黒霧の旧校舎
「どうしたんですか? こんな時間に」
ある夜、正門を抜けて旧校舎へ向かって歩いていると、不意に後ろから声をかけられた。
振り向くと、よく見かける初老の警備員の男だった。
「明日の授業で、準備が足りてないのに気づいちゃって」
「この前もこんな時間に戻ってきませんでしたか?」
男の言葉にどきりとする。
顔を覚えられると、あらぬ不信感につながりかねない。
「家が近いので、ちょっとしたことでも戻ってきちゃうんです」
「常勤じゃないのに大変ですねえ」
そんな言葉を適当に流しつつ、早足でその場を離れる。
不審に思われないように、一度新校舎へ進んでから、旧校舎へと向かって犬塚と落ち合った。
パチパチと火花のような音を立てながら、一体の塵霊が消えていく。これで目に見える範囲からは一掃したことになる。
犬塚と二人で久しぶりに旧校舎の探索を始めて、ここまで順調に進んでいた。
サイズの大きな塵霊に遭遇することもなければ、犬塚も少しずつ仕事に慣れてきたのが分かる。
「鴨居さん、見てました!? 私、今倒せました!」
「見てたよ。だいぶ落ち着いて動けるようになってたんじゃない?」
「まだまだ、これからもっと役に立ちますから」
エアガンタイプの武器は相変わらず上手く扱えていないけど、まずは落ち着いて札を使えるようになっていた。
旧校舎の一階部分からは、もうずいぶん塵霊の数が減ったと思う。上の階の様子はまだ分からないことも多いけど、少なくとも前には進んでいる感覚がある。
一階の校舎の構造は、河野を追いかけてきた時と同じだった。周囲に塵霊がいなくなったのを確認してから、二階へと続く階段を上る。
久しぶりに上がった二階の様子を見て、思わずため息が出た。
「やっぱり、二階はまだ時間がかかりそうだね」
階段を上がりきると、俺たちを出迎えたのはたくさんの塵霊だった。サイズや形もバラバラで、廊下の隅から天井近くまで、数を数えるのも億劫なほどだ。初めて幽霊と遭遇した時と同じシチュエーションだった。
もしも、またあの幽霊が現れたなら――。
スーツの内ポケットにしまったままの特別製の札に意識を向けた。幽霊に対してこれを使う覚悟ならすでに固まっていた。
塵霊たちは、俺たちの方を向いてケラケラと笑い出す。
「やれそう?」
「だ、大丈夫です……!」
犬塚はわずかに言葉を震わせながら言った。これだけの数が同時に襲いかかってきたら、さすがに庇いきるのは難しいと思う。だけどそれは、犬塚が一切の抵抗をしなかった場合の話だ。
今の犬塚なら、少しの自衛くらいはできるはずだ。
「その言葉、信じてるから」
その時だった。
ゴォッ!と、不意に強い風が吹いた。
台風のうずの中にいるような強い向かい風が吹きつけて、立っているので精いっぱいなほどだ。風の勢いに負けて、壁に張られた掲示物が次々に剥がれる。それはバサバサと音を立ちながら、いっせいに飛来した。
ライトを持っている余裕はなくなって、とっさにポーチにしまう。「わー!」という、犬塚の緊迫感のない悲鳴が近くから聞こえた。
無数の紙が視界を塞ぐ。顔の付近に来たそれを腕で払う、その一瞬が隙になった。狭い視界の中で、塵霊たちが動き出したのがかすかに見えた。
マズい――。
猫に似た見た目の四本足が、凄まじい速さで迫ってくる。とっさに避けようとしても、風に耐えるために重心を落とした身体は動かない。猫のようなその塵霊は、俺の左足に巻きついた。
焼けるような痛みが走る。思わず膝をついてしまいそうになっていると、そこにまたいくつもの光の玉が迫る。足に巻き付いた四本足を構う余裕はない。
風に舞う紙が邪魔で視界が狭い。近づいてくる塵霊の数は五体、いや、六体か。目の前の紙を払いのけながら、もう片方の腕で刀を引き抜き切り倒す。何体か身体にぶつかってきたけど、耐えられない痛みじゃない。
やっと飛ばせる掲示物がなくなったのか、飛来する邪魔な紙はなくなった。一気に視野が広がって、大きな球体が一つ、背後から迫っているのに気づいた。とっさにそれをかわしながら、足に巻き付く四本足へ、数枚の札をまとめて叩き込んだ。
残った塵霊たちとは距離がある。向かい風も止んで、再びこう着状態に入った。
大きく息を吐く。痛みはあるし体力も削られたけど、相手の数もそれなりに減らせた。中型以上のサイズは、球状のタイプが二体とミミズのように細長いタイプが一体。まだまだ楽ではないけど、勝ち目のない数じゃない。
「し、死ぬかと思った……」
犬塚は廊下にへたり込んで放心状態になっている。それで上手く注目を避けられたのか、怪我はなさそうだ。
突然、犬塚はハッとして廊下の奥の方を見た。安堵から怯えへと表情が変わっていく。
「か、鴨居さん。奥に……」
犬塚の視線を追うより先に、なにを伝えようとしているのか直感した。
あいつが来たんだ。
廊下の奥に目を凝らす。予想通り、長い前髪で目が隠れた幽霊の少年が、そこに立っていた。
「来たね」
相変わらず猫背のその幽霊は、じっとこっちを見つめている。いかにも楽しそうに、ニヤリと笑みを浮かべながら。
まとわりつくような幽霊からの視線を感じる。じっと観察をされているみたいで、気持ちが悪かった。なにを考えているのか、何をしてくるのか、それが読めなくて不気味だ。
