記憶。
「いや、彼氏じゃないよ。ダンナ」となんでもないように彼女は‐‐
僕はぎょっとして息を詰まらせた。自分の背骨が凍りつくような悪寒に襲われ、身を止める。
「か……だ、だ?」
なぜか、ろれつも回らなくなる。
「え? かんだだじゃないよ! ダ、ン、ナ」
何がおかしいのか、彼女は笑ってまたも言う。
それに、言葉を返せない
なんなんだ、この僕の動揺は。まったくおかしなことでもないだろう?
成人している同い年の彼女なんだぞ? 「それ」をしていても、まったく不思議じ ゃないだろう。
ひょっとしてありえない勘違いでもしたか? 今日逢ったばかりで、いっしょにゲームを探しただけなのに‐‐
あのころの彼女がいま戻ってきたのだと。ゲームの中でいっしょに探し物をした、あのときの関係にまた戻れるのだと。いや、そもそも、あのときの関係ってなんだよ。
僕らの、あのころ。なにもなかった。最期まで。
家を行き合いくだらないお喋りしながら中古のゲームをやるだけだった。「そういう」関係じゃないかと邪推したのは、クラスメイトのみんなくらいで、聞こえてくるくだらないうわさが、いやなくらいだった。だから‐
こんなに動揺することないじゃないか。理由がまったくないのだから。
僕は動揺するとかなり視野が狭くなるようだ。思えば、今日絡まれたときのナイフだって、本物だったか疑わしいものだ。
たいしたことのないものだったんだろう。
そうだ。たいしたことのない思い出なんだ。僕にとっても、そして彼女にとっても、
そのとき
「‐ねえ、だいじょうぶ? ちょっとっ」
心配そうな彼女の声に、ようやく僕は我に返った。
顔を上げると、不思議そうに首を傾げた彼女が、正面に見えた。
「ああ、だいじょうぶ、えっと、立ちくらみしただけ」
笑顔と理由を、むりやりにすぐ作り、彼女に見せる。恥ずかしかったのだ。何気ない会話からいちいち過去を思い出して、落ち着こうとしている自分を知られたくはなかった。
でも、僕の対応は、心配げな色を湛えた瞳にじっと見つめかえされる。らしくもない眉を寄せた彼女を見る。焦っていく。
今の僕はそんな不安にさせるような笑顔になっているのか。
理由の見つからない自分の身勝手にいつまでも気を使わせたくなかった。あわてて顔を伏せた僕は話題を変えようと視線をさまよわせる。そうして、下に顔を向けた。すると、視界の隅にゲームの袋を見つけた。
伏せてた顔をそっと上げて訊ねてみる。
「ねえ、なんでそれ、そんなほしかったの、もうほとんどゲームなんてしないんじゃ?」
彼女はきょとんと目線を手元に落とした。
「え、これ? ……ああ、ひさしぶりに‐」そこで言葉を濁した彼女は、少しの間黙ったままで、やがて、僕に向き直った。
「ねえ、おぼえてるかな?」彼女は微笑み確認する。「いっしょに遊んだときのこと」
どきりとする。内面を見透かされたような感覚がやってくる。
「え……まあ、うっすらとは」
それを表に出さないように、気のないみたいに振る舞った。
「うっすらとかよ……」彼女は肩を落とし残念そうに言う。
「……それは私にとって、一番大事な時期だったのに」
何の話だろう、と僕は改めて彼女の様子をうかがう。彼女は僕に向けていた顔を、なにもない向こうに移す。唇をほころばせて、まつげを伏せた憂いある横顔だった。無機質な街並みをそんな顔して見る瞳には、今のここにはない、大切ななにかが写っていると僕にはなんだか感じられた。
まるで彼女にだけわかる、遠い思い出が映し出されているかのようだった。
「でも、いちばんつらい時期でもあった」
「つらい……時期?」
「両親の関係、悪くなったのよ」
そこで見ていたそのなにかから、彼女は目をそらす。
「それで家に居づらくて、しょっちゅうあんたに会いに行ったの」
彼女はまた顔をこちらに戻して言う。
それを聞き、僕はあの日から今に至るまで、ずっと胸に残っていた疑問を口にする。
「それ、……なんで、僕、だったの……?」
おそるおそる問いかけると、彼女は苦笑して言う。
「ごめんね。ほぼ毎日、きみの家に入り浸って。迷惑かけたでしょ」
「いや迷惑だなんてっ……」僕は顔を横に何度も振った。
「そんな迷惑かけられるほどの関係の人、あんただけだったから」
「……え、そんなこと……」彼女は社交的でだれとでも仲良くしていたという昔の思い出と今の言葉はズレて聞こえた。友達なんていっぱいいたでしょ? それなのに僕だけしかいなかったって?
