よみがえる想い
莉菜にまた会える。
それを思うと自然と鼓動が速くなっていく。
最初にバイト先のカフェで会った時は、本当に会えるのか半信半疑だった。だけど、今日は違う。莉菜が俺に会うために待っている。
莉菜からの連絡を受けたのが昨日のこと。唐突な誘いにも、教師の仕事を失った俺には問題がなかった。
お昼を食べながら話をすることに決まって、正午の時間に駅前のベンチで待ち合わせた。この前、二人で話をしたあのベンチだ。
前に田村と新宿に行った時と同じ、唯一のまともな私服であるジャケットを羽織って歩待ち合わせの場所に向かった。
早めに出たつもりだったけど、先に着いていたのは莉菜の方だった。ベンチの隣りに立って携帯をいじっている。
この前ともまた雰囲気が違うのは、前がバイトの休憩中だったからだろうか。服装も前のパンツスタイルから、ふわりとした女性らしいロングスカートに変わっている。
思わず、声をかけるのを一瞬ためらった。
「おまたせ」
莉菜が携帯から顔を上げる。それだけでまたどきりとした。
「ごめんね、急に呼び出しちゃって。今日なら時間が取れそうだったから」
「全然、どうせ暇してたし」
「ならよかった。無理やり付き合わせたんじゃ悪いから」
それじゃあ行こうか、と、歩き出す莉菜についていく。食事の場所は莉菜に任せることになっていた。
ほんの五分程度歩いた先に、莉菜が案内する店はあった。チェーンの洋食屋で、ゆっくりと話すことはできそうな店内だ。
店員に案内されて席に着いた後、まずはお互いに料理を選んで注文をした。
一息をついたところで、改めて正面に座る莉菜の方を見る。目が合って、莉菜は少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「なんだか変な感じだね。まさか永井くんと、またこんな風に話せるなんて思わなかった」
「俺も。この前まで、もう二度と会えないと思ってたから」
「そうだよね。黙って突然いなくなったら、普通はそう思うよね」
莉菜は少しだけ遠くを見るみたいに目を細めた。
「なんだか懐かしいな。この前は突然であんまり感じなかったけど、本当に永井くんなんだね」
「莉菜からしたら、本当に急だったよね。こうして改まると、少し変な感じかも」
「ねえ、覚えてる? 私たちが初めて話した時のこと」
莉菜が訊いた。
「覚えてるよ。模試の数学の点数がまったく同じだって分かって驚いたんだよね」
あの時のことは、今でも思い起こすことがある。
そしてその度に、胸が締め付けられるような感覚に襲われていたんだ。
「合ってるけど、物理もだよ。あと、英語のリーディングも一点違いだった」
「そんなにだっけ」
「そんなにだよ。他の科目も似た感じだったし、こんなことあるんだって本当に驚いたんだから」
「うん。たしかにそうだった」
どちらからともなく笑みがこぼれる。
嬉しかった。莉菜が今でもあの時のことを覚えていてくれたことが。それも、ちゃんと綺麗な思い出として。
昔の話をしていると、それだけであの頃に戻れたような気分になる。今の成長した莉菜に対して感じていた緊張も、いつの間にかほぐれていた。
莉菜はふと寂しそうに目を細める。
「今でもね、時々あの頃を思い出すんだ。楽しかったなって」
「うん」
「お父さんとお母さんに依存し過ぎてたことに気づいて、この街を飛び出して、自分でもすごく変われたと思ってた……。けど、こうして永井くんと話してると、やっぱりあんまり変わってないのかもって思っちゃう」
莉菜は変わった。それは間違いないことだと思う。
だけど、変わらない部分も確かにある。
「そうだといいな。本当は、成長した莉菜に少し緊張してたから」
「知ってた。けど、永井くんだってなにか変わったんじゃないの?」
俺だって、莉菜と一緒にいた五年前と比べると、大きく変わったと思う。だけどその変化は、ただの退化だ。
「変わってないよ。全然、あの頃のまんま」
俺は自虐的に笑って、この話の続きを封じ込めた。