邪魔をされる前にあの猫背から消したいけど、そう簡単にいかないことも分かっている。
まずは周りの塵霊の数を減らすのが優先だろうか。
「立てそう?」
声をかけると、犬塚はコクリとうなずいてから立ち上がる。
その瞬間だった。
視界に異変が起きる。黒い霧のようなものが立ち込めて、ライトで照らしてもなにも見えない。すぐ隣にいるはずの犬塚さえ目に映らなくなった
「犬塚――」
手を伸ばそうとした時、背後から迫る気配があった。とっさにかわそうとして左に飛ぶと、すぐに身体が壁に当たった。こんなすぐ近くに障害物はなかったはずだけど。
黒霧の中でも、かろうじて手元くらいは光が届く。ライトを向けると、その障害物が教室のドアだと分かった。この一瞬で、校舎の構造が変えられたんだ。
思わず舌打ちが出た。完全に好き放題遊ばれている。
深い霧に隠されて、すぐそばに迫るまで塵霊には気づけそうにない。さっきは反射でかわせたけど、あんな奇跡はそう何度も続くはずがない。
まずは今の校舎の構造を把握したい。満足に辺りを見通すこともできなくて、周りがどうなっているのかも分からない。こんな状況では、まともに塵霊と戦えそうにない。
犬塚も無事だといいけど。
さっきまで近くにいたはずの犬塚の気配がない。なにか壁に遮られたのか、そもそも遠くまで移動させられてしまったのか。
「もう、何がなんなんだよ……!」
苛立ちを吐き出すと、目の前にぼうっと浮かび上がる影があった。あの猫背だ。嘲笑うかのような笑みを浮かべて、ただこっちを見つめている。
これだけ撹乱されてしまったら、周りの塵霊と戦う余裕もない。邪魔な塵霊を減らしてからこの猫背の相手をするつもりだったけど、そうも言っていられなかった。
予定、変更だ。
この猫背の幽霊の性格を考えれば、油断を誘えば必ず距離を詰めてくる。その隙をついて一撃で仕留めることができれば勝機はあるはずだ。
そのための武器ならすでに持っている。
俺はムキになったふりをして、猫背に向かってがむしゃらに突進した。大ぶりで小刀を振り下ろして、簡単にかわされる。それでもまた突進してかわされて、それを数度繰り返した。
俺は肩で息をするふりをすると、猫背はすぐ目の前に現れて、ケラケラとバカにするように笑った。ここまでは狙い通りの動きだった。
演技で敵を騙すなんて、数年間この仕事をしてきて初めての経験だけど、案外、俺の演技力もバカにできたものじゃないみたいだ。
あとはこの猫背が避けるより早く、リオからもらった特別製の一枚を叩きつければいい。
チャンスはたったの一度だけ。悟られないように、小さく一度唾を飲んだ。一歩、疲れたふりをしながら距離を詰める。
この距離ならいける。
そう確信して、札へと手を伸ばそうとした瞬間だった。不意に背中全体に激痛が走った。電気が流れたような強い衝撃。一瞬、意識が飛びかけた。
油断した。この猫背にばかり意識を取られて、後ろからの塵霊に気づけなかったのか。
立っていられなくなって、身体が前のめりに傾いた。そのまま前によろけて、突然、今度は頭に激痛が走った。
ゴンっ、という音と衝撃の後、「痛ったー!」と声が聞こえた。
どこか間抜けなその声は、すぐ目の前からだ。それは犬塚の声だった。
頭を打った衝撃で意識が覚めて、倒れる直前に踏みとどまる。顔を上げると、目の前には頭を押さえる犬塚がいた。
俺たちが立っているのは、もとの廊下の真ん中だった。黒い霧も晴れて、犬塚が手に持ったライトで周囲は明るく照らされている。
どうやら、突然元の状況に戻されて、そこで犬塚と頭をぶつけたみたいだ。全部が唐突で呆けることしかできないでいると、廊下の奥では、猫背の幽霊がこっちを見て笑っていた。
クック、と声が聞こえそうなほど肩を揺らしながら笑って、やがて、そのまま闇に消えていった。
満足をしたのか、それきり猫背はこの場に現れなかった。
俺たちを小バカにするようなその態度にも、怒りより先に疑問が湧いた。
どうしてあのタイミングで元の廊下に戻したりしたんだろう。
あのままいけば、俺は確実に塵霊の餌食になっていた。あそこで黒い霧を消すことは、俺を助けたとしか思えない。
まるで、ゲームでもしているみたいだと思った。この旧校舎というフィールドに入り込んだ俺や犬塚という侵入者を追い出すゲーム。
急に霧が晴れて元の廊下に戻されたのは、ゲームオーバーという意味だったのだろうか。
もちろん、そんなのはただの推測でしかないけど。
「あいつ、なんで幽霊になんてなったんだろう」
「やっぱり、悲惨な死に方をしたとか?」
まだ頭を押さえている犬塚は少し涙目だ。
「普通、幽霊といったらそういうイメージだけどね。なんとなく、あいつには悲壮感がないっていうか」
「確かに。いつもニヤニヤしててムカつきますしね」
犬塚は憤慨している。たしかに怒りたくなる気持ちも分かるけど、俺にはどこかあの幽霊が可哀想に見えた。
「今日はもう帰ろうか。いつ塵霊が集まってくるかも分からないし」
早足になって来た道を引き返す。
無事に一階まで降りたところで、少し緊張の糸が緩んだ。
「それより鴨居さん。私、さっき離れ離れになってる時、塵霊を二体倒したんです!」
犬塚の誇らしそうにそう話してくる。
その時の活躍の話を聞かされながら、そのまま旧校舎をあとにした。




