父親
俺たちは同時に家を出て、真知子先生は学校へ、俺は駅へと走った。
田村の家の最寄駅なら、前に会話の中で聞いていた。ちょうど運良くきた電車に飛び乗って、最寄駅を目指す。
電車に乗るのは十五分ほどで、その間に真知子先生からの連絡を待つ。電車に乗っている間はひどく焦ったくて、もどかしかった。
電車内で何度も田村にメッセージを送ってみたけど、既読がつく気配もない。どうか間に合いますように、と、ただ祈る気持ちで電車に揺られ続ける。
いよいよ最寄駅の名前が車内にアナウンスされたその時、手の中の携帯が震えた。それは、真知子先生からだった。
そこには、『田村さんの住所です』というテキストとともに、あるアパートの一室の住所が記載されていた。急いでその住所を調べると、駅からは十分程度の場所にあるとわかった。
電車のドアが開くと同時に、目的地を目指して走った。近くを歩く人から白い目を向けられても、息が切れても、足を緩めることはしない。今さら誰になにを思われたってどうでもいいし、それなりに体力も鍛えてきた。
やがて、二階建ての古いアパートが見えてくる。その「ニ◯ニ号」に田村はいるはずだ。
軋む階段を駆け上がると、その「ニ◯ニ号」はすぐに見つかった。田村と書かれた表札を確認してからドアを開ける。鍵はかかっていなかった。
「田村!」
その光景は、短い廊下の向こうに広がっていた。
狭いダイニングのような部屋で、田村と父親らしき人物と対峙している。父親は左肩の辺りが少し赤黒く滲んでいて、田村の手の中には、血のついた包丁が握られていた。
心臓がバクバクと暴れ出す。走って呼吸が乱れているせか、この状況を目の前にしたせいか。たぶん、そのどっちもだ。
大丈夫、まだ傷は浅いはずだ。
二人の顔が俺の方を向く。
「誰だ、お前」
父親が言った。
低くしゃがれた声だ。酒のせいか目は座っていて、明らかに普通の精神状態じゃないと分かる。
ふと、その姿に見覚えがあることに気づく。
この男は、早退した田村を探して駅前に向かった時、ベンチでビールを飲んでいた、指のない男だった。
まさか、あの男が田村の父親だったなんて。
「先生」
田村が泣きそうな声で言った。
「先生? この若いのが先生なのか」
「田村、それを手から降ろそう。大丈夫だから」
田村の父親は体格がいい。田村が包丁を降ろした瞬間に抵抗をされないとも限らないけど、いざという時は止められる自信はある。
ふと、部屋の手前で、ぐったりとした様子で壁にもたれている女性の姿を見つけた。頬はこけて髪も乱れているが、田村とよく似た顔の綺麗な女性だった。
母親と思しき彼女は、全部を諦めたような目をして俺のことを見ていた。
「お前がこいつを唆したのか」
指のない男が俺を睨んだ。
「先生は関係ない。保乃科があなたを殺したいと思ってるだけ」
「実の父親に向かってそんなことを言うのかよ」
男はそう言って鼻で笑う。
「保乃科は、あなたが父親だなんて認めたことないから」
「とんだ親不孝の娘だな。そんなに俺が憎ければ殺してみせろよ」
田村は包丁の切っ先を父親の方に突きつける。
腕は震えているが、この家に入った時より意志が固まってきているのを感じる。下手に動くことなできなかった。
「ダメだ。それをやったら本当に取り返しがつかなくなる」
「大丈夫。大丈夫。ずっと準備してきたんだから」
田村はうわ言のようにつぶやく。
俺の言葉もほとんど届いていないみたいだ。
なにか状況を変えられないかと母親の方を見ると目が合った。彼女は相変わらず全部を諦めた表情で、バツが悪そうにすぐに目を逸らした。
「なにか企んでいたみたいだけど、全部無駄なんだよ。お前に俺は殺せないし、逃れることなんてできない。なにしろ、血のつながった家族なんだからなぁ」
