再会
俺は本当にもう一度莉菜に会いたいんだろうか。
自分の中ではっきりとした結論が出ないまま、真知子先生から莉菜を見たという場所を訊いてしまった。
『駅前のチェーンの喫茶店で、吉田先生は見たんだって。上原さんは、そこでスタッフとして働いてたみたい』
その話を聞いて、決心がつかないままに、その喫茶店の近くまで来てしまっていた。
今日もこの店で働いている保証なんてないし、そもそも本当に莉菜だったのかさえ確証もない。心構えをしただけ損をするなんて、そんなことも普通にあり得る話だ。
そうだ。まずは本当に莉菜がいるのかだけ確かめよう。
駅のすぐ向かいにある、少しおしゃれなチェーンの喫茶店。その自動ドアの前に立って、中を覗こうとした。
『大学に入ったら、喫茶店でアルバイトとかしてみたいよね。ちょっとベタだけど』
ふと、そう言ってはにかむ莉菜の顔を思い出した。
それと本当に同時だった。
自動ドアが開いて、向こうから出てくる人と鉢合った。
とっさにそこを退こうとして、次の瞬間、俺の身体は動きを止めた。
見間違いなんかじゃない。五年の歳月が経って雰囲気は変わっているけど、それでも自信を持って言える。
ドアの向こうから出てきたのは、上原莉菜だった。
「あ」
と、俺は声をこぼす。
「え」
と、莉菜が声をこぼした。
俺たちはその場で顔を見合わせたままで、自動ドアを開けっぱなしにした。
「莉菜、だよね?」
「う、うん。永井くん、だよね?」
五年ぶりの会話は、そんなぎこちないやり取りからはじまった。
訊きたいこと、話したいことは山ほどあったはずなのに、あまりにも不意打ちで言葉が出てこない。
なにから話せばいいのか迷っていると、店に入ろうとする人が、邪魔そうに横を通り過ぎていった。
「ちょっと場所を変えようか」
それを提案したのは莉菜だった。
どこかハキハキとした口調に聞こえて戸惑った。記憶の中の莉菜は、自分でなにかを決めるタイプじゃない。
少し違和感を覚えながらもうなずいて、二人で駅前の方まで移動した。
歩きながら、つい莉菜の横顔を見てしまう。俺が知っているのはまだ十八の頃の莉菜で、今俺の隣を歩いているのは、二十三になった莉菜だ。
肩の先まである長い髪は変わっていないけど、真っ黒だった色は明るいブラウンに染まっている。細かいことは分からないけど、化粧もして大人びて見える。
最初は間違いなく莉菜だなんて思ったけど、まるで、初めて会った歳上の女性と歩いているみたいで緊張した。
喫茶店から駅の出口の前までは、少し歩けばすぐに着いた。そこには、木製のベンチがいくつか設置されている。
「それにしても、まさか永井くんにまた会えるとは思わなかったな」
莉菜は言いながらベンチに腰をかける。
「それは俺のセリフだと思うんだけど。突然いなくなって、それきりだったんだから……」
ベンチの隣に座る勇気が出なくて、立ったままでそう言った。
こうして"普通の状態"の莉菜に会えるなんて、まるで想像もしていなかった。
「うん、そうだね。永井くんからしてみたら、まったくその通りだよね」
莉菜が笑う。やっぱり、俺が知っている表情とは少し違っている。
「とりあえず座ったら?」
莉菜はスペースを開けるようにベンチの隅に移動する。
その表情も、その言葉も、その動作も、まるで五年前の出来事なんて感じさせない。あの日の夜、旧校舎の中へ消えていったことなんて、全部嘘だったみたいに。
観念して莉菜の隣に座る。
しばらくの間、二人並んで駅のロータリーを見ていた。
「実は今、仕事の休憩中なんだ。だから、ちょっとの間だけね」
「うん」
「きっと永井くんが知りたいのは、あの日なにがあったのかっていうことと、今日まで私がなにをしてたのかってことだよね?」
そうだ。旧校舎に入って行った莉菜がどうなったのか、俺はなにも知らない。塵霊に魂を食べられたなんて、ただの状況証拠でしかない。
俺は黙って、深くうなずく。
莉菜は少し上を向いて、遠くを見つめるような目をした。
「あの旧校舎には、不思議なオバケがいるって言ったら信じる?」
それがこの話の、最初の言葉だった。
莉菜は、俺が今どんな仕事をしているのか知らない。当たり前だけど、それを少し寂しいと思った。
「うん、信じるよ」
「ありがとう」
その言い方が、不意に昔の記憶と重なった。いくら大人びた雰囲気に変わってしまっても、変わらないものもあるはずだ。
「あの頃って、ちょうど進路を確定させたり、必死に受験勉強をしたり、そういう時期だったでしょ? 私ね、なにを信じたらいいか分からなくなってたんだ」
その告白は少し意外だった。莉菜は一度も進路に迷うそぶりなんて見せたことがなかったから。
「全然、気づかなかった……」
「私もね、自分のことなのに気づいてなかった。お父さんとお母さんが通った大学に、自分も絶対に通うんだって、それしか考えてなかったから。……けどね、ちょっとずつ本当にそれでいいのか分からなくなってたんだと思う」
