追憶の旧校舎
「リオが変な話をしたせいだ」
できることなら思い出したくなんてないのに。この旧校舎という場所とリオの話が引き金になって、当時の記憶が鮮明に呼び起こされてしまった。この旧校舎には、嫌な記憶が染み込み過ぎている。
また一体、小さな塵霊を消滅させる。今日は犬塚がいないから、昨日よりずっと仕事を進めやすい。襲ってくる小さな塵霊を、もう十体は倒しただろうか。
もし、あの時の自分に塵霊と戦えるだけの力があったのなら。莉菜を助け出すことだってできたかもしれないのに。
近くの教室に入ると、机や椅子の陰に隠れていた塵霊たちがいっせいに姿を見せた。数はざっと二〇近くか。教室中の椅子や机、壁に貼られていた掲示物、すべてがふわりと浮き上がった。
「やる気満々だね」
小さな塵霊たちは不意に小刻みな動きで飛び回り始める。こっちの視線を撹乱しようとしているのだろうか。
久しぶりの相棒の感覚を試すにはうってつけの状況だ。
ベルトに挿した小刀を鞘から抜き取る。柄を右手で握ると、身体が拡張される感覚があった。
リオが力を込めた武器は、使用者の精神が通うことによってはじめて塵霊を倒すための力を発揮する。武器に精神を通わせることで、身体が一体となる感覚になる。
「それじゃあ、まずは肩慣らしかな」
そして、いっせいの投擲が始まった。浮遊する物体が飛来して、一つ一つ正確にかわしていく。避けながらも少しずつ塵霊へ距離を詰めて、そして、一閃。
刃で切られた塵霊は衝撃で光が拡散し、そのまま姿を消していく。コアを持たない小さな個体なら、札を直接叩き込むよりもずっと効率がよかった。
宙に浮かぶ塵霊たちを次々に刃で斬り伏せていく。塵霊が消える間際に立てるパチパチという音が、教室中から聞こえてくる。
久しぶりに扱った相棒は、ブランクを感じないほどに手に馴染んだ。
やがて、戦闘が始まって一分程度が経過した頃には、教室にはただ静かな時間が流れた。
「はあ……」
小刀を鞘に収めると同時、つい大きなため息が漏れた。
どれだけ塵霊を消したところで、気分が晴れることはない。莉菜がいなくなった虚しさは埋められない。
塵霊が狙う人間には特徴がある。
人間の感情がもとなって生まれた塵霊は、自分と近い心の形を持った人間を食事の対象とする。その中で心や感情が不安定になった人間を見つけると、まるで蜜で誘き寄せるように誘惑し、その魂を捕食をするらしい。
その事実を知ったのは、リオにスカウトされて除霊師になった後のことだ。あの時の莉菜が塵霊に誘惑されるような状況にあることを、俺はまるで気づくことができなかった。
塵霊という存在そのものへの恨みと、不甲斐ない自分への怒りと、それだけは五年前から今もずっと変わらない。
少し呼吸を整えてから教室を出る。次の塵霊を探して廊下を歩いた。
真っ暗な中をライトの明かりだけを頼りに進む。歩いた場所を記憶して、少しずつ頭の中の地図を広げていく。徐々に校舎の構造が見えてくるにつれて、なにか違和感のようなものが強くなっていった。
階段がどこにもない。
それに、外から見るより中が広すぎないか?
もちろん、慎重に進んでいるから、体感として広く感じることはあると思う。それでも、明らかに何かがおかしいという感覚までは否定できなかった。
さすがに気味悪く感じ始めた時だ。廊下の脇に置かれた、空になった花瓶を飾る棚をライトが照らす。その上に積もったほこりが、一部手の形できれいになっていた。
小さな手形は女性のものに見える。新しいほこりが上から積もっていないことから、まだ新しい手形だと分かった。
嫌な予感がした。
廊下の先へ向かって走る。あの小さな手形の主は、きっとまだこの校舎の中にいる。その予感があった。
突き当たって左に曲がると、終わりの見えない別の廊下に出た。廊下の先には、奥に向かって歩く一つの女子生徒の背中があった。その背中には見覚えがある。
「田村……!」
呼びかけてもライトを当てても、まるで気づいた様子もない。
夢遊病のようにゆらゆらと歩くその姿が、旧校舎に向かう莉菜の背中に重なった。全然、タイプも違う二人なのに。
ふと、自分が足を止めたままになっていたことに気づいて、慌てて後を追いかける。それでも田村が振り向くことはなく、その腕を掴んで強引に引き止めた。
「もう来るなって言ったよね」
腕を掴まれてやっと気づいたのか、田村は過剰に驚いた。それから、剥き出しの苛立ちを浮かべて叫んだ。
「離してよ! あの子が呼んでるんだから!」
大きな声に虚を突かれて、腕を掴む手から力が抜けた。その隙に田村は無理やり腕を解くと、廊下の奥へと走り出す。
「待てよ!」
田村は近くの教室のドアを開けると中に入っていく。俺もすぐにその後を追った。
教室の中に入った瞬間、思わず目を疑った。
視界一面を覆うほどに、淡い光の塊が無数に漂っている。何十体という数の塵霊が、この教室中を埋め尽くしていた。
