痣
「鴨居さん! なんでこの間から私のこと呼んでくれないんですか!?」
授業を終わらせて廊下へと出た瞬間、隣の教室から急に犬塚が飛んできた。どうやら、今授業をしていたのと隣のクラスだったらしい。
六月に入って学校は衣替えになっていた。ブレザーを脱いで、シャツとスカートだけの身軽な格好になった犬塚が新鮮だった。
そんな犬塚が開口一番腹を立てているのは、俺が旧校舎に一人で入ったりリオに会ったりしたせいだろうと思った。
「タイミングが合わなかったんだよ。河野を探しに行ったのは急なことだったし、リオが来たのは昼間だったし」
「そうですけど、声くらいかけてくれてもいいと思うんです。全部勝手に進められると、その、困るんです……」
犬塚は腹を立てていたのかと思えば、不安そうな声で言った。
河野のことがあって、犬塚を気にかける余裕がなかったことを反省する。
「ごめん。犬塚にはちゃんと伝えるようにするよ」
「ほら、私がいれば鴨居さんも心強いと思……って、え⁉︎」
犬塚はなぜか、少し遅れて俺の言葉に驚いた。まさか謝られるとは思ってなかったのかもしれない。
「そんなに驚かれると、逆に心外なんだけど」
「す、すいません。なんとなく、鴨居さんは一人の方がいいのかなって思ってたから……」
犬塚のその予想は間違っていない。
だけど、今はそれだけじゃないと思える。
「確かに一人は楽だけど、二人の方がいいこともあるみたいし」
ノッポとの戦いだって、犬塚がいてくれたら、あんなにギリギリの勝利になることもなかったかもしれない。
たぶん俺は、一人でいることに慣れすぎてしまっていたんだ。
「当たり前です。絶対、ちゃんと役に立ちますから」
「次はちゃんと声をかけるよ」
そう伝えると、犬塚は満足そうに教室に帰っていった。
犬塚が教室に入ったのを見届けて、一度職員室に戻ろうとした時だった。
ふと、後ろから騒がしい声が聞こえてきた。
「田村のあれ、結構ヤバイやつだよな」
「普通、あんなところぶつけたりしないよね」
田村、という名前に反応をする。振り向くと、前に一度話を聞いた、田村のクラスメイトの男女四人組だった。
「なにかあったの?」
とっさに声をかけると、四人はからかうように笑った。
「なんだ、やっぱり気になるんじゃないですか」
「いいから。田村になにがあったの?」
四人は顔を見合わせてから答えた。
「顔に痣があったんですよ。本人はぶつけただけって言ってますけど、男に殴られたんじゃないかって、みんなが」
「顔に、痣……」
その情報だけで断定するのは短絡的すぎる。男にやられたなんて、いかにも高校生の考えそうなことだ。なのに、否定できるだけの材料がないことが歯痒かった。
実際に本人から話を聞かないことには始まらない。
そう思って田村の教室を目指そうとした時、 四人組の一人に呼び止められた。
「田村なら、さっき早退してもう教室にいませんよ」
田村が学校を出た正確な時間は分からない。それでも、まだそう遠くには行っていないだろう確信があった。
もし電車に乗ってどこか遠くに行っていたら、見つけ出すのはほぼ不可能だ。それでも、早退をした田村がすぐ電車に乗ることは、あまり想像ができなかった。
学校の敷地を出て、どこかめぼしい場所を回る。路地の隙間やコンビニの立ち読みコーナー。その中に田村の姿を姿を見つけようとした。
長期戦を覚悟しかけた時だった。学校からほど近い公園の中に、田村の姿はあっさりと見つかった。そこは、かつて莉菜とよく並んで話をしたベンチだった。
学校の制服を着た女子生徒の後ろ姿が、一瞬、莉菜と重なった。
公園に入って、ベンチへと向かって歩く。そこに座る田村の後ろ姿は、やけに力なく見えた。
その背中に声をかける。
「なにしてるの?」
