眞鍋真知子
翌日の授業は痛みとの戦いだった。
歩くたびに足に痛みが走って、左腕はまともに上がらない。それでも、怪我の理由を探られないように、痛みを隠して振る舞った。
身体が痛むたびに昨日のことを思い出す。旧校舎で出会った、莉菜とよく似た塵霊。
辛々逃げ出してひと晩が経った今でも、迷いと混乱は消えていない。いったいどうすることが正解なのか、果たして悩むことで答えが出るのかさえ分からない。
「先生」
授業中、突然一人の生徒から声が上がった。
「なに?」
「さっきから、言ってることと板書してることがバラバラなんですけど」
指摘されてはじめて気づいた。そういえば、今が授業中だということも忘れるくらいにぼうっとしてしまっていた。
「教師だってたまには間違えることもある」
そんな弁明が通用するのは、日頃から信頼を得ている場合だけだと分かってはいる。それでも、他に思いつく言い訳がなかった。
そんな微妙な空気のまま授業が終わって、教室をあとにする。
今日はまだ、あと一コマ授業が残っている。下手に勘繰られないように、次までには気持ちを切り替えておかないと。
「鴨居先生」
廊下を歩いていると、不意に後ろから呼び止められた。聞き馴染みのある女性の声だ。
足を止めて振り返る。
「眞鍋先生、お疲れ様です」
「お疲れ様です。怪我の具合は大丈夫ですか?」
真知子先生は早足で近づきながら訊いた。
「ええ、まあ……」
わざわざ呼び止めてそんなことかと思った。
だけど、その直後に気づく。
どうして真知子先生が怪我のことを知っているんだ?
「また手伝ってほしいことがあるんですけど、ちょっと来てもらえますか?」
有無を言わせぬほどの声で真知子先生は言った。
どのみち返事は決まっている。怪我のことを知っている理由を確かめなければ、きっと取り返しのつかないことになる。
うなずいて答えると、真知子先生は「ありがとうございます」とだけ言って歩き出す。俺も黙ってそれについていくと、いくつかの階段を上がって、案内されたのは校舎の屋上だった。
屋上に出るのは、生徒だった時代も含めて初めてだ。
「それで、手伝って欲しいことっていうのは?」
学校の屋上なんて、いかにもおあつらえ向きの場所だ。
それでもあえてとぼけてみた。
「すみません。手伝ってほしいことっていうのは、先生を呼び出すための嘘です」
俺はまた驚いたふりをする。騙されたふりに騙されるなんて、なんだか真知子先生らしいと思った。
真知子先生はまた謝ってから続けた。
「屋上なら、静かに話ができると思ったんです。うちは校則で立入禁止になってますから」
俺は黙って真知子先生の出方を伺う。下手なことを言って墓穴を掘ることだけは避けたかった。
真知子先生は、覚悟を決めるように一度小さく息を吸った。
そしてそれから、はっきりとした口調で言い切った。
「教えていただけますか、鴨居先生。――いや、永井くん。あなたはなにをしにこの学校に来たの?」
予感はしていた。
それでも、胸のあたりがすーっと冷えていく。
「なんの話ですか? 永井って生徒のことなら、知らないと言ったと思いますけど」
「ううん。残念だけど、もうその言い訳は通らないの」
真知子先生は力強く言い切った。どうしてそこまで確信が持てているのか、考えられる理由はそう多くない。
真知子先生は言葉を続けた。
「昨日の夜、私も旧校舎にいたんだよ」
それを聞いた瞬間、すべての言い訳を諦めた。
「永井くんは何者なの? あの上原さんに似ているオバケはなんなの?」
「先生には関係のないことです」
「関係あるよ。この学校のことなら」
想定していた中でも最悪の状況だった。まさか、あの塵霊まで見られていたなんて。
なにより都合が悪いのは、真知子先生が五年前のあの事件のことを知っていることだ。見られたのがなにも知らない人間だったら、あの塵霊もただのオバケとでも言って誤魔化せたのに。
「永井くんの目的はなに? なんのためにこの学校に戻ってきたの?」
答えることができずにいると、さらに質問をたたみかけられる。
「一緒にいたのは、三年の犬塚さんだよね? 私には、あの上原さんに似たオバケと戦ってるように見えたけど、いったい二人でなにをしていたの?」
必死に頭を働かせても、正しい答えは浮かばない。
塵霊のことなんて、普通の人に話したところで理解されるはずがない。なにより、この質問に答えるためには、莉菜が消えた経緯の説明が必要になる。
自分の口からは絶対に話せない。
「永井くん、お願い答えて。そうじゃないと、見たままのことを報告しなきゃいけなくなるの」
こっちが追いつめられているはずなのに、どうしてか真知子先生は必死だった。
