迷い
こんな日でも旧校舎は、変わらずに俺を出迎えてくれた。
聞こえるのは自分の足音だけで、真っ暗なこの廊下を照らすのも、手の中のライトの光だけだ。
犬塚には、今日の調査は中止だと伝えてある。この旧校舎をひとりぼっちで歩くのは久しぶりだった。
やっぱり、真っ暗なこの世界が落ち着く。
外の光も差し込まないこの場所で、いるのは自分と塵霊たちだけ。ここが俺の居場所なんだと、そう強く思った。賑やかな生徒の喧騒に囲まれた昼の校舎は、俺のいるべき場所じゃない。
だけど、もしもまた莉菜に似た塵霊が現れたらどうすればいいんだろう。
結論なんて出ていない。出せそうな気もしない。
なにも分からないまま、身体が動くままに歩き続ける。
まるで世界に自分しかいなくなったみたいだ。
そんなことを考えてしまうくらいに静かで、見える風景に変化はない。こんな夜は、つい余計なことを考えてしまう。
『永井くんは永井くんだよ』
真知子先生の声。
『鴨居さんはやり直せます。自分には無理だって、ただ決めつけてるだけじゃないですか』
犬塚の声。
二人の言葉を頭の中で否定する。
この光の当たらない世界が今の俺の居場所で、あの頃の自分になんて、もう戻れるはずもない。
近くの階段から二階に上がる。目の前の廊下には、小さな塵霊が数体、ふわふわと辺りを飛び回っている。
左腕は上がらなくても、右腕は満足に動く。
「邪魔」
距離を詰めながら抜刀し、切り払う。この程度の相手なら、片手でも十分事足りる。少し刃をふるうだけで、近くの個体はすべて消すことができた。
そのまま廊下を進むと、大量の塵霊が前方に姿を見せた。さらに気配を感じて振り向くと、後ろにも同数程度が集まっている。小さな個体から、少し成長したサイズのものまで幅広い。
ふと、自分が笑みを浮かべていることに気づいた。これくらい相手がいる方が、張り合いがある。
瞬間、塵霊たちがいっせいに動いた。宙に浮いた球状の個体は飛来し、四本足が数匹、足元を這うように駆けてくる。
前後、空中と足元から塵霊が迫る。完全に退路はない。
ライトを置いて、右手に小刀を握り、痛みを堪えて左手で札を抜く。避けられないなら、全部迎え撃つだけだ。
前方から迫り来る塵霊たちの方へ一歩を踏み出した。
飛びかかる塵霊の進路を読んで、その軌道に刃を振り下ろす。同時に、足元を狙う四本足は思い切り蹴り上げて、浮いたところに札を叩き込んだ。自分の足の方も無事では済まなかったけど、札を食らった塵霊は相当の光を失った。
そこからは夢中だった。目の前の塵霊へ向けてひたすら刀を振るう。切って、かわして、食らって、トドメを刺して。
それを繰り返しているうち、感覚が研ぎ澄まされていく。
攻撃を受けているはずなのに痛みを感じない。頭も冴えていき、最適な動きが瞬時に判断できている。まるで、自分が自分じゃなくなったみたいに、身体は塵霊を消し去り続けた。
なにも考える必要なんてなくて、ただ無心で目の前の塵霊を消していく。
ああ、楽しいなぁ。
塵霊を倒す、たったそれだけのシンプルな仕事。痛みや危険は伴うけど、難しいことを考える必要なんてどこにもない。
やっぱり、俺にはこういう仕事が似合ってるんだ。
塵霊を倒すたびに、パチパチと弾ける音が響く。その音が、だんだんとクセになってきた。
もう何度も塵霊にはぶつかられて、全身がビリビリと痺れている。ポルターガイストによる攻撃を食らうこともあったし、そもそも動くだけで昨日の怪我が悪化していく。
それでも、感じるのは小さな違和感程度で、痛みを気にする必要もない。
残すは最後の一体だ。
バスケットボールほどの球体の塵霊が、廊下にぽつんと浮かんでいる。
「そうだよ」
俺は刀を構える。
「お前たちがいなくなれば、全部それで済む話じゃないか」
塵霊が一体残らずいなくなれば、莉菜と同じ被害に遭う人もいなくなるし、田村だってもう二度と塵霊を求めることをしなくなる。
一閃。
刀を振り下ろすと、塵霊は両断されて、そのまま火の粉のように消えていった。
これで目に見える範囲に塵霊はいなくなった。達成感はなにもない。
大きく息を吐いて緊張の糸を緩めると、身体が痛みに気づき始める。呼吸も早くて、その場で立っているだけでやっとなほどだ。
廊下の壁に身体を預けて、また息を吐く。歯を食いしばって痛みに耐える。そうしていないと、今にも倒れてしまいそうだ。
さすがに、今日は限界かもしれない。
そう思った時だった。廊下の奥になにか動く影が見えた。塵霊とは少し違う。今のはきっと、人影だった。
それに気づいてしまったら、ここで止まっているわけにはいかなかった。
影の見えた方へ走る。一度気づいてしまった痛みは消えてはくれないけど、耐えられないほどじゃない。
突き当りを左に曲がると、そこにはショートカットの女子生徒の姿があった。知らない生徒だ。
