犬塚みちる
俺がこの学校に教師として潜入をしてから、およそ一ヶ月が経過した。
少しずつ教師としての仕事も分かってきて、授業をすることにもそれなりに慣れてきた。教科書を眺めているうちに、必死に勉強をしていた昔の記憶も蘇ってきて、今では授業の中で簡単な解説くらいならできるくらいだ。
授業が終わると、一人の生徒が勉強の質問に来た。最近では、少しずつこういうことも増えている。
こうしていると、まるで本物の教師にでもなったような錯覚に陥る。
公式の原理の説明を終えて、質問に来た生徒へを見送る。教壇の上の荷物をまとめて教室を出た。
廊下に出て少し歩くと、久しぶりの顔があった。河野だ。
「あ、鴨居先生」
さすがにもう「合格ハチマキ」はなくなっていたけど、分厚いメガネはそのままだ。こうして見ると、ついひと月前まですべてを野球に懸けていたとは想像もできない。
「見た目だけなら、すっかり優等生だね」
「そう言わないでくださいよ。最近は成績もかなり急伸びてるんですから」
河野は得意げに言ってから、「まあ元がひど過ぎただけかもですけど」と小さく加えた。
「でも、ちゃんと成果が出てるなら良かったよ」
「勉強なんて、自分には絶対できるわけないって思ってたんですけど。なにがあるか、わからないもんですね」
そんな河野の言葉に安堵した。
これから河野がどうしていくのかは分からないけど、少なくとも、あの日の旧校舎での行動に間違いはなかったんだと思える。
「そうだ、今度勉強教えてくださいよ。教科書読んでも、全然分かんないところだらけなんです」
「俺は河野の家庭教師じゃないんだから。だいたい、教えられるのなんて担当科目くらいだよ」
「俺を変えたのは鴨居先生なんですから、責任持って面倒見てくださいよ。それに、本当に初歩の質問しかしないですから」
もともと生意気な態度ではあったけど、あの一件以来、特に馴れ馴れしさが増したと思う。それが歓迎される変化なのかは分からないけど、悪い気はしないから不思議なものだ。
「まあ時々ならいいけどさ。本当に大したこと教えられないけど」
俺は勉強を教えるためにこの学校にいるわけじゃない。そのはずなのに、どんどん本物の教師らしく染まっていっている気がするのはなぜなんだろう。
たぶん、学校という場所の空気に当てられているんだ。
「よろしくお願いします」
そう言ってはにかむ河野の顔を見ると、仕方がないと許してしまいそういなる。
その時、「オイ!」と、隣の教室から語気の強い男の声が聞こえてきた。
声の方を見ると、男性教師が一人の女子生徒を叱っているようだ。その女子生徒の姿を見て驚いた。
叱られているのは犬塚だった。
「あいつ、いつも怒られてるんですよね」
俺が犬塚を気にしていることに、河野は気づいたみたいだ。
クラスを示す教室の上のプレートを見て納得した。
「そっか、ここは河野のクラスか」
河野と犬塚は同じクラスだったのか。
「うちのクラスはみんな部活がメインなんで、多少不真面目でも見逃してくれますけどね。あいつはちょっとやらかしが多くて、完全に目をつけられちゃってるんですよ」
「やらかしって?」
「いろいろですよ。遅刻するとか、教科書を失くすとか。あとは言い訳が下手くそだから火に油注いでる感じですかね」
少し犬塚らしいと納得してしまった。あの不器用さならあり得る話だ。
「それと、あいつは三年になってから転入してきたんですけど、いまいち素性が謎なんですよね。うちのクラスはみんな部活をやってますけど、あいつはどこにも入ってなくて。そういうのもあって、余計に悪目立ちしちゃってるっていうか」
犬塚は、今もくどくどと教師からの説教を受けている。生徒のふりをすることも、気楽ではなさそうだ。
夜、旧校舎の一階はまたその姿を変えていた。
犬塚と合流していつも通りに旧校舎に入ってみても、なにも起こらない退屈な時間が続いていた。塵霊の姿もなければ、二階に上がれる階段も見当たらない。
なにか変化を求めて歩き回って、もう十分以上が経ったと思う。それでも同じ景色が延々と続くだけで、いい加減に間がもたなかった。
ライトを左右に揺らして様子を確認しながら、ふと犬塚に訊いてみた。
「犬塚ってさ、普段学校ではどういうキャラでやってるの?」
「どうって、別に普通です。友達もいるし、うまくやってますよ」