と、その時、視界の奥で屋上のドアが開くのが見えた。誰かが来る。
とっさに真知子先生の腕を引いて、貯水槽の陰に隠れる。ドアから出てきたのは、咥えたタバコに火をつけようとする教頭だった。
真知子先生はそれを見て驚いた。
「教頭、よくいなくなると思ったら、タバコ休憩だったの……⁉」
今はあんまり気にすることじゃないと思った。
教頭は柵の上に肘をついて、気持ちよさそうに煙を吐き出している。
この男の耳まで話が届けば、間違いなく俺は教師の立場を失うことになる。そうなれば、この学校での任務も終わりだろう。
「いいんですか? 俺を突き出すなら、ちょうどいいタイミングだと思いますけど」
「永井くんはそれでいいの? クビになっちゃうかもしれないんだよ?」
教頭まで聞こえてしまわないように、俺たちは声を潜めて話をする。お互い貯水槽に背中を預けて、肩が触れそうな距離で隣に並んだ。
「つくづく甘いですよね、真知子先生は。だから生徒に舐められるんです」
俺がまだ生徒だった頃も、生徒から揶揄われても叱ることもできないでいたのを覚えている。その優しさのせいでいつも損をしてしまうんだ。
それでも真知子先生は、小さな声で「違うよ」と言った。
「違う?」
「確かに私は甘いかもしれないけど、今こんなに悩んでいるのは、相手が永井くんだからだよ」
「それは、俺が昔の教え子だから?」
真知子先生は首を横に振った。
「永井くんは、私の恩人だから」
想定していなかった言葉に驚いた。
「俺は別に、なにもしてないと思いますけど……」
「してるんだよ。永井くんには、その自覚がなかったかもしれないけど」
真知子先生とはそれなりに話をした覚えがある。それでも、ほとんどが勉強の質問だったり他愛ない会話だったはずだ。
真知子先生は貯水槽を背もたれにして、その場にしゃがみ込んだ。
「私、こんなキャラだから、着任した最初の年、生徒たちにすごく舐められちゃって……。まあ今でもそれはあんまり変わらないんだけど……」
そのことならよく知っている。
俺が三年生に上がった年に、真知子先生はこの学校に新人教師として着任をしたんだった。
「先輩の先生からは、舐められるのは私の態度に問題があるからだって。みんな『真知子ちゃん』『真知子ちゃん』って、仲良くしてくれるのは嬉しいけど、そう呼ばれるたびに先輩からは怒られてた……。そんな中、教師としての私と仲良くしてくれたのは、永井くんだけだった」
話を聞いているうちに記憶が少しずつよみがえった。
真知子先生に対する生徒の態度は、クラスの中でも二分していた。友達感覚で「真知子ちゃん」と呼ぶカースト上位の生徒たちと、それを冷ややかに見つめているそれ以外の生徒たち。
確かに俺は、そのどちらでもなかったと思う。
「だからって大げさすぎですよ」
「永井くんにとっては、なんでもないことだっていうのは分かってるの。だけど、私にとってはすごく大きなことだったから……。大げさじゃなくて、あの時永井くんがいなかったら、教師を辞めていたかもしれないくらい」
つくづく、最悪の人に目撃されてしまったと思う。
真知子先生と話していると、自分がまだ真っ当に生きていた頃のことを嫌でも思い出してしまう。
今さら、いなくなった人の話なんかしないでほしい。
「そうだとしても、眞鍋先生を助けたのはその永井であって、俺じゃないです」
「そんなことない。永井くんは永井くんだよ」
短くなったタバコを携帯灰皿の中にしまった教頭は、建物の中に戻っていく。
ドアがしっかりと閉まるのを確認して、大きく息を吐いた。
「行っちゃいましたね」
「いいよ。どうせ、話す勇気もなかったし」
真知子先生は、やけに疲れきった様子で言った。
俺は貯水槽の陰から出て、しゃがんだままの真知子先生と向き直った。
「旧校舎でのこと、話さないでいてくれてすごく助かってます。俺にはまだ、この学校でやらなきゃいけないことがあるので」
「その”やらなきゃいけないこと”っていうのがなにか、教えてはくれないんだよね?」
「すみません」
答えの代わりに謝罪を口にすると、真知子先生は寂しそうに笑った。
「ホントずるい。そうやって昔の恩義につけこんで」
「すみません」
そうやって謝る以外に、今なにができるだろう。
真知子先生はしゃがみ込んだまま、じっと足元のコンクリートを見つめている。これ以上話を続けてもお互いに傷つくだけだと分かった。
最後に一礼だけしてから、真知子先生のもとをあとにする。明日からもこの学校の教師として働くことができるのか、それはすべて真知子先生次第だ。
そういえば最近、犬塚からも”ずるい”と言われたことを思い出した。
俺は、ずるい人間なんだろうか。




