第一話 6(終)
肉が爆ぜる音がした。
液化した〈肉塊〉が、突如として弾け飛んだのである。とりわけ〈高き者〉に触れていた箇所が破裂し四散する。さしもの〈肉塊〉も異常事態を察知したのか、爆ぜた次の瞬間には後退していた。
歓喜の叫びと共に膨張する身体。
〈肉塊〉に捕食され、欠損さえ生じつつあった肉体が瞬時に、あるいは爆発的に増殖する。
瞬きをする間にも半分以上は欠けていた脚の肉が再生し、そして再生以上に隆々とその容積を増やし続ける。
そうして再生された〈肉塊〉の姿は、怪物を超えて怪物的であった。
単純に体積だけを見ても明らかに再生前を優に超えており、〈肉塊〉の欠損を加味しても、その全長は〈肉塊〉のそれと比べて身体半分以上は差をつけている。
また、その身体を形成する肉は、臙脂色からよりどす黒く変色している。単純に生肉的であった肉は見違える程に隆起し、まさに怒張し露出した筋肉と化していた。その肉体のところどころから、噴水のように飛び出す黒い液体をまき散らしている。まるで重油のように濃厚なそれは紛れもなく生物の血液であり、並々ならぬ血流が血管を千切っては吹き出し、吹き出しては再生し、再生してはまた吹き出し――そんな暴力的な循環を繰り返しているようであった。
そうした生物の姿は、途方もない怒り、あるいは興奮をさえ想起させた。
その姿はまさしく――敵対する者への、絶対的な「死」を告げているようだった。
それでも〈肉塊〉は戦意を喪失したわけではないようだ。後退を終えた〈肉塊〉は即座に肉体の再生を行う。流石に〈高き者〉のように完全な再生がなされるわけではないが、それでも傷口は修復されていた。
――ズンッ!
重々しく響くそれは、〈高き者〉の前進だ。先ほどまで〈肉塊〉が〈高き者〉に向かっていくという構図だったのが一変、〈高き者〉による〈肉塊〉の征服に反転していた。
かといって〈肉塊〉の方も黙って見ているわけではない。即座に五本の触手を生やすと、その全てを〈高き者〉へと放った。
矢のように音を裂いたそれは、その全てが〈高き者〉に命中し、突き刺さる。
〈高き者〉はその場に立ち止まる。
しばしの間、この場の空気を支配したのは奇妙な停滞だ。
しかし、少なくとも〈肉塊〉の側はなにもしていなかったわけではない。
〈高き者〉に突き刺さったままピンと張り詰めた触手を伸ばす〈肉塊〉。
しかし先ほどのように貫通するわけでもなく、蚊が肌を刺す程度の傷しかつけられなかった触手は、〈高き者〉を持ち上げるどころか、一厘足りとも動かすことも出来ず、挙句の果てには触手を引き抜くことさえ出来なくなっていた。
よって、これから行われるのは〈高き者〉の「蹂躙」に他ならない。
まず、〈高き者〉自らに刺さった触手をまとめてたぐり寄せるようにして掴む。まるで開始前の綱引きの綱を掴むように呆気なくなされた所業は、当然〈肉塊〉の抵抗もあったはずだが、もはや抵抗したからといってどうにかなるものでもなかった。
はたして〈高き者〉は叫ぶ。叫ぶが同時、掴んでいた触手を背負うようにして持ち上げ、そのまま背負投でも叩きこむかのようにしてアスファルトに叩きつけた。
地球を穿つ、どころか地球を貫かんがばかりの破滅の音。
その一撃で、〈肉塊〉の半身はアスファルトの中に陥没してしまった。
身動きがとれなくなった〈肉塊〉の触手を、〈高き者〉は思いきり引っ張る。ただでさえ隆起している肉はますます緊張を高め、噴出する血液の量と頻度が増す。ミキッ! メリッ! と、時折、鉄が裂けるような音がした。
〈高き者〉が、全身をよじらせて大いに叫ぶ。
そして〈高き者〉の力が最高潮に達したその瞬間、五本の触手はその全てが千切られた。
〈肉塊〉は埋まるアスファルトの中でめいいっぱいに暴れ回る。
〈肉塊〉の断末魔めいた姿と裏腹に、〈高き者〉は叫び、歓喜する。
緊張から解き放たれたように暴れまわる触手を手に持ち、触手の切り口から噴出する腐った血を全身に浴びながら、全身全霊をもってして、その勝利を誇示する。
しかしもちろん、戦いは終わっていない。
