途切れたレール
この二階のどこかに誰かがいる。
確証はないけれど、不思議な確信があった。周りの気配に気を配りつつ、細い廊下を進んでいく。
二階の廊下は、まるで迷路のように複雑に入り乱れていた。右に曲がったかと思えばすぐに左に折れることもある。次第に自分がどこを歩いているのかも分からなくなっていった。
そんなふうに五分ほど歩いて、もう何度目になるか分からない角を曲がった時、向こうに一人の姿が見えた。その横顔を見間違えるはずがない。そこに立っているのは河野だった。
河野は廊下の突き当りのところに立っていて、そこは左に曲がる構造になっている。そして、じっとその曲がった先を見ている。河野の視線の先はここから死角になっているが、何を見つめているかは容易に想像がついた。
目は虚ろで、焦点が合っていない印象を受ける。この旧校舎という場所でそんな表情になってしまう理由なんて、たった一つに決まっている。
「河野!」
名前を叫び、刃を鞘に収めながら駆け寄る。意外にも、河野はあっさりとこちらを振り向いた。
「ああ、先生」
近くまで行くと、死角に隠れていたそれの姿が見えた。河野が見つめる先にいたのは、あの時のノッポの塵霊だった。
ノッポは何をすることもなく、ゆらゆらと漂いながらじっと河野の方を見ている。
「最近、よく会いますね」
「探しに来たんだよ。こんなところ、早く帰ろう」
塵霊が動きを見せる前に、早く河野を引き離したい。それでも河野は動く気配を見せなかった。
「先生は、なにか一つのことに、すべてをかけて打ち込んだことはありますか?」
河野は不意にそんなことを訊いた。答えあぐねているとさらに言葉が続く。
「正直、もっと取り乱すと思ってたんですよ。けど、案外すんなり受け入れられたっていうか、それより明日から何しようかなぁって」
その言葉の通り、河野は淡々と語った。その冷静さが逆に不安を煽る。
「で、考えたら何もやることがなかったんですよね」
河野はいつも落ち着いた口調で話す。けれど、今はそれよりももっと温度がないような印象を受けた。
ノッポはじっと河野のことを見つめ続けている。今はおとなしくしていても、いつ突然動き出すかも分からない。
「肩の怪我、そんなに酷かったの?」
河野はそれに鼻で笑った。
「今から手術したって大会は無理。投げないエースは、最後まで投げられなかった」
自虐的に笑う、その表情が痛々しい。
夜中まで一人で練習を続けるほど打ち込んでいたものに裏切られて、平気でいられるはずがない。
「病院で検査して家に帰った途端、なんだかもう、全部がどうでもよくなったんです。そうしたら、急に何かに呼ばれた気がして。それで、気づいたらこんなところに来てました」
河野はそう言うとノッポの方を見た。
「たぶん、こいつが呼んだのかな」
心なしか、ノッポが笑ったように見えた。
「河野、そいつに惑わされちゃダメだ」
ノッポはゆっくりと河野に向かって近づきはじめる。
「もう何も分からないんですよ。野球の練習をして結果を出して。俺の人生、ずっとそれでうまく回ってきたんです。親から褒められて、周りからも認められて、この学校にだって、ただ人よりも野球が上手いっていうだけの理由で入った! 野球をやらなくていいなら、じゃあ俺はなにをすればいいんですか?」
その感情はたぶん、依存に似ている。
河野はずっと、今までの人生を野球に依存して生きてきたんだ。野球に打ち込むことは自分を安心させるための行為で、そうすることで自分を確かめていたんだと思う。
やり方はまるで違うけど、その感情は俺にも少し覚えがあった。
「分かるよ。ずっと信じてきた道を失うのって、どうしたらいいか分からなくなるよね」
「先生には分かんないですよ。教師なんてどうせ、そうやって適当な言葉で誤魔化すんだから」
河野はそう言って言葉を拒んだ。
「うん、そうかもね」
まさか同調されるとは思わなかったのか、河野は少し動揺を見せる。
「そうやって共感するふりをして説得しようって作戦ですか? 教師なんかになって、挫折も知らない人生を送ってきたくせに。俺はもう落ちていくことしかできないんですよ!」
たしかに俺は、河野みたいに何かに打ち込む人生を送ってきたわけじゃない。それでも、一つの道に依存をして生きてきたという点では同じだった。
俺が依存し続けていたのは、“周りの期待通りに生きる”という道。
親や教師の期待通りに優等生を演じるの簡単だったし気が楽だった。だから、いつしかそんな生き方に依存をしていたのだと思う。
だけど俺は、そこから転落をしてもう這い上がれない。
「分かるよ」
俺はもう一度繰り返した。
「口でならなんとでも言えます」
隣では、ノッポが大きく腕を広げているのが目に入った。ゆっくりと近づいて、いよいよ河野を取り込もうとしている。
「分かる。なんて、口先だけなら言わないよ」
俺は、腰につけた小刀の柄に手を伸ばす。
ここまでくれば、もう正体を隠す理由もない。
「だって俺、本当は教師なんて立派な人間じゃないから」
ノッポが河野の身体を包み込もうとする。その寸前、俺はその間に割って入る。そして、ノッポの身体へ向けて、思い切り小刀を振り下ろした。
電流が走るような激しい音が響く。ノッポは苦しそうによろめいて、大きく後退をした。
切りつけた箇所からは、液体が漏れ出るように細かな光が広がっては消えていく。
まだだ。まだ消し切るには足りていない。
追撃をしようと小刀を構え直した瞬間、苦しげなノッポと目が合った。瞬間、俺は動けなくなる。