田村が振り向く。俺の顔を見るなり、ギョッと目を見開いて、怯えるような表情になった。
話に聞いていた通り、その顔には痣があった。思い切り殴られたかのように、左の頬が赤く腫れている。
やがて俺だと気づいたのか、ふっと田村の顔から怯えが消える。それから緩やかに、口元だけを微かに吊り上げた。
「ここまで追いかけてくるなんて、もしかして先生、保乃科のこと好きなんですか?」
「そんな冗談が言えるなら、大丈夫そうだね。早退したって聞いたから心配したけど」
「先生は、なんでこんなに保乃科のことを気にかけてくれるの? 別に担任でもないのに」
田村はじっと虚な目のままで見つめてくる。今度は揶揄う目的で訊いているわけじゃないと分かった。
「別に大した理由なんてないよ。俺だって教師の端くれなんだから、心配な生徒がいれば気にかける」
俺は田村の左隣に座る。痣が見える側の位置だった。
お互いに何も話さずに、しばらくの間沈黙が続いた。木製のベンチに少し間隔を空けて座って、じっと目の前の景色だけを眺める。公園には俺たちの他に誰もいなくて、ただ時折、風に吹かれて木々が揺れる程度しか変化がない。
長かったのか短かったのか、不思議な時間が過ぎた。
「顔のこと、訊かないんですか?」
前を向いたまま、田村が抑揚のない声で切り出した。
「訊いてもいいの?」
「もちろんダメです」
そこでまた沈黙が流れる。
再び静かな時間が続いて、しばらくが経った後、田村が切り出した。
「父親が帰ってきたんです。普段は別居してて、滅多に会わないような人です。それが突然、昨日の深夜でした」
すぐ隣にある田村の顔を見た。痛々しい頬の上にある瞳は、じっと前の景色を見ている。
「まるでドラマにでも出てきそうな絵に描いたクズ。それが保乃科のパパなんです。いつも酔っ払ってて、お金をせびって、暴力をふるって。もうとっくの昔に家を出てたったくせに、今でもたまに現れて保乃科たちを困らせるんです」
「その痣もそいつに?」
田村ははっきりとうなずいた。
「言い合いをしてるうちに、ちょっと揉め事になっちゃって。思い切り、ガン!ってやられちゃいました」
苦笑いを浮かべながら田村はそう言った。
田村の抱えているものの一端が、ほんの少し見えたような気がした。その父親の存在が、今の彼女を作った大きな要因になっているのは間違いない。
「それでも、前は数ヶ月に一回とかのペースだったから耐えられたのに。最近、なぜか頻度が上がってるんです」
田村はそう言って、初めて弱気を見せた。
「お母さんの方は、なにか言わないの?」
「ママはダメです」
田村はキッパリと言い切った。
「あの人は全部諦めて、パパになにも言えないから」
ジャリ。ローファーの底で、地面の砂を踏みにじる音が聞こえた。
「先生は、誰かを殺したいほど憎んだことありますか?」
あくまで田村は淡々と訊いた。抑揚のないその声の中に、やり場のない感情が押し込められているのを感じた。
「どうだろう。俺はたぶん、そういう強い感情を持ったことはないかな」
「確かに、先生っていつも淡白っていうか、なにに対しても無関心って感じですもんね」
田村はやけにニコニコと笑顔を浮かべながら言う。なにか他意が込められている気がしたけど無視をした。
「田村はあるの? そういう経験」
田村はその質問に沈黙で答えた。
ふと、田村は勢いよくベンチから立ち上がると、こっちを振り向いた。普段学校で見せる表情と同じ、思わず魅了されてしまう笑みを浮かべていた。
「ねえ先生、今度の土曜、保乃科とデートしてくれませんか?」
田村が突然それを提案した意図は分からない。
だけど、その顔でこんなことを言われて、クラリとこない男はいないと思う。
俺は思わず、うなずいてしまっていた。




