投げないエース
この学校に来てまだ初めの頃、きっと冷たすぎる教師とてでも話題になっていたんだと思う。
だけど、最近ではすっかり話題性もなくなったのか、廊下ですれ違っても普通にあいさつをされるだけになっていた。この学校の中に、少しずつ馴染んできているような感覚があった。
「あ、先生こんにちはー!」
昼休みの時間に廊下を歩いていると、一際元気な声であいさつをしてきたのは田村だった。見れば、声色だけでなく表情も明るかった。
最近、授業中も廊下ですれ違う時も精力的な様子だ。
『どうなったっていい、どうにかなりたいの』
そう語っていたあの夜の面影はどこにもない。あれきり旧校舎で遭遇することもないし、ただの一過性のものだったんだろうか。
田村があの髪の長い人型の塵霊を求めようとしないなら、この任務にも時間的な猶予ができる。
もちろん、塵霊に誘惑されるのが田村だけとは限らないけど。
振り向いて、田村の背中を見送った。
ふとその時、廊下の壁に貼られた一枚の掲示物が目についた。コルクボードの掲示スペースの中、たぶん生徒の作った校内新聞だろう。一人の男子生徒の写真と共に、「怪我に泣いた天才エース・河野球人。この夏、ついにベールを脱ぐか!?」と、そんな大きな見出しが踊っていた。
そこに映る男子生徒の姿には見覚えがある。部活棟の裏で黙々と投げ込みをしていた、あの野球部の男子だ。新聞には、ボールを投げようとする姿が迫力のある写真で載せられている。
「あいつ、こんな注目されるようなやつだったんだ」
「ムカつきますよね。ひとの人生をネタにして」
突然、隣から反応があった。見ると、この記事の写真の男――河野が立っていた。
「エースなんだ。野球部の」
「そうですね。『投げないエース』なんて、陰では言われていますから」
河野は記事に向かって自虐的に吐き捨てた。
新聞の方に再び目を向けると、記事の中の小見出しが目に入ってくる。「野球の推薦で入学も、未だ公式戦登板なし」「孤高のエース」「雪辱を果たせるか」。どれも肯定的な言葉では語られていなかった。
校内新聞の記事によると、河野は野球の特待生として入学したようだ。順調に実力をつけていき、エースとして期待された二年生の春、大きな怪我をしてしまい大会への出場は叶わず。秋の大会もリハビリに費やして、三年生となった今年こそ、エースとしての活躍を期待されているらしい。
「でも、今年は投げられそうなんじゃないの?」
野球のことは詳しくないけど、前に見た河野は思い切りネットに向かって投げ込みをしていた。とても怪我をしていて投げられるボールじゃなかったと思う。
「別に投げられればいいわけじゃないです。まだ全然足りないんですよ」
河野はじっと、目の前の記事を睨み続けている。その視線で、薄い新聞の紙なんて、簡単に穴が空いてしまいそうな気がした。
「だから、あんな時間まで練習してたんだ」
「俺には、野球しかないですから」
言って、河野は去っていく。
河野とは、その日の夜に再会することになった。
いつものように旧校舎の前に行くと、また部活棟の裏から規則正しい音が聞こえてきた。
この前と同じように犬塚を近くに隠れさせて、一人で部活棟の裏に回った。案の定、ネットに向かって一人投げ込みを続ける河野の姿があった。
「分からないけど、あんまり無理しすぎない方がいいんじゃないの?」
声をかけても、河野は振り向くこともしないで投げ込みを続ける。足を上げて、きれいなモーションから放たれるボールは、まるで弾丸のような速度で飛んでいく。
ボールが空を切る音。少し遅れて、ネットを揺らす音が聞こえてくる。河野はいったい、今晩だけで何度この音を聞いたんだろう。
「オーバーワークなんて、素人の先生に言われるまでもなく分かってます」
「なら、なんで続けてるの?」
「やめられないんですよ。練習してないと不安になるんです」
「練習してれば安心できるの?」
河野はやっと、投げ込みを止めて振り向いた。暗がりの中でも分かるほど、苛立ちで顔を歪めていた。
「安心なんてできないですよ。何かしていないと、生きてていいのかすら分からなくなる。投げるのを止めたら、俺が俺じゃなくなるんです」
突然深刻な言葉が返ってきて驚いた。
部活棟の壁にもたれる。生徒に関心のない教師は、少しの間やめることにした。
「野球はいつからやってるの?」
「さあ。父親がリトルの監督やってるので、物心のついた頃には」
「じゃあ親にやらされたとか」
「別に強制はされてないです。ただ、それ以外の道なんて用意されてなかったですけど」
河野は落ち着いた声で淡々と質問に答えていった。
「野球なら、上達するたびに褒めてくれるんです。他のスポーツには興味もなかったし、スポーツ以外は、まるで才能もなかったですから」
「だから、続けてないと不安になるんだ」
自分でも驚くほど、自然と質問が口を出ていた。それはきっと、俺が河野にシンパシーを感じているから。
「もちろん、やってれば多少は上手くなるんじゃないかって期待はありますけど……」
河野は一度言葉を止めて、何かに気づいたように俺を見た。
「先生って、そういうキャラでしたっけ」
「ただの気まぐれだよ。ほんの興味本位」