汚い笑みを浮かべながら、挑発するような声で男は言う。
この男は、自分のせいでどれほど田村が苦しんでいるのか、理解しているのだろうか。それとも、それすら愉快だと感じているのか。
一歩、男が近づいた。
半歩、田村が後退する。
「お前は、一生俺に支配されたまま終わるんだよ」
田村の右手に力が込められるのが、はっきりと分かった。
「そこの先生も、ひとの家庭事情に首を突っ込んで無事でいられると思うなよ」
男は俺の方を向いて警告した。
そして、手近な灰皿を掴むと、こっちへ投げつけてくる。それは俺の頬をかすめたあと、玄関のドアに当たって大きな音を立てた。
たぶん、それが合図だった。
「やめて!!」
田村は叫んで、包丁を持った右手を振り上げた。そして、男の胸に向かって思い切りそれを突き立てようとする。
その寸前、俺は二人の間に割って入った。
振り下ろされる、田村のその右腕を掴む。包丁の切っ先は、あと数センチで俺の肩に刺さるところだった。
「先生、なんで……」
田村の右腕をゆっくりと下ろすと、そのまま包丁も床に落ちた。カシャン、とどこか寂しい音が鳴る。
気がかりなのは、こんな状況にも父親がまったく身体を守ろうともしていなかったこと。
「なんだよ、邪魔すんなよ」
そう言ったのは、後ろの男だった。
「やけに安い挑発をすると思ったら、わざと殺されようとしてたんですね」
男は、ふんと鼻で笑った。
「ずっと終わる場所を探してたんだ。けど、自分で死ぬ勇気はないし。散々迷惑をかけてきた娘に殺されるなら、死に方としては悪くないと思ったんだよ」
「なに、それ……」
田村が呆然とつぶやいた。
「保乃科も成長して、最近は会うたびに、『殺してやりたい』って目で俺を見るようになったから。俺もこの家に来る頻度を増やして、もっと恨んでもらおうかと思ったんだ」
「じゃあ、保乃科はずっと操られてたこと?」
「俺は楽になれるし、保乃科は憎い相手を消せるし、いいアイディアだと思ったんだよ」
「身勝手ですね。娘を犯罪者に仕立てようとするなんて」
あまりの身勝手に、自然と両手を握りしめていた。
「先生なんかに俺の苦しみが分かるかよ。俺だって、最初からこんなクズだったわけじゃないんだ」
父親は糸が切れたのか、どっかと床に座り込む。
「これでも、昔はそれなりに名のある職人だったんだ。いろんな人に必要とされて、俺にしかできない作業だってあった……。けど、事故で指を切断して、全部なくしちまった。立場も、仕事も、なにもかも。こいつと結婚して、保乃科が産まれて、これからって時だったんだ」
田村が前に、俺と父が似ていると言っていた理由が分かった気がした。
この男も同じだったんだ。
一つの道をずっと真っ直ぐに歩いてきて、ある時急に行き止まりの標識が立ち塞がる。どこにも行き場がなくなるその苦しみは分かっているつもりだ。
母親は部屋の隅でぐったりと項垂れたまま。
たぶん、この先も変わることはないだろう。この父親は過去に縋りついたまま、母親の方もそんな父を見捨てられずに流されるままで。この家族は、そうやってこれからも続いていくんだろうか。
「急に昔話なんてして、可愛そうだから許してくださいってことですか?」
「別に許されようなんて思ってないさ。けど、仕方なかったんだ。それだけ分かってほしかった」
「そうですか」
つぶやいて、その瞬間、我慢の糸が切れた。
バキッ!と、大きな音が出る。俺は思い切り拳を握って、この男の頬を殴っていた。
ずっと塵霊とばかり戦ってきたけど、やっぱり人間を殴ると自分の手も痛くなる。それでも、田村が受けてきた痛みに比べれば、こんなのは痛みのうちにも入らない。
男は床に倒れて、血の混じったつばを吐いた。