「席が近くて、いろいろ話していたし、なんか面白いし、あと、他の人と違って、あんただけは絶対断らなさそうだったし、私のこと」
彼女はよどみなく自然な感じに理由を言う。
「……ああ……なるほど」
ようやく、疑問が解け落ちる。
それなら彼女が僕を選んだのもわかる気がする。中学の人間関係はいろいろなものをきっかけにいきなり変わってしまう。だから、実は、すぐそばの人には、自分の弱みは見せられないものだ。大きな弱みを見せたとたん、そのせいで近かった距離が離れてしまうのが怖いから。
僕は当時の自分を思い出して改めて思う。
それに、彼女の関係の中で、たしかに僕がいちばん扱いやすい、都合のいい「面白い」存在だっただろう。
まわりの友達に、自分の悩みで迷惑をかけることが彼女は気詰まりに感じたけれど、どうでもいい存在な僕にはやりやすかったのか。彼女はそういう基準で僕を選んだんじゃないか、と納得できた。
「それに、あんたに興味があったし」
「え、興味って?」まだ、なにか理由があるのだろうか?
「ふだんはなにやってんのかなって興味。だって、あんた自分の趣味とか話さないんだもん」
「う、うん、ごめん」
ゲームしかしていないって女子に話しにくいんだよ。
「で、行っていいかって聞いて、いいよっていうから遊んでみたら、ずーっとゲームしてるしさ」
「ほんとに来るとは思わなくて」「何でよ?」「いや、ふつう冗談かと思うよ」
遊ぼうなどと本気で言ってきていることに気付けたはずがなかった。教室で座る席が隣同士になったときから、積極的に彼女は僕に話しかけてきた。けれど、別に遊ぶほどの関係性でもなかったように思っていた。彼女の言っていることに嘘など混ざってないことをそのときまだ知らなかった。
「だから、そんなに熱心にやれるゲームなら、面白いんだろうなって思ったのがきっかけで遊び出して、今もときどきゲームはするよ。って昔話も憶えてないでしょ?」
非難めいた目で彼女は訊いてくる。
「うん、あの、憶えてないっていうか、今日ここで知ったことも多いと思う」
彼女が僕を選んだ理由はもちろん知らなかった。でも、もっと驚いたのは遊びに来ていたとき彼女が悩みを持っていたということについてだ。当時、沈んだ様子などはまったく見せていなかったから。
笑い声が流れていた、あの日の僕の部屋。対戦で手を抜いたのがすぐばれて、ひどく怒られた僕。ゲームキャラのありえない死に方にいちいち突っ込んでいた、当時の彼女。そういう思い出をすみずみ探し回ってみても、家庭関係で苦しんでいるさびしそうな姿を、僕はまったく見つけられなかった。
「ああ、うちのごたごたのこと言ってなかったよね。ごめんね、あんたにこんな暗い話言ってもどうしようもないことと思っていたしね。私も愉しく遊びたかったし」
僕は曖昧にうなずいた。たしかに、僕なんかに話しても意味のないことだろうな。しかも、それが家の事情なら、なおさら力になれることじゃない。
「……あのとき、私は自分勝手な両親に離婚されて、会えなくなったりすることよりも、いちばん悩んだのは自分の未来についてだった」
そしてもちろん今だって、遊びに来ていた彼女のプライベートな悩みを詮索したかったわけじゃない。それでも‐‐
彼女はそれをゆっくりと話し始めた。
「他の何かに簡単に自分の人生や大切なものが、いきなり壊されてしまうのだという暗い現実。いままでに自分が積み上げてきたものが、たやすく崩されてしまう」
僕の意に反して、その中身を知りたがっていると思わせてしまったのだろうか。それとも、僕に知ってほしいことなのだろうか。
彼女はこちらを向いた。