叫びを終えた〈高き者〉は獰猛に駆け、埋まる〈肉塊〉を持ち上げた。ドゴゴゴッ、と地響きのような重たい音とは裏腹に、土から野菜を引き抜く程度に軽々しい動作であった。むしろ、〈高き者〉の背中で鳴っている何かが煮え立つような音の方がよっぽど重々しいくらいだった。
そして〈高き者〉は〈肉塊〉を空高く真上へと放り投げる。〈高き者〉の巨体は空高く舞い、その巨体で太陽の光が隠れる。
〈肉塊〉の身体が頂点に達したその瞬間、叫びと共に大きく胸を反らす。
それと同時に、背中からバネのような勢いで八本の触手が伸びる。まるで翼のよに生えたそれは、〈高き者〉の全身同様にどす黒く、そしてその身は刀のように鋭かった。
薙いだり刺したり巻き付いたりと多様性を感じさせた〈肉塊〉の触手に対して、〈高き者〉の触手の機能性は、明らかに斬撃に特化していた。
頂点に達し、加速度的に始まる自然落下。
〈肉塊〉の身体が半ばまで落ちたところで、〈高き者〉は高く跳んだ。
八本の触手の全てを、放たれる直前の弓のようにしならせ、巨体に似合わぬ俊敏さをもってして、瞬く間に落下する〈肉塊〉に迫る。
そして触手が放たれて――その次の瞬間には全てが終わっていた。
八本の触手は無造作に〈肉塊〉の全身を切り刻む。頭部を割り、腕を絶ち、脚を払い、腹を裂き、背中を薙ぎ――〈高き者〉の刃は、瞬刻の間に、〈肉塊〉のなにもかもを破壊し尽くした。
〈肉塊〉が潰れるような音を立てて地に堕ち、少し遅れて〈高き者〉が揺るがすような音を響かせて着地する。
〈肉塊〉は最早、〈肉塊〉としての体を成さない、ズタボロの肉片だった。にも関わらず、それは未だに生命活動を終えていなかった。 その肉片は、ピクピクと、反射じみた動きを見せる。
どこからともなく、火花が弾けるような音がしたのはその時だった。
弾ける音はどんどんと高まり、それと共に、空間に一個の穴が穿たれた。初めは赤子でも潜れそうにないほどに小さなものが、音の高まりと共に勢いよく広がり、やがては小さなビルであれば優に飲み込めるほどに拡張する。その穴の中は、ただただ真っ黒い。下手な虚無より、よほど絶望の密度が濃い漆黒だった。
絶望が、横たわる〈肉塊〉の傍らに浮かぶ。
まるで、今この瞬間に、死を届けにやってきた死神のように。
そしてその漆黒の穴から、雪崩のような肉が溢れ出てきた。〈肉塊〉は立ちどころにその肉に飲み込まれ、飲み込むが同時、そのまま〈肉塊〉を穴の中に引きずり込んだ。
肉は漆黒の中に消え、例の火花の音を鳴らしながら、穿たれていた穴が縮小していく。
穴が完全に閉じられた瞬間、パァンッ! と辺り一体に閃光が弾け、〈高き者〉に向かって爆風が襲い掛かる。
光と風、そして熱に晒された〈高き者〉は、呆気なく吹き飛んだ。その身は、もはやどす黒い偉容を保ってはおらず、当初の臙脂色の肉体に戻りつつあった。
それでもなお〈高き者〉――〈叫ぶ歓喜〉は、その咆哮を力強く轟かせた。
本懐を遂げた歓喜を、この世界そのものに示威するかのように。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――アスファルトが、異様に冷たい。
どういうわけだか仰向けになって倒れていた俺は、そんなことを思った。
視界が霞み、身体が重い。目立った外傷もなく、体調に異常をきたしているわけでもなさそうなのに、ただただ、意識が深いところに沈んでいきそうな気分。
立ち上がることも忘れて地面に横たわってるうちに、アスファルトが冷たいのではなく、俺の身体が異常に火照っていたという事実に気がついた。
喉は乾き、全身が汗ばみ、まるで内側から激しく熱せられているかのように体温が上がっている。
それはまるで疲労だった。精根尽き果てるまで身体を使い切った後の状態。
しかし、そんなことが分かったところで、俺にはやたら重たい意識と、戸惑いしか感じられなかった。
こうなる前に、俺が一体どうしていたのかをまるで思い出せない。
なんだかとても、真っ暗なところにいたような気はする。
真っ暗なところで、ずっと揺蕩っていたような――でも、じゃあ、その前は? そもそも俺は、体調を悪くして、学校を早退していたんじゃないのか?
そしてなにより――重たい意識の奥底で熱を持つ、途方もない満足感は、なんだ?