「お前のせいで、田村がどれだけ苦しんできたか、分かってるのか……! お前が、お前のせいで……!」
男は倒れたまま、表情のない目で俺を見上げた。殴られた怒りも、田村への反省も、その目からはなにも感じられない。
「教師が生徒の親を殴っていいと思ってんのか」
「教師だからなんて関係ない。俺はただ、あなたを殴りたいから殴った」
きっと、どんな非難もどんな怒りもこの男には届かない。
それなら、この胸の中に湧きあがった苛立ちをどこにぶつければいいだろう。
「これだから教師ってのはダメなんだ」
男は傍若無人な態度で床に座る。
もう一度殴り飛ばしたい衝動に駆られて、拳を握りしめてそれに耐えた。この男には、もう殴るだけの価値もない。それでも、強く握った右手に深く爪が食い込んだ。
と、その手を不意に包み込むものがあった。
右手を包み込んだのは、田村の小さな両手だった。
「先生、もう大丈夫だよ」
「え……?」
振り向くと、田村は穏やかな表情を浮かべていた。
「先生が代わりに怒ってくれたから、保乃科の中にあったムカムカとか、なんだか急になくなっちゃった」
「本当に、それでいいの?」
「たぶんいいんじゃないかな。もちろん一生赦すことはしないけど、恨んでばっかりいたら他のこと考えられないし。心が少しもったいないから」
穏やかな田村の顔を見たら、この結末でよかったんだと確信した。
そもそも、父親を殺す計画を手伝ったのも、そうすることで父親への負の執着をなくせればいいと思ったからだった。
これまでこの男がしてきたことを赦すことはできないけど、これからの田村の人生にこの男は必要ない。
「なんだよそれ、俺への恨みはそんなもんか?」
男が挑発するように言った。
田村はそれにも、軽蔑するような冷たい目で一瞥するだけだ。
「田村が決めたことなら、俺は何でもいいよ」
俺がそう言うと、田村は床に座ったままの父の前に立った。
「出て行って。絶対、殺してなんてあげないから」
それは強い意志を感じるキッパリとした声だった。
それからしばらく、二人は無言のまま目を合わせ続けた。お互いにいっさい目を逸らすことなく、張り詰めた静寂が流れる。
やがて、先に折れたのは男の方だった。
「好きにしろ」
男は立ち上がり、そう言い残してこの家を出て行った。
ドアが閉まる音がして、三人だけがこの狭い部屋に取り残される。きっと全員がなにを言えばいいのか分からなくて、部屋の中には沈黙が漂った。
これで終わったんだろうか。
もう、田村はあの男に怯えなくていいんだろうか。
やがて、静寂を破ったのは田村だった。
「先生、一緒にご飯食べていきませんか?」
「え?」
「といっても、時間もお金もないので、先生のおごりの出前っていうことになるんですけど」
悪びれない態度でそんなことを言ってしまえるのが田村らしい。無理をしているのは分かっていて、それを指摘するつもりもない。
「ほんと、厚かましいというか、ちゃっかりしてるというか……。絶対に今回限りだからね」
「あの……」
田村の母が初めて声を発した。
状況を掴み切れていないのか、困惑した様子でこっちを見ている。
「お母さんも、一緒に選んでもらっていいですか?」
母親は助けを求めるように田村を見た。
「大丈夫、先生優しいから」
田村はそんなことを言いながら、母親の隣に座った。出前のお店でも調べているのか、携帯を取り出すと、母親と食べたいものの相談をはじめた。
そんな二人がぎこちない。明るく振る舞う田村も、本当は無理をしているのが伝わってくる。
母親の方も、あの男に振り回された被害者だ。それでも、田村にとっては母のことさえ簡単には認められないだろう。
だけどどうか、いつかこの二人が当たり前の親子になれればいいと、そんなことを思った。