心なしか、いつもよりもツンケンした態度に見えた。俺が昼のことを知っているから、そう見えているだけかもしれないけど。
「実際、他の生徒と一つしか歳は変わらないんだっけ」
「そうです。だから、全然上手くやれるんです」
やっぱり、どこか言葉にトゲがある。
「そっか……」
「そうなんです」
なんだかぎこちない空気になって、また会話がとまった。
ひょっとしたら、今もどこかであの猫背の幽霊がこの光景を見て、嘲笑っていたりするんだろうか。
またしばらくお互い無言のまま歩いて、同じ景色を繰り返す。そうしているうちに、二つの廊下が十字に交錯する場所へと出た。 どの道を進もうかと迷っていると、不意に「あっ」という声が聞こえた。
「なにかあった?」
隣を振り向くと同時に、犬塚が走りだす気配があった。暗闇の中で足音が反響して、一瞬、犬塚を完全に見失った。
ライトで辺りをぐるりと照らすと、来た道を引き返すように走る犬塚の背中が見えた。「ちょっと!」
「今、塵霊が!」
その言葉の途中で犬塚の背中が見えなくなる。近くの角を曲がったみたいだ。
「一人で突っ走るなよ……!」
吐き出したその声は届かない。急いで犬塚の後を追って走る。
角を曲がると、すぐに犬塚の姿は見つかった。その次に見えたのは、そこに跳びかかろうとする四本足の塵霊だった。
大型犬ほどのサイズのあるそれは、犬塚を押し倒すと、顎が外れそうなほどその口を大きく開いた。
その口が犬塚を捕らえる寸前、胴部に札を叩き込む。四本足はその一撃に怯んで、犬塚から距離を取った。
札を当てた胴部は大きく抉れて、そこからは一際明るいコアの部分がのぞいて見えた。塞がれる前にと、俺は距離を詰めて一気に追撃に入る。
前脚を使った反撃をかわしながら、胴部へもう一撃、今度は確かにコアまで届かせた。
四本足の塵霊は、ぱちぱちと音を立てながら崩れていった。廊下は再び静寂と暗闇に包まれる。振り向いてライトを向けると、犬塚は床に座ってうつむいた体勢でいた。
「犬塚」
呼びかけても反応がない。
しばらく待って、やっと帰ってきたのは弱々しい声だった。
「やっぱり、私って必要ないです。私が何もできなかった相手も、鴨居さんは簡単に倒しちゃうんですね」
「今のは運が良かっただけだよ。犬塚に気を取られて油断してたし、コアの場所がすぐに分かったのだって偶然だし」
犬塚は激しく首を横に振った。
「今回だけじゃない! 私は、ずっとダメなんです。どこに行っても、何をしても、本当にダメなんです……」
きっと昼間のこともあって、溜まっていたんだろう。
ふさわしい言葉が見つからず何も言えずにいると、犬塚はとつとつと語り出した。
「私、実家が石川にあって、実は結構歴史のある呉服店なんです。だから両親が所作とかにめちゃくちゃ厳しくて、小さい時から毎日怒られてばかりで……。他に一つでも取り柄があれば良かったのに、勉強も運動も、なにをしてもダメでした」
犬塚は自嘲するように鼻で笑った。
自分のことなのに、まるで他人のことを語るみたいに犬塚は言葉を続ける。
「四つ下に妹がいるんですけど、なんでもできるすごい子なんです。だから、妹が成長するにつれて、どんどん私がいらない子になるのが分かったんです。それで私も家から離れることが多くなって。高校三年の途中、ついには東京まで逃げ出して来ちゃいました」
犬塚とはこの一ヶ月近く、ずっと一緒に仕事を続けてきた。
少しは分かるようになった気でいたけど、まだ知らないことばかりだったと突きつけられた。
「鴨居さんはもう十分知ってると思いますけど、私、本当になにをしてもダメなんです。だから東京に来ても全然うまくいかなくて……。もう生きていくのも辛くなった時、リオさんがこの仕事に誘ってくれたんです。だから、今度こそ絶対、この場所を失うわけにはいかないんです……!」
犬塚の言葉に力がこもる。
どうしてこんなにこの仕事に懸命だったのか、その理由がやっと分かった。犬塚は、ただ認めてもらいたくて、居場所を失いたくなかったんだ。
初めて会った時に見せた根拠のない自信も、無駄な強がりも、全部自分を良く見せようとしてのことだったのか。
犬塚にとって、きっとこの仕事が最後の砦だったんだ。
「だから、ずっと頑張ってたんだね」
床に座り込んだままの犬塚は、ゆっくりと深くうなずいた。