ぼんやりとした混乱の中にいる俺の目の前に、手が差し伸べられたのはその時だった。
真っ白く、小さな手。
ゆっくりと首をあげると、そこには一人の小さな少女がいた。
銀色の髪に、白い肌。そしてその顔に、爛れたような傷。
まるで焼かれた宗教画のように醜い存在のはずだった。しかし、その小さな手を差し出す少女の微笑みに、俺は息を飲まずにはいられなかった。
目の前に、運命の女神が現れて、まさにその祝福を受けているかのように――
俺はその少女に見惚れていた。
この世に、これ以上に美しく尊い女性など、何人たりとも存在しない。
心の底から、そう思った。
「狹間田遊里――死にたがりの、いけない、いけない、〈高き者〉」
そしてその少女は俺の名を呼んだ。
ただそれだけのことで、俺の全身は至上の多幸感に満ち満ちた。
涙が、出そうになる。
はち切れそうなほどの昂ぶりを抑えて、俺は少女の手を取った。
そして顔をあげた俺はその光景を見た。
まるで終末の世界のように、完全に人が消え、廃墟と化したビル群が林立し、地面のコンクリートに穿たれた跡が点在する光景。
その世界の中心で、銀髪の、顔に爛れた傷を持つ少女が、まるで天使のように微笑んだ。
「さあ――いっぱい、いっぱい遊びましょ?」
俺は、自分でも気づかないうちに、こらえていた涙を流していた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……流石に、〈子守付き〉は分が悪いわね」
その少女は、忌々しげに呟く。
廃墟群と化した世界の中で手と手を取り合う〈少年〉〈少女〉を、無人のビルの屋上から見据える、一つの影。決して隠しきれぬ憎悪と殺意が、その視線には込められていた。
「しかもあの個体、〈悪性〉にしても、相当に強力な奴じゃない……ざっけんじゃないわよ、ポンポンポンポン、動物の交尾みたいに見境なく糞ったれの数を増やしやがって……ホント、死ね、死ね、死ね死ね死ね……!」
病的な苛立ちを隠すことなく呪詛の言葉を繰り出しながら、ギリギリと爪を噛む。
目深に被る灰色のパーカーのフードから赤い髪を覗かせる彼女は、見た目こそ二十歳にも満たないほどの少女のものであったが、全身から放たれる異様な殺気が、本来の年齢以上の妖気を醸し出していた。
まるでその姿は、幾多もの修羅を超えてきた、戦乙女の具現であった。
「もっと、もっと私に力があったら……せめて、〈子守付き〉でさえなければ、あんな奴……あんな肉袋……!」
そうだ、たとえどんな強力な〈悪性〉であったとしても、〈少女〉という〈子守〉さえいなければ恐るるに足らないのだ。
戦乙女は、神経が焼けつくような憎悪を、脳内で駆け巡らせる。
どっちにしても、駆逐されることだけが存在価値の、醜いだけの肉袋だっていうんなら、〈良性〉の方がよっぽどやりやすいんだ。
ワラジムシ並の頭脳に、単純明快な突進と触手。〈良性〉なんていかにもな雑魚キャラなんだ。ひのきの棒をもったペーペーの勇者に、一撃で葬られるのが相応しいクソ雑魚。本家のスライムの方がよっぽど愛嬌があるっていうものだ。
それもこれも、全部〈少年〉なんてものが存在するのがいけないんだ。
なんの罪もない〈少女〉を、ヘドのように腐りきった〈欲望〉の玩具にする〈少年〉なんて存在が、なにもかも。
「〈高き者〉……? 冗談じゃない!」
あんなものはただの〈欲望〉の肉塊だ。
汚らしい肉の詰まった肉袋を、腐りきった〈欲望〉が支配する、ただただ存在するだけで破壊と暴力をまき散らす害悪だ。
世界全体が、グラリと揺れるように感じる。
もうまもなく、この世界は元通りの姿に戻ることだろう。
何事もなかったように、人が暮らし、建物が林立する、そんな至って普通の世界に。
もっとも、その「辻褄合わせ」のために、今回はどれほどの「犠牲」が出るのだろうか。
至って善良な市民が通り魔と化して至って善良な市民を殺したり、至って善良な市民が高速で走る車や電車によってミンチと化したり、至って善良な市民が暮らす世界に小規模な災害が起きて哀れな犠牲者となったり。
この程度の規模だと、恐らく十人程度の人間がなにかしらの形で死んだり姿を消したりすることだろう。あるいは、小さな建物のいくつかが自壊するか、なにかしらの形で破壊されるのかもしれない。
そうして世界は辻褄を合わせる。
〈肉塊〉という外敵の侵略からの、辻褄を合わせるのだ。
要するに、なにもかも、〈少年〉が悪い。
〈高き者〉だとか〈再誕者〉だとか、そんなふざけた二つ名を得意気に抱えて暴れまわるような、汚らわしい〈欲望〉野郎どもが。
「すべて、すべてを、殺し尽くしてやる」
だから戦乙女は憎悪する。
こんな糞ったれな世界を作り出した――そしてそんな糞ったれな世界に引きずり込んだ、鬼畜生のような〈肉塊〉の、そのすべてを。
憎悪、憎悪、憎悪――それこそが、戦乙女の、すべてだった。
「すべての〈肉塊〉どもを、この世界から、根絶し尽くしてやる……欠片だって、残しやしない!」
だからもちろん、あそこで陶酔をかましている〈少年〉だって殺してやるのだ。
この手で――徹底的に、捻り潰すように。
何故ならそれこそが、私のすべてなのだから――!
去り際にもう一度眼下の〈少年〉〈少女〉を睨み据え、戦乙女は移りゆく世界からそっと姿を消した。