EX.3 萌芽
開けられた窓からふわりと甘やかな香りが届く。
春が一番美しい時期。
ベラール公爵の館は、浮き立つ空気とは反対に慌しい雰囲気が満ちている。
回廊を小走りに行き来する侍女たちの手には、清潔な布や盥が積み重なっている。
忙しそうな様子ではあるが、どの顔も嬉しそうに輝いている。
「はやく、いそいで。もうすぐよ」
「お医者さまも、もういらしているのよね」
さざめきながら小走りに館内に吸い込まれていく。
ひらめく侍女服も軽やかで楽し気だ。
館の中は、そわそわとした空気でそこかしこが落ち着かない。
用もなくウロウロしているのは、こういう時には得てして役に立たない男性陣だ。
休む暇もなく立ち働いている侍女たちを肩身の狭い思いで眺めている。
「なぁ、もう結構経ったよな」
「いやいや、こういうもんは時間が掛かるもんだ」
女たちよりも余程落ち着かない会話が交わされる。
訳知り顔で頷いている年配の男も、忙しなく階段を見上げている。
今日は、特別な日なのだ。
「こちらでお茶でも如何です?まだ、かかるんでしょう?」
落ち着いた緑に若葉の刺繍を施した長椅子に、当主よりも寛いでいるのは側近であるベルリードだ。
ライドールが淹れたお茶を美味しそうに飲んでいる。
「うん、美味しいね」
「ありがとうございます」
そつなく賛辞を受け取って、有能な従僕は忙しなく部屋を行き来する主を見やる。
腹を空かせた熊のように歩き回る公爵を責められる男はいないだろう。
今はまだ結婚も考えていないライドールだが、もし同じ立ち場になったら落ち着いてなどいられない。
ただ、心情は良く理解できるが、動き回られてばかりなのも少々鬱陶しいと正直思う。
「デイル様、お茶はいかがです?」
「あぁ、後でな」
声をかけてはみるが、視線も上げない返答ばかりだ。
ベルリードとライドールは示し合わせたようにため息を吐いた。
「やれやれ、国王との初対面でもこんなに焦った事はなかった筈なのに」
「仕方ありませんね」
「まぁね」
仕方あるまい。
何度目かの言葉を呟いて、ベルリードは窓の外を眩しげに見る。
「あれから三年か…。早いものだね」
何を言わんとしているのか、ライドールは正確に察した。
同じことを考えていたからだ。
「あの時の事を考えると、今でも顔から火を噴きそうなくらい恥ずかしいよ」
独白にも似た台詞に、どう答えたものか迷う。
「世間知らずだったんだな、と思い知った。でも、こんな事言うと君に怒られそうだけど、お陰でいろいろ学んだんだよ」
子どもが親に小さく自慢するような表情を浮かべるベルリードに、ライドールは苦笑を返す。
「怒るなんてとんでもありません。自省し学べる人間は、少ないですから」
新たに注いだ香茶を丁寧に差し出す従僕に、軽く眉を上げてみせる。
「君のように真実を見極める目を持った人間はもっと少ないと言うことは、いくら僕でも知っているよ」
「ベルリード様」
困り果てた声に、有能な秘書官はくすくすと笑い声を立てる。
「まぁ、掛け値なしに君がいてくれて救われた。僕もデイル様も、そしてもちろんお方様もね」
「光栄な事です」
何処までも礼儀に則ったライドールの所作に、ベルリードは清々しさと少々可愛げが足りないと言う不満を同時に持つ。
そこで、ちょっと慌てる姿が見たくなった。
「ところで、君はレジーナとはどうなっているんだい?」
「は?」
思惑通り、普段からは考えられない抜けた声が上がる。
「いや、こうして晴れの日を迎えられる訳だし。結婚の約束も今なら取り付けられるよ」
ま、君になら何時だって許可をあげるけど。
とても良い笑顔で言ったベルリードに、ライドールは体温調整以外の理由から浮かんできた汗を拭った。
「どうもこうも。私と彼女はそう言った関係ではありませんよ」
「え、そうなの?皆が噂しているけど」
「噂は噂です。レジーナは妹のようなものですから。無用なお気遣いは結構です」
きっぱりと言ったライドールに、ベルリードは何ともいえない表情を浮かべる。
