『永井怜』
この学校に潜入してから一週間が経った。
初日から毎晩旧校舎に入り込んでいるけど、あの幽霊の気まぐれなのか、同じ場所を堂々巡りしているだけという時もあって、思い通り進んでいるとは言い難い状況だ。
進まない調査に対して、順調に進んでいるのは学校の授業の方だ。ほとんど教えることをしない授業スタイルはそのままでも、進行の仕方はだんだんと手慣れてきた。生徒側も、俺に質問をしてもしょうがないと学習してくれたのも大きかった。
また一つ授業を終わらせて、職員室へ戻る途中だった。向かいから真知子先生が歩いてくる。すれ違いざま、小さく会釈だけすると真知子先生は足を止めた。
真知子先生は軽く周りを見てから言った。
「鴨居先生、次はたしか授業入ってませんよね?」
「ええ、まあ」
なんとなく、嫌な予感がして身構える。
「今から資料室の整理するんですけど、ちょっと手伝ってもらってもいいですか?」
それはお願いというよりも命令だった。断れるはずもなくて、俺は素直にうなずいた。
整理すべき資料室は、そこから一つ階段を上がった三階の奥にあった。普通のクラスの教室ほどの広さがあって、その中はびっしりと書類の並んだ棚で埋め尽くされている。
部屋に入った瞬間からほこりっぽさがあって、ずっと手入れがされてないのが分かる。棚に綺麗に並べられたファイルもあれば、適当に平積みされた裸の書類もある。整理が必要なのは間違いなさそうだった。
「ここにはなんの書類が?」
「本当になんでもです。学校内の事務的な書類だったり、印刷した問題のプリントとか。あとは、在籍してた生徒の資料なんかもあったと思います。要は、どこにしまうか悩んだものを全部詰め込んだ感じですね」
「それは、なかなか骨が折れそうですね」
真知子先生は、近くの棚から一冊の分厚いファイルを取り出した。それをパラパラとめくっては、結局そのまま棚に返した。
「はぁ。こんなの軽々しく頼むものじゃないでしょ……」
真知子先生は、ため息混じりにつぶやいた。
もともと、真知子先生も誰かにここの整理を頼まれたのかもしれない。教師の仕事も、ただ授業をしていればいいというわけでもないみたいだ。
「で、どう整理していけばいいですか?」
「とりあえず、書類の種類ごとに分けてもらえますか? どうするかの判断は、あとで私がしますから」
真知子先生の指示にうなずいて、そこからは黙々と作業に取りかかった。最低限の事務的な会話だけをしながら、ただ淡々と資料の仕分けを続ける。
少し意外だった。資料室の整理なんて言い訳で、またなにか追求を受けるものだと思っていた。
「鴨居先生は、なんで手伝ってくれたんですか? 非常勤なんだから、手伝う義理なんてないと思いますけど。汚い話、お給料も出ませんよ?」
「職場の先輩からの頼まれごとなら、普通は断りませんよ」
「そうですね。でも、鴨居先生はそういうの気にしない人だと思ってました」
話をしながらもお互いに手は止めない。手元の資料だけを見て、ひたすらに仕分けの作業を続ける。
「私は、鴨居先生がよく分からないです。授業は真面目に教えないし、誰に対しても態度が悪いし。だけど、私が困ってたらこうして手伝ってくれる……」
不意に、なんだか懐かしい気持ちになった。俺がまだこの学校の生徒だった頃、こんな風に弱った真知子先生を見たことがある気がした。
「別に俺はただ無気力なだけですよ。真面目に授業しないのはやる気がないからで、いま手伝ってるのは、あとで悪い噂になるのも面倒だと思っただけです」
「本当に? 私には鴨居先生がただの冷たい人には見えないんです」
「気のせいですよ」
「もし何か事情があるなら、私にだけは話して欲しいんです……!」
「眞鍋先生は俺に何を期待してるんですか?」
「そ、それはあなたが――」
真知子先生が勢いよく振り向いた。その拍子に、棚の上に置かれた段ボールの箱が、ぐらりと傾いたのが見えた。
「危ない!」
段ボールの箱が真知子先生の頭に向かって落ちる。とっさに身体が動いた。
落下する段ボールから先生を庇おうとして、そこでお互いに体勢が崩れた。ぐらりと身体が傾いて、気づけば床に倒れていた。両手のひらを床について、その間に、倒れた真知子先生の顔があった。
真知子先生に覆いかぶさるような格好だった。
「す、すいません。大丈夫ですか……?」
「は、はい……」
そこで一度会話が途切れた。次にどうしていいか分からず、至近距離の真知子先生と見つめ合ったままになる。
柔らかそうな頬やきめ細やかな肌。まつ毛の一本一本から、瞳の中に映った自分の姿まではっきりと見える。
歳のわりに幼いなんて思っていたけど、間近で見ると、大人の女性らしさを感じてしまった。
「鴨居先生は」
真知子先生は微かな声で切り出した。
「昔この学校の生徒じゃなかったですか……?」
その質問に驚きはなかった。
いくら五年も経っているとはいえ、変装でもしているわけじゃない。当時担任だった初老の先生は定年を迎えたのか在籍していないけど、少しは関わりがあった教師も何人かはいる。多少の疑いを向けられるのは覚悟していた。
「なんでそう思うんですか?」
「すごくそっくりなんです。私がまだ一年目の時に授業を担当した『永井怜』っていう生徒に」
「よく言われます、自分の知り合いにそっくりだって。ありがちな顔なんですよ」
真知子先生の上から起き上がる。これ以上顔を見ていられなかった。
「他人の空似なんかじゃないんです。たしかに名前も雰囲気も変わっちゃってるけど、でもなんだか別人だとは思えなくて……」
「別人ですよ、きっと。その『永井怜』なんて人のことは知りませんし」
スーツについたほこりを払う。頼みを引き受けたのは失敗だったかもしれない。ここまで勘付かれているのは、正直なところ想定外だった。
当時、真知子先生とは多少話をした記憶はあるけど、担任だったわけじゃない。それも、もう五年も前の話だ。
「書類はそこに全部まとめてありますから」
それだけを残して資料室をあとにする。
「鴨居先生!」
真知子先生が引き止める声は無視をする。『永井怜』なんて男の話はもうこれ以上したくない。
資料室を出て、ピシャリとドアを閉めた。
もし真知子先生が、俺が当時の生徒だと確証を得たらどうなるだろう。俺の卒業後の経歴でも調べられたら、きっとすぐに全部の嘘がバレるはずだ。
本当の俺――『永井怜』は、Fラン大学を半年で中退した、救いようもない人間だ。だけど、今ここにいる『鴨居廉』は、名のある大学を出て教員免許も取ったような、立派な人間として教壇に立っている。
嘘を突き通すしか道はなかった。この学校に潜むすべての塵霊を消し去るまで。
だけど、いったいあとどれだけ嘘を続ければいいんだろう?




