ほころび
夕方五時半、昨日と一昨日と同じように田村は制服のまま家に上がる。
もはや定位置となったベッドへ上がると、そのまま横になった。しばらく布団の上をごろごろと転がりながら、今日の学校での出来事の愚痴を聞かされる。本題に入ったのは、三十分ほど経ってからだ。
「凶器のことですけど、やっぱり普通に買ったら足が残っちゃうよね?」
ここまでの話し合いで決まっていたのは、父親が家に来たタイミングを狙って殺害し、遺体は夜中に俺が車で遠くへ運ぶという計画。
計画というよりは妄想に近い。穴だらけだし、田村自身もこれがただのそういう遊びだと分かっていると思う。
父親に襲われかけたショックも少しずつ抜けてきたのか、また自然な明るさが戻りつつある。
「そうだね。家にあるものが使えればそれが一番だろうけど」
「家にあるものっていうと、普通に包丁とか?」
「かな。シンプルだけど、女性でも扱いやすいだろうし」
と、俺のその言葉に返事がない。
疑問に思って田村の方を見ると、なにやら真剣に考え込んでいる様子だった。凶器のことでも悩んでいるのか、下を向いたまま固まっている。
「田村?」
呼びかけると、田村は顔を上げる。
その顔には、ひと目で分かるほどの不安が浮かんでいた。
「やっぱり、保乃科が先生の家にいるのって、バレたらマズイよね?」
「まあ、いろんな意味でまずいだろね」
田村と俺との繋がりがバレれば、この計画にも大きな支障が出る。それに、そもそも女子高生が成人男性の家に上がり込んでいる状況自体がすでにアウトだ。
「保乃科が家にくるの、迷惑じゃないですか?」
田村は不安げにそう訊ねる。
「今さら気にしないよ。俺の人生なんて、どうせ後ろめたいことだらけだし」
「でも、もし通報でもされたら先生といられなくなる」
「大丈夫だよ」
「気休めはいらないんです!」
突然の大きな声。かと思えば、今度は消えてしまいそうな声でつぶやいた。
「今先生と離れたら、たぶん大丈夫じゃないから」
「田村――」
「その"田村"って呼ぶのもやめてください」
間髪いれずに遮られる。ぴしゃり、と、強い声だった。
「その苗字、好きじゃないから。先生にはそんな名前で呼んで欲しくない」
田村がこの苗字を嫌う理由はすぐに分かった。あの父親から継いだものだから、好きにならないのも当然だ。だからと言って、まさか下の名前で呼ぶわけにもいかない。
「えっと、じゃあ……」
「保乃科って呼んで」
いくら教員の立場を失った今でも、そんな呼び名はできない。それではまるで、そういう関係みたいに見えてしまう。
俺がなにも言えないでいると、田村はいたずらっぽく笑った。
「なんて、先生にそんな甲斐性があるわけないですよね。別に呼び方なんてどうでもよくて、先生には、保乃科のことを保乃科として見てほしいの」
相手を名前で呼ぶ関係には二つ種類がある。
一つが恋人同士の関係。そしてもう一つは、互いが同じ苗字の関係――。つまり、家族同士の関係だ。
年はひと回りも離れていないけど、なんとなく、そんなことを考えてしまった。
「呼び方は考えておくよ」
「うん。すぐじゃなくてもいいから。きっと、呼んでほしいな」
田村はそう言うと、またベッドに倒れ込む。そのまま目を閉じて、眠ろうとしているように見えた。
「計画はもういいの?」
「今日はもう疲れちゃった」
制服のままベッドで横になった田村は、あまりにも無防備だった。
信頼をしてもらっているんだろうか。新宿の路地で身体が接近した時、強い拒絶反応を示していたけど。
こんな状況を目の前にして、まったくなにも感じないわけではないけど、その信頼を裏切るわけにはいかない。
「おやすみ」
その時、携帯が短い音を鳴らした。メッセージを受信した音だ。
机に置いていたそれを取り、画面を確認する。そこに表示されている文字を見た瞬間、俺の心臓は大きく跳ねた。
メッセージは莉菜からだった。
『この前はありがとう。明日なんだけど、時間あったりする? まだ話し足りないこと、たくさんあるんだ』
この前の再会以来、初めてのメッセージだった。心臓がドクドクと早鐘を打つ。
このタイミングでのこのメッセージは、どんな意味があるんだろう。
「誰からですか?」
ベッドに寝そべったまま、田村がこっちを見ていた。
「ただの仕事の人だよ」
とっさに嘘をついていた。
話せば長くなることだし、別に田村と関係のある話でもない。田村は「ふーん」とつまらなさそうにつぶやいて、また目を閉じた。
父親を殺すという田村が願ったこの計画も、いよいよ大詰めのところまで来ている。もちろん、中身はただの妄想でしかないけど、田村はそれでも喜んでくれていると思っていた。
それなのに不安になる。本当にこれが正しい選択だったんだろうか。
今日の田村の様子は、明らかにこれまでと違っていた。このまま一緒に計画を進めていいのか、分からなくなる。
ふと椅子から立ち上がると、「先生」と呼ぶ声がした。
「どこにもいかないで……」
目を閉じたまま、少し身体を丸くして、田村は力なくつぶやいた。
泣き出してしまいそうな、消え入りそうな声だった。
「行かないよ。いなくなったりしないから」
椅子に座り直してしばらく見守ると、やがて田村は規則正しい寝息を立て始めた。




