最後の授業
「あっははは!」
携帯のスピーカーからリオの笑い声が響く。突然の大きな声に耳が痛くなった。
河野と話を終えた後、人気のない校舎裏に移動してリオへと電話をかけた。教師をクビになったことを伝えると、返ってきたのが爆笑だった。
「そうかぁ。鴨ちゃんならやれるかと思ったんだけど、やっぱダメだったか」
リオに叱られるとは想像していなかったけど、予想以上に脳天気な反応だ。
「すみません」
「いいっていいって。必ずしも教師のふりをしなきゃ学校に入れないわけじゃないし」
「なにか手があるんですか?」
「ん? それはこれから考えるよ?」
リオはあっけらかんと言い切った。
けど、次がなにも決まっていないなら、逆に好都合だと思った。一瞬だけ躊躇をして、それでも覚悟を固めてそれを切り出した。
「俺、この任務から降ります」
はっきりとそう言い切った。
「どうしたの。教師をクビになったからって、そんな落ち込まないでよ」
「別に落ち込んでなんてません。ただ、塵霊と戦う理由が分からなくなったんです」
電話越しに、空気が張り詰めたのが分かった。
「鴨ちゃん、自分がなに言ってるか分かってる?」
「気づいたんです。塵霊自体は悪じゃないって。本当にやるべきなのは、塵霊に誘惑される前に手を差し伸べることだって」
「やっぱり、鴨ちゃんはちょっと疲れちゃったんだよ。少し休んで、また頑張ればいいから」
リオは優しい言葉を圧のある声で言った。
「リオさん、俺は……」
「とりあえず明日までは働けるんでしょ? 学校に潜入する方法は考えておくから、あと一日頑張ってみてよ」
リオとの話はそこで終わりになった。
堂々と学校にいられるのは、今日も含めるとあと二日。それまでは正しく教師として振る舞おう。
だけど、その二日間で俺に何ができるだろう。
翌日、いよいよこの学校の教師としての最後の一日がやってきた。
不真面目な教師だった俺にも、一つだけ気がかりがある。
田村はこれから大丈夫だろうか。塵霊自体に危害がないと分かっても、あの不安定な様子を見ているだけに、簡単には安心できない。
教師として最後の授業は、田村のクラスだった。
教室に入って中を見渡してみる。たったひと月少々、たった一教科を担当しただけのクラスだけど、これが最後だと思うと少しは感慨も湧いてくる。
前の席から後ろの席まで、一人ひとりの顔をざっと眺めてみる。名前さえちゃんと覚えていない程度の関係でしかないけど、彼らのこの先を見られないことを、少しだけ残念に思った。
その中で、ふと田村の様子がおかしいことに気づいた。いつもなら俺が教室に入れば何かしらの反応を示すはずなのに、どこかうわの空といった様子であらぬ場所を見ている。
明らかに表情は陰っていて、ひと目でやつれていると分かった。目を合わせようとしても、田村は頑なによそ見をしている。
時間がきて授業を始めても、田村の様子に変わりはない。俺の最後の授業は、身が入らないままに五十分が過ぎていった。
「それじゃあ、今日はここまで」
チャイムが鳴って、授業の終わりを告げる。これが最後の授業とは言わなかったし、言うつもりもなかった。
休み時間に入ると同時に席を立つ生徒もいる中、真っ先に田村の席を目指す。その態度の理由が知りたかった。
と、田村が席を立つ。俺に気づいたのか、明らかに逃げるように教室の外へ歩き出す。
「田村」
名前を呼んでも止まらない。すぐに廊下へと出て見えなくなった。
今さら他の生徒にどう思われたって関係ない。教室の隅でたむろをしている、いつもの四人組に声をかけた。
「なにかあったの?」
「さあ。分かんないですけど、今朝からあんな感じですよ」
「昨日までは普通だったの?」
「ですね。またお得意の急な不機嫌じゃないですか?」
「私、気になるうわさを聞きましたよ」
四人組のうちの女子が言った。
「気になるうわさ?」
「はい。昨日の夜、新宿をふらふら歩いてる田村を見たって。全然、又聞きなので信ぴょう性は怪しいですけど」
ありえない話ではないと思った。なにかあった時に田村が逃げ場所として選ぶのは、きっと新宿に違いないはずだ。
問題なのは、どうして夜の新宿へ逃げたいと思ったのかということ。
四人にお礼だけ告げて一度教室をあとにする。田村が教室へ戻ってくるのを待つために、しばらく近くで時間を潰した。やがて間休みの終わる頃に教室に戻ってくると、田村の席はきれいに片付けられていた。
話を聞くと、田村は早退をしたということだった。
この五分休みの間にいなくなったなら、そう遠くへは行っていないはずだ。学校を出て、駅に向かいながら田村を探し歩く。
前に田村が早退をした時は近くの公園で見つけたけど、今日はそこで見かけることはなかった。
他に可能性のある場所を探してみても、田村の姿はどこにもない。もしも明確に俺から逃げようとしているなら、もう電車に乗ってどこか遠くへ行ってしまったのかもしれない。駅前まで出てみても、やはり田村を見つけることはできなかった。
いったん学校に戻ろう。そう思って改札の前で振り向くと、ふと駅前のベンチに座って缶ビールを飲む男の姿が目に入った。
昼からベンチで酒を飲む中年は珍しくもないが、思わず目に止まったのは、その男があまりにも虚無に見えたから。それから、ビールの缶を持つその指が、二本ほどなくなっていることに気づいた。
ギロリ、男からの視線が向く。目つきは鋭く、どこか頭のタガが外れたような表情に見えた。
こういう男はなにをしてくるか分からない。すぐに視線を外してその場を離れると、男がなにかをしてくることはなかった。
一度田村のことは諦めて、学校へと引き返す。
そういえば、最後の授業が終わっていたことを思い出す。田村の様子が気がかりで、感慨にふける余裕もなかった。
俺は学校に戻ると、職員室の自席の整理をした。ほんの一ヶ月程度しか使っていない席は、片付ける荷物も落とすべき汚れも、ほとんど見当たらなかった。
「お世話になりました」
そうひとことだけ残して、職員室をあとにした。同僚だった教員たちの反応はまばらだった。
一ヶ月と一週間ほどのニセモノの教員生活は、こうしてあっけなく終わりになった。




