幽霊
この旧校舎には謎がある。
その日の気まぐれで変わる建物の構造は、なにかの意思を感じざるを得ない。
ここまで大掛かりな心霊現象を引き起こす力なんて、塵霊たちは持っていない。この不思議な現象の犯人について、深く考えるまでもない。心霊現象を引き起こす存在なんて、相場は決まっている。
「これはすごいな……」
階段を登りきったところ、思わず言葉が漏れてしまった。二階に上がった俺たちを待っていたのは、大量の塵霊たちだった。大小様々で宙に浮かんでいるものもいれば、動物を模した四本脚タイプも数体ほど歩いている。
「鴨居さん……」
震える声で犬塚が呼んだ。
「引き返すなら今のうちだけど」
「違うんです。なんだかすごく、寒気がするっていうか……」
隣を見ると、犬塚は小刻みに身体を震わせていた。目の前の塵霊に対する反応ではないと思った。
犬塚は霊感が強いはずだったと思い出す。
「なにか感じる?」
そう訊いた瞬間だった。俺にも分かるような、冷たい空気が足元を通り抜けた。ただの冷気ではなく、身体の芯から冷えるような、明らかに普通ではない気配だった。
ツンとした冷気が鼻を突いた。実際は寒くもないのに身体が震えそうになる。
「なにかが、奥の方から近づいてきます」
犬塚は震える声で言った。
辺りの塵霊たちがゆらゆらと落ち着かない様子を見せ始める。そして、犬塚が予感した通り、廊下の奥からは異質な気配が強まるのを感じた。
やがて奥から現れたのは、この学校の制服を着た一人の少年だった。
少し猫背の姿勢で長い前髪に目が隠れた、どこか内気そうな少年だ。一見すれば、どの学校にもいそうな普通な少年だ。だけどその少年の足元が、わずかに宙へ浮いている。
彼は明らかに生きていなかった。
その少年が現れると、他の塵霊たちはいっせいにどこかへ散っていった。
「やっぱり、そういうカラクリか」
「なんなんですか、あれ……」
「なんてことはない、ただの幽霊だよ」
塵霊なんかよりもよっぽど分かりやすい、いわゆる普通の幽霊だ。この校舎に起きた異変にも、この一人の幽霊で説明がつく。
「幽霊って、あの幽霊ですか?」
「分かんないけど、たぶんその幽霊で合ってる。あの猫背のアイツも、昔は生きた一人の人間だったんだよ」
どんな事情があったのかは分からないけど、何か未練を抱えたまま死んで、こうしてこの校舎の中に囚われているんだろう。いろいろな現場で任務をこなしてはきたけど、幽霊を見るのは初めてだった。
猫背の幽霊は、じっとこっちを見つめたままでいる。
「どうするんですか? 幽霊なんて……」
「邪魔になるなら消すしかないよ。リオの札が効くのかは知らないけど」
この刀では、きっと出力が足りない。ポーチの中から数枚の札をまとめて取り出した。効くかどうかは、一度試してみるしかない。
その瞬間、幽霊はふっと姿を消した。何の前触れもなく、見ていたものが幻だったと錯覚するほどに、きれいに姿をくらましていた。
消えた。
そう認識した次の瞬間には、すぐ目の前にその幽霊の顔があった。
にい、と、長い前髪で隠れて目は見えないが、その幽霊は思い切り口角を上げて笑みを浮かべた。
とっさに右手に持った札を突き出すと、幽霊は瞬間移動のように後ろへよけた。そして、もう一度笑みを浮かべるとそのまま再び姿を消した。
「くそっ」
あまりにも動きが速い。あの笑みも、あの動きも、遊ばれているようで腹が立つ。
次はどこから現れるのか。警戒を続けていると、廊下の奥からゆっくりと近づいてくる人影があった。一瞬、さっきの幽霊が現れたのかと思ったが、すぐにシルエットが違うことに気づいた。
人のシルエットに見えるが、さっきの猫背の幽霊よりもずっと背が高い。やがてはっきりと見えるようになると、それはやせた男を模した一体の塵霊だった。
だらり、と長い腕を垂らして、不気味に佇んでいる。
「幽霊の次は人型かよ……」
そのノッポの塵霊はそこで足を止める。なにかを仕掛けてくる様子もなくて、次にどう動くのかが読めない。
観察をしていると、ふと、そのノッポと目が合った。
塵霊には目と呼べるパーツなんてないけれど、目が合う感覚がハッキリとあった。その瞬間、俺の身体はまるで石にでもなったかのように動かなかった。
なんだ、これ……。
ノッポの塵霊がゆっくりと近づいてくる。危険なほどの距離まで近づかれても、俺の身体は言うことを聞かない。いよいよ、ノッポの間合いに入ろうとしていた。
ふと、分かってしまった。
動けないんじゃなくて、動くことを脳が拒否しているんだ。
目の前まで人型の塵霊が迫っているというのに、不思議と恐怖心は湧いてこない。それどころか、どこか心地良さすら感じている。
このままこの塵霊に包み込まれたなら、と、そんなことを考える自分を、どこか他人事のように感じていた。
そうか。塵霊に引き寄せられるっていうのは、こういう感覚になのか。
目の前のノッポは長い両腕を広げた。そして、そのままの格好で近づいて、俺の身体をその両腕で包み込もうとする。
俺はまぶたを閉じてその時を待った。
不意に、激しい衝撃音が目の前で響いた。
「鴨居さんから離れて!」
犬塚の大きな声でハッとした。
目を開けると、札を持った右手を突き出す犬塚がいて、ダメージを受けたノッポが大きくよろめいている。ノッポはそのまま、廊下の奥の方へと逃げるようにして消えていった。
廊下には再び静寂が訪れる。聞こえてくるのは、犬塚の激しい呼吸音だけ。どれだけ勇気を振り絞ったのか、今の様子だけでよく伝わってくる。
俺は犬塚に助けられたんだ。
「ごめん。俺どうかしてした」
「い、いえ! すみません、逃がしてしました……」
「なんで謝るの。犬塚のおかげで助かったんだから」
犬塚は少し驚いて、それから押し黙った。なにか言葉をためらうようの仕草をしてから、「あの……!」と響く声で切り出した。
「私、これからも鴨居さんについていっていいですか……?」
すぐ隣から、犬塚が縋るような目で見上げている。
もし犬塚が隣にいてくれなかったら、今頃俺はあのノッポの餌食だった。答えなんて決まっていた。
「別に俺の許可なんか取らなくていいから。当たり前についてきたらいいんだよ」
そう言うと、犬塚の顔がパッと明るくなった。
急に気恥ずかしくなって、反対側に目をそらす。左側の壁は外に面していて、視線をそらした先はちょうど窓になっていた。
この位置から窓をのぞくと、部活棟の辺りが見下ろせた。その棟の裏側では、一度帰ったはずのあの野球部の男子が、また黙々と投げ込みを続けていた。
どうしてそこまでして練習を続けるんだろう。
まるで、なにかに囚われているみたいだと思った。