とっさに刀の柄に手を伸ばす。けれど、塵霊たちは俺のことは気にもとめず、田村のことを歓迎するように、教室の周りをくるくると回り続けた。
ケラケラケラケラケラ。
耳からではなく、頭に直接響く笑い声。田村の目にこの塵霊たちは映っているのか、いないのか。なにかを探すように辺りを見回している。
「どこ? どこから呼んでるの?」
田村は必死に誰かを探している。
きっと、探しているその”誰か”は人間じゃない。
「落ち着いて。誰も田村のことを呼んでない」
もう田村の耳に、俺の声は届かない。きょろきょろと、辺りを探し続けている。
ふと、教室のドアの窓から、一つの人影が通り過ぎていくのが見えた。
すぐに死角へと消えていったその人影は、たなびく長い髪を携えて、女性のような柔らかなシルエットをしていた。
その人影は微かに白く発光していて、一目で普通の存在ではないと分かった。
「あ、いた」
田村はそうつぶやいて、その人影を追いかけようとした。
「バカ、あれはダメだ!」
とっさに腕を掴んで引き止める。
今のは、間違いなく塵霊だった。人間の感情の集積体である塵霊は、その成長の度合いによって大きさや姿を変える。その中でも、完全に成熟しきったのが人間を模した姿だ。
確実に、もう一人や二人は人間の魂を食べている。
この教室が見つかるのは時間の問題だ。田村を食べるため、すぐにでもここへやって来る。
「ちょっと、離して!」
抵抗する田村の身体を強引に抱え上げる。嫌がる声も無視をして、腕に抱えたまま走った。
教室を出て、あの人型の塵霊が向かったのと反対側に進む。一度、退避するしか手はなかった。
「こんなハンデ背負って、人型なんかと戦えるか……!」
これまで、人型に対して勝てた経験がないわけではない。それでも、相手が単独でいる時を狙って、ようやく優位に戦えるような相手だ。田村のことを守りながら戦うなんて、想像もしたくない。
「いや、降ろして! 降ろして!」
なんの遠慮もなしに暴れるせいで、時々肘や膝がもろに入る。それでも、痛みに耐えてひたすら走った。途中、小さな塵霊が襲ってきても、全身の筋肉が悲鳴を上げても、全てを無視して走り続けた。
少しずつ抵抗も収まっていって、やっと旧校舎を抜け出した頃には、諦めた様子で脱力をしていた。
ゆっくりと、田村を地面に立たせる。逃げ出す様子はなかったけど、冷たい非難の視線が返ってきた。
「なんで邪魔するの? 私はただ、あの子と遊びたかっただけなのに……!」
田村は悲痛な声を絞り出した。
「あれがどういうものか、ちゃんと分かって言ってる?」
「どうだっていいです。だって、あの子が私を呼んでるんだよ?」
「アレはそういう存在なんだよ。人の心に取り入って、近づいてきたところを襲ってくる。アイツらは、そうやって人間の魂を食べるんだ」
魂を食べられた人間がどうなるのか、一度見たことがある。
まだ除霊師として働き始めてすぐの頃、ある運動施設での仕事だった。その利用者の一人に、すごく溌剌とした少女がいた。だけど、塵霊に食べられてしまった彼女は、次の日にまるで別人のように暗い顔をして施設を訪れた。そしてその日を最後に、それきり施設へ姿を見せることはなくなった。
「私だって分かりますよ、あれがヤバいってことくらい」
「だったら――」
「私は、先生や他のみんなとは違う。どうなったっていい、どうにかなりたいの。……魂を食べてくれるなんて、むしろ好都合です。だって、そうしたらなにも感じなくて済むんでしょ?」
ずっと疑問だった。どうして莉菜はあの日旧校舎に向かったのか。どうして、塵霊なんかに招かれてしまったのか。
同じだったんだろうか、今の田村と。
どうなってもいい、いっそどうにかなりたい。と、そんなことを思っていたんだろうか。
俺はそんな感情に気づくこともできないで、あの日、忘れ物をしたと言って旧校舎に行く莉菜の背中を見送ってしまったのか。
なんだ、全部俺のせいじゃないか。
「田村のこと、誤解してたよ」
「なんですか、急に」
「なんでもない。ちょっと腑に落ちたことがあって」
今の田村は、忘れ物をしたと嘘をついて道を引き返そうとする莉菜と同じだ。まだ手を伸ばせば引き止められる。莉菜はもう戻ってこないけど、あの時のやり直しをすることならできる。
「遅いし、今日はもう帰ろう」
正門の方へ歩き出すと、田村は意外にもおとなしくついてきた。今はできるだけ早く田村を旧校舎から遠ざけたい。
正門を抜けて学校の敷地をあとにする。それからもしばらく、田村の隣を付き添って歩いた。最初はついてくることに鬱陶しそうにしていたけど、次第に諦めたのか、お互いに前だけを向いてただ無言で歩き続けた。
十分ほど歩くと最寄の駅まで着く。田村が改札内に入っていくのを見送ってから、俺も自分の家を目指して来た道を引き返した。