そういえば、初めてこのノッポと出会った時もそうだった。俺は動けなくなって、犬塚に助けられたことを思い出す。
ノッポはその長い両腕を伸ばすと、俺の両肩を掴んだ。触れた箇所に激痛が走る。まるで、熱した鉄が直接触れたみたいだ。
痛みのせいだかなんだか動けなくて、気づけば廊下の隅に投げ飛ばされていた。背中を壁に強打して、一瞬、呼吸が止まった。
ノッポが再び河野の方へ向かって歩く。河野はこのノッポに釘付けになって動けずにいる。この前の俺と同じだ。
このままでは、確実に食べられてしまう。
全身が痛みを訴えるのも無視して、もう一度立ち上がる。投げ飛ばされた衝撃で、小刀は手を離れていた。
山ほどの札を抜き取って、それをノッポの背中に叩き込もうとした。
が、それよりも先にノッポの腕が伸びる。俺はまた突き飛ばされて、廊下を転がっていた。
ノッポは進路を変えて、ゆっくりと俺の方に迫る。どうやら、俺を完全に敵として認識したらしい。河野を食べる前に、邪魔者から先に排除するつもりなんだろうか。
俺は床に落ちた札を拾って、もう一度ノッポへと向かおうと思った。
足は動かなくて、立ち上がることはできなかった。
「先生、もうやめてください。もういいんです」
河野は懇願するように震える声で言った。
「いいわけない。そいつに食われたら、河野が河野でいられなくなる」
「それでいいんですよ! レールの上を走るのはもう疲れた。しがみつくのはやめて、もう楽になりたいんです」
なにか一つの道に依存をして生きてきた人間は、その道が断たれた瞬間、呆気なく落ちていくしかない。
落ちてくのは一瞬で、そして、とても楽なことだ。そんなことは、俺も痛いほどよく分かっている。
莉菜が隣からいなくなって、そこからは本当に一瞬だった。
ショックで勉強も手につかなくなり、偏差値のグラフは急直下をした。最初は心配をしてくれた友人たちも自分の受験勉強に手いっぱいで、次第に疎遠になっていった。
なんとか合格したのは、莉菜と二人で目指した大学より十以上も偏差値を落とした大学。そこに俺の居場所なんてなくて、逃げるように中退をした。
莉菜がいなくなって、こうしてこんな仕事をしているのは、全部そうするのが楽だったからだ。
きっと、どこかでしがみつけばよかったんだと思う。そうすれば、こんなことにはならなかったはずだから。
だけど、そんな後悔は今さらもう遅すぎる。
社会の底まで落ちきってしまった人間に、当たり前のレールはあまりに高すぎた。
「楽になりたい気持ちなんか、俺だってよく分かるよ。けど、今ここで全部を諦めるのだけは、絶対に認めない」
俺はできる限り強い言葉でそう言い切った。
どうしても届けたいと思った。
「なんでですか。俺にはもう何もないんですよ。頑張る気力も、頑張りたいと思うことも」
ノッポが素早く腕を伸ばす。それを札を持った右手で弾いた。
「それでもしがみつかなきゃダメだ。野球が無理なら、ほかに何でもいい。今まで歩いたレールから落ちそうなら、別のレールに移ればいいだけなんだから」
「そんなの、簡単に言わないでくださいよ」
大丈夫、まだなんとか身体は動く。
わずかな気力を振り絞って、もう一度また立ち上がる。
「辛いのは分かるけど、ここで落ちたら、次に這い上がるのはもっと辛くなるから……。河野には、同じ思いをしてほしくないんだよ」
不意に、ノッポの顔の一部に黒い影が生まれる。それは、まるで口のような形を作った。そして、笑みを浮かべるみたいに大きく口角を上げていくと、それからその口はどこまでも広がっていく。
「せ、先生……」
ノッポの異変に気づいた河野は、怯えた声をもらした。
やがて口が顔いっぱいまで広がると、そのまま口ごと顔全体が膨張していく。ノッポの口は、人間の身体をひと呑みできるだけのサイズまで膨らんでいた。
「今ならまだ、他の道だって選び直せる。もしここで楽に流されたら、選べる道も消えていくだけだから」
ノッポの口の拡張が止まる。
「辛くてもしがみつかなきゃダメだ」
瞬間、その大きな口が俺の身体を一気に呑み込んだ。視界のすべてが塵霊の光で包まれて何も見えなくなる。それから、全身が焼かれるような感覚が襲った。まるで、沸騰したお湯の中に全身が浸かっているみたいだ。
塵霊はどれだけ形を変えても、その個体が持っている光の総量は一定だ。ノッポは口を巨大化させたことで、逆に胴の部分は手薄になっていた。つまり、コアの部分の守りが手薄になったということ。
イチかバチかの賭けだった。
意識が飛びそうになるその寸前、微かに色濃く光る小さな円形の個所が見えた。ありったけの札を抜き取って、そこに向かって思い切り手を伸ばす。
それからどうなったのか、無我夢中でよく分からなかった。
気づけば、身体の周りを細かな光の粒が包み込んでいた。ゆっくりと、まるで雪のように舞い落ちるそれは、さっきまでノッポの男の形を作っていたものだ。
イチかバチかの賭けは、どうやら成功をしたみたいだった。
河野は呆然とその舞い落ちる光を見つめている。
「先生はいったい何者なんですか?」
「ただの非常勤の教師だよ」
「先生、俺はこれからどうすればいいんですか?」
河野は俺の方を向いて、そんなことを訊いた。
その答えを俺は持っていない。
「そんなの自分で考えてよ。なにが河野に合ってるかなんて、俺には分からないし」
河野は虚を突かれたように目を丸くしてから、不満そうな声を出した。
「一瞬、良い先生かと期待した自分がバカでした」
そして、不意に破顔して続けた。
「しょうがないから、ちゃんと自分で探してみますよ。自分の、俺の人生のことですから」