近づこうとすると、犬塚は足元に散らばった札を投げつけようとして拒絶した。
「鴨居さんはズルい。あんな怖い塵霊もあっさり倒せるくらい強いし、先生のフリができるくらい頭もいいし、見た目だって悪くないし……。私も、そんなふうに生まれたかった」
言葉の途中に、時々鼻水をすする音が混じった。
「全然、羨ましく思われるような人間じゃないよ。今だって、こうして日の当たらない場所でコソコソと生きてる」
「そんなの、関係ないです。リオさんだって鴨居さんのことは認めてるし、生徒から信頼されてるみたいな様子も見たことあるんです!」
河野と話しているところでも見たんだろうか。誤解を解きたくて、俺は何度も首を横に振る。
「違うんだよ……。俺は誰かに信頼してもらえる人間じゃないんだ」
頭によみがえるのは、五年前のある日の放課後。図書室で勉強をした帰り、忘れ物をしたと言って、莉菜は足早に来た道を引き返していった。それからほどなくして、旧校舎に消えていった莉菜の背中は、今でも頭にこびりついている。
犬塚になら、話してもいいと思った。
「俺は昔、大事な人を塵霊に食べられたんだ」
それを切り出すと犬塚はハッとした。この話を誰かにするのは、リオ以外には初めてだった。
「塵霊は、人の不安定な心につけ込む。今なら分かるけど、今になってもその人がどうして塵霊に誘惑されたのか分からないんだ」
「じゃあ、その人は?」
「いなくなったよ。学校にも来なくなって、連絡も取れなくなった。俺はその事実が受け止められなくて、全部投げ出したんだ」
言葉にしたら、あの日の感情があふれてきた。
ただ誤解を解きたかっただけなのに、止まらなくなるのが抑えられなかった。
「正直、それまではうまくやってたんだよ。勉強はそれなりにできたし、人間関係にだって恵まれてたと思う。でも、莉菜がいなくなってから全部がどうでもよくなって、一度投げ出すことを覚えたら、どんどん逃げることが癖になってたんだ。そんな人間が偉そうに教師ごっこをする資格なんてないんだよ……」
勉強ができるかどうかじゃない。大学を出ているかどうかでもない。俺はもっと根っ子の部分で間違っていたんだ。
「だから俺は、犬塚が思うような人間じゃないんだ」
全部を語り終えて、最後に一度大きく息を吐く。自分のことを話したせいか、不思議な高揚感があった。
それでも、犬塚が見せたのは想定とは違う反応だった。
「やっぱり、ズルいです」
「全然、ズルくないでしょ」
「ズルいんです」
犬塚は強い口調で否定した。
「だって、鴨居さんはやり直せます。自分には無理だって、ただ決めつけてるだけじゃないですか」
とっさに言葉に詰まる。たぶんそれは、図星だったから。
「それは犬塚だって同じだよ。俺なんかよりずっと若いんだし。こんな履歴書にも書けないような仕事じゃなくてさ、他にももっと道は選べるよ」
「無理ですよ。リオさんが声をかけてくれるまで、誰かから必要としてもらうことなんてなかったんだから」
「そんなの、自分で思い込んでるだけだよ。しばらく一緒に仕事をしてきて、少なくとも俺は犬塚がいてくれてよかったし」
犬塚からの言葉が止んだ。
見ると、犬塚は膝を抱えて小さくなっていた。そのまま待っていると、やがて小さく「無理だよ……」と聞こえてきた。
誰かになにかを言われた程度で変われるなら、きっと俺たちは今ここにいない。落ちきってしまった人間は、そう簡単に這い上がることなんてできないから。
「今日はもう帰ろうか」
話も探索も切り上げて、俺たちは玄関を探してまた歩き始めた。
まるで迷宮みたいなこの校舎も、帰り道は意外にもあっさりと見つかった。旧校舎を出て、学校の敷地の外に向かって歩く。
俺はふと、後ろの旧校舎の方を振り向いた。
『鴨居さんはやり直せます。自分には無理だって、ただ決めつけてるだけじゃないですか』
犬塚からのその言葉が、頭にこびりついて離れない。
どうして今さら、こんなにも引っかかるんだろう。
暗闇の中でこそこそと生きることには、もうとっくに慣れっこだ。誰かに後ろ指をさされるような人生だって構わないし、もう二度と当たり前の道に戻れないのだって分かっていた。
それでもいいと、もうとっくに諦めたはずだったのに。
いつの間にか、こんなにも欲が出ていたんだ。