それと同時に、タイミング良く二人分の料理が運ばれてくる。話題は運ばれた料理へと移って、これ以上自分について話すことはなく済んだ。
届いた料理を食べ始めて少し経った頃、「そういえば」と莉菜が切り出した。
「この前バイト先で、吉田先生っぽい人を見たんだよね」
「吉田先生?」
「ほら、三年生だった時の担任の。だいぶ雰囲気変わってたんだけど、たぶん本人だと思うんだよねえ」
吉田先生が莉菜を見かけたことは知っていた。莉菜の方も気づいていたのか。
「きっと本人だよ。教師を引退して、いろいろ変わったんじゃないかな」
「そっか、もう定年間近だったもんね」
やっぱり、莉菜は明るくなった。二人でいると会話が弾むのは変わらないけど、昔よりも晴れやかな笑顔を見せてくれる。
「そうだ、吉田先生と言えばさ――」
話題は吉田先生の思い出話に移っていく。いつも言っていた口癖とか、何度も同じ話をする癖とか、学生の頃のあるある話で盛り上がる。
本当に五年前に戻ったみたいで、食事もそっちのけで俺たちはずっと笑い合っていた。
あの頃の、『永井怜』として真っ当に生きていた頃の自分なんて、もうとっくに死んだと思っていたのに。莉菜と話をする、ただそれだけで、死んだはずの彼がどこかから現れてきた。
俺はこの時間を幸せだと思ってしまった。
食後のコーヒーのカップを空にした後もしばらく店内に居座って、やっとお店を出たのは二時間ほど経った頃だった。
店を出た後は駅前での解散になった。
お互いに今日のお礼を言い合って、しばらくの間、別れを惜しむようにまたどうでもいい話をした。そして、やっとそれもひと段落した頃、莉菜は自分の家の方角に向かって歩き出す。
「それじゃあ、またね」
それが別れ際の最後の言葉だった。
「うん、また」
と、俺は噛み締める。
どうか、その「また」があればいいなと思った。
莉菜の後ろ姿が見えなくなって、自分も歩き出そうとした時だった。
「今の、誰ですか?」
不意に、後ろから声がした。
とっさに振り向くと、そこにあった顔を見て驚いた。
すぐ背後には田村が立っていて、表情のない冷たい目で俺を見ていた。
「なんで、田村がここに……」
今は学校の時間じゃないのか。それに、俺がここにいるってどうして知ってるんだ。そもそも、田村はいつから見ていたんだ?
たくさんの疑問が一瞬にして頭の中で渦巻いた。
「別になんでもいいじゃないですか。それより、質問に答えてください」
「ただの昔の友人だよ。偶然久しぶりに会って、それでちょっと……」
「本当にただの友達ですか? 保乃科には、もっと特別な関係に見えましたけど」
田村は淡々と言う。抑揚のないその声が、余計に秘めた感情の大きさを感じさせた。
「それは深読みしすぎだよ。本当に、あの人とはなにもないから」
田村からの猜疑の目が突き刺さる。
丸く大きな目で見つめられると、なにか本当にやましいことをしている気になってくる。そもそも、莉菜と会っていたこと自体、田村に隠すことでもないはずなのに。
「先生は今、保乃科の計画を手伝ってくれてるんだよね?」
「うん。そこから手を引くつもりはないよ」
そのことと今回のことには、なにも関係がない。
田村は大きく首を横に振った。
「それでも不安になるんです。保乃科には、先生しかいないから……」
昨日から、よくない兆候があることには気づいていた。
憎んでいた父親を想像の中で消していくと同時に、父親に向いていた強い感情が、俺に向けられ始めている。
「大丈夫だよ。絶対途中で投げ出したりしないから」
「そんなの、分からないよ。どうせみんな嘘つきなんだから」
どんな言葉をかければ田村まで届くだろう。
どんなに考えても、その答えは見つからない。
「先生は保乃科の共犯だってこと、忘れないでくだい」
少しずつ、田村のことを理解できるようになった気がしていた。
気がしていただけだった。
五年前でさえ、俺は莉菜の迷いに気づけなかったのに、どうして田村のことを分かった気になれるんだろう。