その女子生徒の向こうには、ちょうど人と獣の間の見た目をした塵霊が立っている。腰が思い切り曲がって、まるで猿から人へと進化する過程を思い出す。
間違いなく、この塵霊がこの生徒を呼んだんだろう。
「だれ……?」
ショートカットの彼女が振り向く。警戒する声だった。
まったく見覚えのない顔で、たぶん授業を持っていない生徒だろう。
「いいから、早くここから逃げて!」
呼びかけても、その女子生徒はただ困惑を示すだけだった。
ゆらり、と、猿に似た塵霊は一歩、彼女へ近づこうとした。正体を隠そうなんて、考えている余裕はなかった。
こいつを消す、そして、この生徒も救う。
小刀を鞘から抜き、一気に距離を詰めてその胴体へ振り下ろす。確実に捉えたはずの一撃だった。が、猿は腕を伸ばして刃を受け止める。
光で構築されたその身体は、想像以上の硬度だった。
まずい――。
距離を取ろうと思った瞬間、もう片方の腕が脇腹を強打した。
強烈な電流を食らったような痛みが走る。一瞬、意識が飛んだ気がした。
歯を食いしばって、どうにか意識をしっかりと保つ。
再び小刀を構えて、今度はそれを猿の胴体に突き刺した。渾身のひと突きは、その胴体の奥までしっかりと届いた。
「いやあっ!」
甲高い悲鳴にも似た叫びが響く。
それは、ここにいるショートカットの女子生徒の声だった。この塵霊に、完全に心を掌握されてしまっている。
刀を突き刺した箇所から光が漏れる。猿は苦しそうに身体をよじった。
『オオオオオオォォォォ!』
突然、猿は大きく口を開けて咆哮を上げた。
地鳴りのような声が頭の中に直接響く。ガンガンと頭が揺さぶられて、平衡感覚がなくなりそうだ。めまいに似た感覚がする中で、猿が右腕を振り上げたのが見えた。
それでも、あの長い髪の塵霊に比べれば、この咆哮もまだぬるい。
小刀を猿の胴部から抜き取ると、今にも振り下ろされる右腕に突き立てた。
その一撃で明らかに怯んだのが分かった。
懐に入って、胴部の傷口に札をまとめて叩き込む。触れた周囲の光が弾け飛んだ。猿の身体が大きくよろめいた。
「やめて……」
なにか声が聞こえた気がしたが、気にしている余裕はない。
見れば、下腹部の辺りに強く光るコアがあった。勝利を確信して、思わず笑みがこぼれる。
もう一度札をまとめて抜き取って、また距離をつめる。
猿は腕を払って抵抗をした。その左腕が顔面を強打したけど、耐えられない痛みじゃない。
くちびるを舐めると、鉄の味がした。
「やめて……!」
猿はもう一度吠えようとしたのか大きく口を開ける。咆哮が上がる寸前、手持ちの札をコアに叩きつけた。
開いた口が放つのは断末魔だった。コアが弾けて、それから身体を構成する光がさらさらと消えていく。
どさり。後ろから音がした。
振り向くと、ショートカットの女子生徒が崩れ落ちた音だと分かった。床にへたり込んで、消えていく猿の塵霊を呆然と見つめている。
その瞳から、涙がこぼれた。
「なんで……」
大丈夫、今は少し混乱してるだけだから。きみを惑わしていた悪い存在はもういなくなったから。
そんな言葉が出てこない。
まるでこの世の終わりみたいな、そんな表情にも見えた。
「なんで、こんなひどいことをするんですか……? この子は、この子だけが私の……」
嗚咽混じりの声でそんなことを言われて、言い返すことなんてできなかった。彼女の言葉はそこで途切れて、あとはすすり泣く声だけがこの廊下に響いた。
ふと、彼女の奥に一つの気配があることに気づく。少し離れた場所から、あの猫背の幽霊がこちらを見ていた。
とっさに身構えるが、ただ見つめているだけでなにかをしてくる気配もない。前髪で目が隠れて、表情は読めない。
「ここは危ないから、とりあえず離れよう」
女子生徒の腕を引いて立たせる。意外にも彼女は素直に立ち上がり、それからもおとなしく腕を引かれるままついてきた。
旧校舎を出て、そのまま駅まで連れていく。最後まで、彼女が泣き止むことはなかった。
改札を抜けてショートカットが遠ざかる。やがて、電車を降りてくる帰宅者の集団に紛れて、彼女の背中は見えなくなった。
なにも分からなかった。
あの猿の塵霊は彼女の心を惑わして、その魂を食べようとしていた。俺はその危険から彼女を守ったはずだった。
それなのに、この気分はなんだろう。あんな表情を見せられて、正しいことをしたのだと言い切れる自信がない。
この行動に、少しも間違いなんてないはずなのに。
「痛いな……」
女子生徒を見送るまでは気を張っていたのか、一人になった途端、全身が悲鳴を上げ始めた。
塵霊は敵だ。
五年前に莉菜はその魂を食べられて、この街から突然姿を消した。田村だって、河野だって、弱った心を彼らに付け狙われていた。
だから、倒して、倒して、倒し続けた。それが誰かを救うことにつながっていると信じていた。
それなのに――。
たまらなくなって、近くの電柱を腕で叩いた。ぶつけた箇所がじんじんと痛んで、また辛くなった。




