別れ
真知子先生が去ってから、一時間近くが過ぎた。
すでに時計は夜の十時近くを指している。それでも田村はまだ姿を見せない。
今日はもう来ないんだろうか。
少しずつ確信が疑問に変わっていき、ふらふらと旧校舎の周りを歩いてみる。あるいは、今日も新宿の街に逃げたんだろうか。
そんな考えが頭をよぎった瞬間だった。旧校舎の窓の向こうに、一つの人影が浮かんでいることに気づく。窓越しのそのシルエットは、髪の長い女性に見えた。
間違いない、あれは莉菜を食べた塵霊だ。
この先はただの直感になる。だけど、アレの向かっている先に、田村がいるはずだと確信をした。
急いで旧校舎の中に入る。シルエットが見えた廊下まで走ると、すぐにその塵霊は見つかった。
改めて見ると、本当によく莉菜に似ている。正確には、五年前の莉菜に。
そして、その塵霊の向こうに一人の女子生徒の姿がある。田村だ。
どうして気づけなかったんだろう。正門以外から入り込んだのか、俺が張り込む前から中にいたのか。けれどすぐに、理由なんてどうでもいいと思い直す。
近づこうとすると、田村が俺に気づいた。
「先生」
田村は怯えるように後退をした。
「なにがあったの? なんで逃げるようとするの?」
「ほっといてください。私はもう楽になりたいんです」
塵霊は田村と俺を交互に見て、状況を計ろうとしているように見えた。
田村は今、この塵霊を求めている。そしてこの塵霊も、確実に田村のことを襲うはずだ。
心臓がドクドクと騒いでいる。
塵霊にひと呑みにされる莉菜のイメージを、もう何度夢に見たか分からない。このままでは、それと同じ光景が目の前で再現されることになる。
塵霊が危害をもたらすだけの存在ではないと、今なら分かる。それでも、このまま田村が食べられるのを、黙って見ていられるはずがなかった。
「田村がどれだけ苦しんでるか、少しは分かってるつもりだけどさ。ちゃんと言ってくれないと、なにがあったかなんて分からないよ」
「言ったって、どうにもならないです」
「それでも、俺が知りたい」
一歩、田村に向かって近づく。半歩、田村が後退した。
「昨日の夜、田村を新宿で見たって話を聞いたけど」
田村はバツが悪そうに目をそらした。
「それは、本当のことです。だって家になんていられなかったから」
「やっぱり、父親が来たから?」
しばらく躊躇うそぶりを見せたあと、こくりとうなずいた。
「昨日の夜、突然だった。機嫌が悪かったのか、たくさん暴れて、部屋の中もメチャクチャにして。それから……」
田村はそこで言葉に詰まった。くちびるが震えている。
「保乃科のことも、乱暴、しようとしたんです……」
俺はなにも言えなくなった。
そんなの、ドラマや本の中でしか知らなかったから。
「なんとか逃げたけど、怖いし、もうなにも信じられないし……。だから、もういいんです。保乃科の人生なんて、最初からどこにもなかったんだよ」
塵霊がゆっくりと田村のもとへ迫っていく。田村はそれを受け入れるような穏やかな目をしていた。
「違う。それだけは、絶対に違う」
「違わないよ。保乃科の人生、結局全部あの人の手のひらの上なんです」
塵霊が人の魂を食べることの意味なんて、まだよく分からない。それでも、今このまま田村が食べられてしまうことだけは、絶対に認めたくないと思った。
だけど、どうしたら田村を止められる?