河野は俺に似ている。”真っ当な道”をちゃんと歩いていて、その道を歩くことに必死だった頃の自分に。
「河野の言うこと、俺にも少し分かる気がしたから」
河野は近くのカゴからボールを一球手に取った。それを右手の中で遊ばせている。
「怖いんですよ」
初めて河野がこぼした気弱な声だった。
「俺には野球しかないから」
右手にボールを握りしめて、このまま握り潰してしまうんじゃないかと錯覚する。
その河野の姿が痛々しくて、思わず視線を逸らした。
逸らした視線の先には、旧校舎がそびえている。二階の窓の一つに、一人のシルエットが見えた。それは背が高い男性の姿で、じっとこちらの方を見下ろしている。
間違いない。あの日俺が襲われかけた、ノッポの塵霊だ。
だから、それに気を取られてしまったいせいだろう。すぐ後ろまで近づいてくる気配に気づくのが遅れてしまった。
「何してるんですか。こんな時間に」
問い詰めるような厳しい声。振り向くと、そこにいたのは真知子先生だった。
「とっくに下校時間は過ぎてるよね? さっさと家に帰る」
真知子先生に咎められても、河野はまったく悪びれた様子を見せない。
「そこをなんとか見逃してくれませんか?」
「そうやって頼めばなんとかなると思ったら大間違いです。早く帰らないと、顧問の高岡先生にも報告するからね?」
顧問の名前を出されると、河野は強く出られなくなる。観念をしたのか、「すいません」と小さく謝ってからボールをカゴの返した。そして、そのままこの場を後にして、正門の方へと消えていった。
「まったく、最初からちゃんと言うことを聞いてくれたらいいのに」
遠くなっていく河野の背中に、少し悲しそうに言った。
やがて、その河野の姿が見えなくなると、真知子先生の表情が変わる。
「それで、先生の方はこんな時間になにをしていたんですか?」
「荷物を忘れてたのに気づいて。取りにきたら、校庭から怪しい音が聞こえてきたので」
「そんなの信じられません」
「信じてもらえなくても、本当なんです」
真知子先生からの冷たい視線が痛い。それでも今は、しらを切るしかなかった。
「気づいてますよね? この学校の教員みんなが、先生のことを疑ってます。こんな怪しい態度を続けてたら、本当にこの学校から出ていってもらうことになりますよ」
「眞鍋先生もずいぶん僕にこだわりますね。やっぱり、昔の教え子に似ているからですか? それとも、俺の尻尾を掴むように、誰か上の先生から頼まれたりしました?」
そう訊くと、真知子先生は分かりやすく動揺をした。そこに追い打ちをかける。
「知ってますよ、疑われてることくらい。それで、眞鍋先生は俺の尻尾を掴むために必死になっている。眞鍋先生も教員内での評価が良くないから、俺を差し出すことで評価を上げようとしてるんですよね?」
教頭か主任か、それとも他の教師の連名か。嫌われている心当たりが多過ぎて、逆に犯人が絞れない。
それでも、真知子先生が俺を差し出すために動いているのは間違いない。
「別に、私は誰かに頼まれて言ってるわけじゃ……」
明らかな図星だ。
追求するはずが立場が逆転して、真知子先生は同様が隠せない。
「誰かに言われでもしてない限り、真鍋先生にここまでする理由はないと思いますけど」
しばらくここの教師をやってみて分かった。五年経っても真知子先生は変わっていない。
生徒からは親しみやすい先生で、他の教員から見たら頼りない先生。そんな真知子先生のもとへ、怪しい非常勤講師の素性を調べるという面倒臭い仕事が降ってくるのは、想像に難くなかった。
「じゃあ、もし鴨居先生のことを追い出すように頼まれたと言ったら、真面目に働いてくれますか?」
「今でも、自分としては真面目に働いてるつもりですけどね」
真知子先生は、ムッとした顔になる。話は平行線のまま動かない。
「分かりました」
真知子先生は一段と強い語調で切り出した。
「もしも次に怪しげな行動を見かけたら、その時は必ず上に報告をさせてもらいますから」
そう言って、真知子先生はこの場を去っていった。
いよいよ困ったことになってしまった。今ここで学校を追い出されてしまったら、旧校舎の中に入ることさえ難しくなる。都内の私立高校というだけあって警備も厳重なこの学校で、誰にも見つからずに侵入するのは至難の業だろう。
それに、一度顔が割れている分、今さら他の手段で潜入することもできない。
「どうにかしないとな……」
ふと、犬塚を待たせたままだと思い出して、急いで旧校舎の入り口まで戻る。隠れた犬塚と合流して、そのまま校舎の中に入った。
侵入するたびに、旧校舎はその姿を変える。それはまるで誰かの気まぐれのように。
この日の旧校舎は、どこを歩いても堂々巡りだった。
何体かの塵霊と遭遇することはあっても、中型以上の個体と会うこともなければ、この前の猫背の幽霊が現れることもなかった。
これでは、いつまで経っても任務が進まない。
真知子先生に尻尾を掴まれて、学校の上層部に報告されるのも時間の問題だ。それよりも早く旧校舎の塵霊をすべて消さないといけない。
あと何回この旧校舎に入り込むチャンスがあるかもわからない。その中でまるで進まない進捗に、少しずつ焦りを感じ始めていた。