「それじゃ、誰か他に意中の人はいるのかな」
「…ベルリード様?」
何故こんな話題になったのか。
だが、ベルリードも引く気はないようだ。
「私の理想は高いんです」
予想外の言葉にベルリードが一瞬きょとんとする。
「全てを満たしてくれる人でなければ愛するのは難しいでしょうね」
さらりとのたまった侍従を探るような眼差しが見つめる。
「……館の侍女たちがこぞって泣きそうな言葉だね」
それでも、ベルリードはすぐに冗談めかした言葉でこの話題を切り上げた。
二人がそんな会話をしている間も、デイルはうろうろと落ち着きない。
会話すら耳に入っていないのだろう。
飲まれないまま冷めたお茶を片付ける。
その時、隣室と繋がっている扉が叩かれ、息を飲む一堂の前で開かれた。
頭を垂れた所作で現れたレジーナは、興奮で赤らめた頬で告げる。
「ご無事のご誕生でございます」
公爵の元にしっかりと歩み寄って、膝を折り更に告げる。
「女のお子様であらせられます」
「…あぁ」
居竦んでいるようだったデイルは、その言葉にハッとしたように動き出した。
わき目も振らずに扉をくぐる公爵に、ベルリードとライドールは目を見合わせ暫らく遠慮することを決めたのだった。
代々の公爵夫人に与えられる部屋は、当代の夫人の趣味に合わせて華美な装飾は取られ、代わりに簡素だが品の良い調度品でまとめられていた。
そこここに飾られた花が、風に揺れている。
次々と祝いの言葉を述べる侍女たちの前を通り過ぎ、薄絹の垂れた寝台へと近づいた。
公爵の意を組んだ侍女頭が部屋に残っていた者を下がらせ、自らも一礼の後に部屋を辞す。
「デイル、さま?」
疲労が色濃く残った白い容貌に、デイルの顔を見てわずかに色味が差す。
垂れ絹を掻き分け、羽毛の寝台に横になる妻を見つめる。
「あぁ、無事で良かった。ミルレイア」
汗に濡れた髪を払い退けてやりながら労わると、ミルレイアはにっこりと微笑んで掛け布をそっとめくる。
隠れるように眠っていたのは、まだ肌も赤い嬰児。
白い布に包まれた赤ん坊を恐る恐る抱き上げる。
その小ささと軽さに驚きながら、デイルは喜びを噛み締める。
「女の子か。名前を決めなければ」
「あ…」
躊躇う声を上げたミルレイアにデイルが慌てて気遣いの声をかけた。
「何処か苦しいのか?」
「いいえ、そうじゃなくて。あの、名前…」
「名前?」
意味の掴めないデイルが首を傾げれば、ミルレイアはすまなそうに口を開いた。
「あの、凛と言うんです。その子。神族の血が強く出たみたいで」
そっと寝台に戻された赤ん坊の頬を指で撫でてミルレイアが説明する。
「私ほどではないから、性別はちゃんと女の子です。でも…」
心配そうに見上げるミルレイアに、デイルは安心させるように微笑んだ。
「そうか。可愛い名だ。凛か」
「はい」
嬉しそうに名を呼ぶデイルの姿に、ミルレイアもホッとしたようだ。
「デイルさまも、名前考えてくださいね」
「良いのか?」
「はい。最初の贈り物ですから」
親から子へ、最初に贈られる素敵な贈り物。
「それなら、二人で考えよう」
「…はい」
微笑みあって、二人はそっと口付ける。
仲睦まじい両親の間で、赤ん坊は小さく声を上げた。
新たな幸せが芽生えた日のこと。
これから、さらに公爵家は賑やかになって行くだろう。
そんな幸福の予感が感じられる。
特別な日のことだった。
後にベラール公爵の息女は、風華国の王妃として世に認められることとなる。
けれど、それはまだまだ先のこと。
生まれたばかりの赤子は、両親の腕の中ですやすやと幸せな眠りについている。
誰からも愛されるように。
そして、多くの人に幸せを運ぶ人になるように。
そんな願いの込められた名が、嬰児に与えられた。
アリスティーナ・リン・ベラール。
新たな家族の誕生である。
fin
本編から数年後くらいでしょうか。
そんな感じで生まれました。
ちなみに、この後は間を空けつつ男の子が二人誕生する予定です。
旋は、神界に戻っているのでいません(笑)