莉菜はそこまで淡々と語ったかと思うと、「ごめんちょっと回りくどくなってるね」と苦笑しながら謝った。
「ううん、聞きたかったことだから」
「ありがと」
ひょっとしたら、これこそが一番知っておくべきことだったかもしれない。莉菜があの当時なにを考えていて、どうして塵霊に呼び寄せられてしまったのか。
「旧校舎の不思議なオバケはね、その私の不安な心に寄り添ってくれたの。明らかに普通の存在じゃないのは分かってたんだけど、どうしても心が求めてて……。あの日、思わず永井くんを置いて行っちゃたんだ」
あの日――。二人で遅くまで図書室で勉強をして、その帰りの途中に忘れ物をしたと言って引き返した莉菜が、旧校舎へと消えていった日。
なにも気づいてなんていなかった。莉菜の悩みも、塵霊という異常なものに惹かれていたということも。
「その後なにがあったかは訊いてもいい?」
「もちろん。……なんだけど、そのオバケと会ってからはちょっと曖昧なんだ」
「それでもいいよ」
莉菜はあの日のことを思い出すように、しばらく考えてから語り始めた。
「あのオバケに会ったあと、気づいたら朝になってて、旧校舎の廊下で倒れてたの。なんとか家に帰ったんだけど、なんだか頭がぼーっとしてて、数日はずっとそんな感じだった……。けどね、少しずつ意識がはっきりとしていく中で思うようになったんだ」
莉菜はそこで一度ひと呼吸を置いた。
「私の人生、このままじゃダメだって。それに気づいたらじっとしていられなくなって、一念発起で家を飛び出してた」
全然、想像もしていなかった。
だって、塵霊に食べられてしまったなら、もっと廃人のようになってしまうものだと思っていたから。
「まあ、お金も行く当てもなさ過ぎて、すぐに田舎のお婆ちゃんの家に転がり込んだんだけどね」
俺がなにも言えずにいると、莉菜はそう言って笑った。
「私ね、ずっとお父さんとお母さんに依存し過ぎてたんだ。学校までやめちゃったのはもったいなかったと思うけど、はじめて自分の意思で行動ができたから。今でも後悔はないよ」
そう話す莉菜の表情から、その言葉に嘘はないんだと分かる。
なんだか、ますます分からなくなった。だって塵霊は憎むべき存在で、そう信じるのは、莉菜が傷つけられたと思っていたから。
その莉菜に後悔がないのなら、俺はなんのために戦ってきたんだろう?
「そのオバケのこと、恨んだりする気持ちはないの?」
「恨む? なんで?」
返ってきたのは、純粋な疑問。
「だって、そいつがいなかったら、信じるものを無理やり変えられることもなかったんじゃないの?」
だってそうだ。塵霊と出会いさえしなければ、莉菜は俺の知る莉菜のまま、変わることなんてなかったはずなのに。
「確かに、考えなしに家を飛び出したりはしなかったかも。あのオバケに会って、自分が変わったのは間違いないと思うし」
まるで今気づいたみたいな口ぶりだった。
「だったら――」
「けど、私が別人になったわけじゃないから。ただ少し、段階を飛ばして大人になっただけなんじゃないかな」
そう語る莉菜の目は、ずっと遠くを見つめている。
どうにもならないあの頃じゃなくて、どうにでもできるこれからのことを見ているような、そんな目にも見えた。
そんな顔、俺たちが学生だった頃は一度も見たことがなかったのに。
「莉菜も大人になってたんだね」
「それは永井くんもだよ。髪も伸びて、だいぶ雰囲気変わったね」
「莉菜の方が、ずっと変わったよ。すごく、大人っぽくなったっていうか……」
綺麗になったね。
意気地なしな俺は、たったそのひとことが言えない。
莉菜がチラと時計を気にしたのが見えた。この再会も、そろそろ終わりの時間になろうとしている。
「もし、たとえばの話だけどさ」
俺はそんな言葉で切り出した。
「もう一度あの時に戻れるとしたら、やっぱり莉菜はまたそのオバケのところに行くの?」
きっと答えは決まってる。
それでも、訊かずにはいられなかった。
「行くよ。あの時は、それしか考えられなかったから」
莉菜は強い声ではっきりと答えた。
せめて、その”オバケ”のことを恨んでくれていれば、俺も少しは救われたのに。
莉菜はそれからすぐに、「でもね」と続けた。
「もし二人一緒にやり直せるなら、今度は永井くんに私を止めてほしいな」
それは完全に不意打ちだった。
なにも言葉が出てこない。
「そろそろ戻らないと」
莉菜はそう言ってベンチから立ち上がる。
それから最後に、莉菜の提案で連絡先だけ交換をした。それも終わると、いよいよ久しぶりの再会の時間は終わりになった。
「それじゃあまたね」
聞き馴染んだ優しい声でそう言うと、少しだけ急ぎ足で店の方へ戻っていく。
その背中が、図書室で勉強をした帰りの莉菜に重なった。
『ごめんね。忘れ物しちゃった』
そう言って廊下を引き返す背中を、もう何度思い出したか分からない。
あの時すぐに引き止めていれば、俺たちの未来はこんな風にはならなかったはずなのに。
そんな後悔を抱えながら、俺はまた莉菜の背中を見送っている。




