないよ」
「それは謙遜しすぎ。先生は、間違いなく保乃科にとっての恩人。いわゆる恩師ってやつだね」
そんなことを言って、田村はけらけらと笑う。
なんとなく、田村と初めて出会った時のことを思い出した。
教師として母校の門をくぐって、最初に話をした生徒が田村だった。思えばその時から、俺はすでに田村の笑顔に魅了されてしまっていたのかもしれない。
「それじゃあ、麻里乃さんと仲良くね」
立ち去ろうとすると、「待って」と呼び止められる。
「先生の家、また行っていい?」
田村と俺は、もう教師と生徒の関係でもなければ、一緒に殺人の計画を立てる共犯ですらなくなった。
これからの俺たちをつなぐものは、もうなにもない。
それが分かっていて、俺は「じゃあね」とだけ繰り返した。