いよいよ、長い髪の塵霊が田村の目の前に立った。俺はまだ、その場で立ち尽くしたままでいる。
「先生。こんな保乃科のためにありがとね」
塵霊は大きく両手を広げて、今にも田村の身体を包み込もうとする。
『もし二人一緒にやり直せるなら、今度は永井くんに私を止めてほしいな』
不意に、莉菜のそんな声がよみがえった。
その瞬間、走り出していた。
田村の身体が塵霊の光に包まれる。そのまま、実態を持たない身体の中に取り込まれていく。塵霊はまだ背中を向けたままだ。
俺はポーチから札をまとめて掴み取り、そして、塵霊の身体にすべて叩き込んだ。電気がほとばしるような大きな音が響く。
塵霊はよろめきながらも、振り向きざまに大きく腕を払った。俺はその腕を受け止めきれず、真横に吹き飛ばされる。バランスを崩して地面を転がった。
『アアアアアアァァァッ!!』
長い髪の塵霊は、田村を中に取り込んだまま、大きく口を開けて苦しそうに甲高い叫びを上げている。
莉菜に似たその姿で、そんな表情をしないでほしい。まるで、五年前の莉菜の苦しみが、今よみがえっているみたいだと思った。
脳に直接響く咆哮で、激しい頭痛とめまいに襲われる。どうにか側頭部を押さえてそれに耐えながら、改めて塵霊を観察した。
札を当てた箇所は大きく抉れたが、まだしっかりと人の姿を保っている。田村の身体もまだ中に取り込まれたままだ。田村が中にいる以上、刀を使うことはできない。
距離を詰めるために、痛む両足に力を込めて一気に駆けた。
長い髪の塵霊は咆哮を止めると、再び長い腕を薙いで攻撃をしかけた。それを札を持った手で弾く。そのままの流れで、抉れた同部に追い打ちをかけた。
再び光が弾けて、その中に微かに丸いコアが見えた。塵霊からの次の攻撃はまだこない。
倒せる――。そう直感した。
中に田村を取り込んでいるからか、長い髪の塵霊が抵抗する気配は感じなかった。このままコアへ向かって手を伸ばせば、すべてが終わる。
俺は思わず動きを止めて、カノジョの顔を見た。五年前の莉菜を思い出させる顔が目の前にあって、少しの間、俺たちは見つめ合った。
右手に札を掴む。
「ごめん」
誰に対しての謝罪なのか、自分でもよく分からなかった。
田村の意思に反してこの塵霊を消そうとしていることか、あの時救えなかった五年前の莉菜に対してか、それとも、莉菜の姿をしたこの塵霊に対してか。
俺はコアへと、札を掴んだ右手を伸ばす。
そして、直接札を受けたコアは呆気なく壊れた。
コアを失った塵霊は、その実態を保てない。真っ直ぐ伸びる長い髪も、華奢な体軀も、雪が溶けるように消えていく。
莉菜とよく似た姿をした”彼女”が崩れていく。
まるで、記憶の中の莉菜が失われていくみたいに錯覚をした。俺が探し続けてきた五年前の莉菜は、もうこの世界のどこにもいない。
たまらずに目をそらした。
やがて、どさり、という音がした。見ると、さっきまで長い髪の塵霊がいた場所には、床に倒れた田村の姿があるだけだった。
田村は床に倒れて目を閉じている。気を失っているのか、近くで声をかけても、身体を揺すってみても、まったく目を開ける様子はない。
近くに塵霊の気配はないけど、まさかこのまま放っていくわけにもいかない。しばらく目を覚ますのを待ってみたけれど、時計の針が進むばかりで、気づけば深夜と呼べる時間になった。
さすがにこんな時間に外を出歩く人もめったにいないだろう。
眠ったままの田村の身体を抱えて、旧校舎の外を目指す。こうして田村を抱え上げるのは、これで二回目だ。
もしも見つかったら教師失格どころじゃないな、と、そんなことを思った。どのみち、教師はもう今日で終わりなんだけど。
旧校舎を出たあとは特に周りに気にしながら、俺の家を目指した。田村の身体は軽かったけど、何度も休憩を挟みながらゆっくりと進む。
結局、家に着くまでのその間、田村が目を覚ますことはなかった。




