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EX.2 宿り木


ひっそりと閉じた目蓋に口付けを。

二度とは見開かれぬ瞳に懺悔を。


俺は此処にいる。





汚水があふれ出る道を、垢にまみれた裸足が踏み締めていく。

痩せた鼠の死骸が転がり、そこに複数の鼠が群がっていた。

喰らいあう醜悪な光景もここでは見慣れた背景の一つにすぎない。

冷めた目で汚物と塵に埋もれた廃屋を眺めながら、褐色の髪のラディは前方から聞こえてきた喧騒に眉を顰めた。

段々と近づいてくるその騒ぎの元は、どうやらラディと同じ年嵩の子どもたちらしい。

「なんだ?」

少し離れた場所で立ち止まって、何が起こっているのか見定める。

複数の少年たちが不意に歓声を上げた。

何かを持ち上げながら去っていく。

残されたのは、うずくまる中年の男。

どうやら追いはぎにあったらしい。

近づいていけば泥に汚れてはいたが、男の身なりはここでは考えられないほど良い。

そんな格好で来れば物の数分で身包みはがされて当然だ。

どんな馬鹿だと思いながら、さらに近づく。

行く先に男がいるだけで、何かしてやろうと言う気はない。

「う、痛た…。あー、ビックリした」

前を通り過ぎようとした時、やけに暢気な声が聞こえた。

無視していくつもりが、あまりに間の抜けた言葉に足が止まってしまった。

「馬鹿かおっさん」

「ん?おや、まだいたのか。でも、さっきの子達に全部持っていかれてね。あげられるものは…あ、お菓子があった。いるかい?」

さっき強奪されたばかりだと言うのに、何だこの男は。

こんなボケボケした大人など見た事がない。

差し出された色紙に包まれた菓子をうろんげに見つめて、ひったくるように取り上げた。

くれると言うのなら貰っておく。

男はそんなラディをにっこり笑いながら見ると汚れを払いながら立ち上がる。

恰幅は良いが背丈はそれほどではない。

そんな体格がさらに男を軟弱に見せる。

「おっさん、こんな所で何してんだ?あんたみたいなのがのこのこ来たら良い得物だ」

忠告めいたことを口にして、ラディはチッと舌を鳴らした。

「はは、そうみたいだね。でも、ちょっと人を探していてね。此処にいるって聞いたんだけど」

まいったなぁと頭をかく暢気すぎる男に、ラディはイライラとした。

本当になんで足を止めてしまったのか。

「そうだ、君は知らないかい。探してるのは、君くらいの女の子で、名前はドーラと言うんだけど」

「ドーラ?知らねえよ。女ならさっさと売られていったんだろ」

この最低の場所で、長くい続ける子どもなどほとんどいない。

病や栄養不良で死ぬか、喧嘩や親への暴力で殺されるか。

運が良ければ、どこか良い場所に売られていったか。

そんな幸運は、満に一つあれば奇跡だが。

「そうか、そういう可能性もあるのか……」

消沈した男に見切りをつける。

「だから、さっさと家に帰れよ」

このまま付き合っていたら、こっちの頭がおかしくなりそうだ。

「うん、ありがとう。またね」

ほがらかな別れの挨拶を背に受けて、数歩歩いたところで足を止める。

また……?

怪訝な顔で振り返ったとき、男はもう貧民区の外へと歩き出していた。

馬鹿馬鹿しい。

酷い目にあったのなら、もうこんな所に近づいては来ないだろう。




「おかえり、ラディ!」

ラディがねぐらに戻ると、明るい声で出迎えがあった。

長い飴色の髪を垂らした少女は華奢を通り越した枯れ枝のような体を薄い布団の上に起こしていた。

「ドーリア、寝てろよ。まだ熱があるんだろ」

がらくたを積み上げて作った家ともいえない建物。

不安定な足場を踏み越えながら、熱で潤んだ瞳のドーリアのもとに向かう。

汚れた薄布を体に巻きつけた少女は、嬉しそうにラディの帰りを喜ぶ。

「今日はだいぶ良いんだよ」

「熱があるだろ。嘘つくな」

「ラディは心配しすぎなんだって」

不服そうに言うドーリアに笑いながら、土産を差し出した。

滅多に見られない綺麗な包装のお菓子にドーリアは目を輝かせた。

「きれい、きれい!」

摘み上げたお菓子を日に透かすように持ち上げて何度も角度を変えて見つめる。

かさかさの肌にほのかに血の色が浮かぶ。

明るい笑顔にラディの尖った顔もゆったりとしたものへと変わる。

「はい、はんぶんこ」

存分に眺めた後、ドーリアははいっと二つあったうちの一つをラディに渡す。

「え、俺は別に良いよ。お前が食えよ」

「いーから、はい半分」

ぎゅっと押し付けられたお菓子をラディは苦笑混じりに受け取る。

さっきの暢気なおやじから貰ったものだ。

手のひらで転がしながら、嫌な気分を飲み下す。

「どうしたの?」

「いや……、何でもない」

もうあの男も来ないだろう。

楽しげにお菓子を眺めているドーリアをモヤモヤした気分で見つめた。

ラディとドーリアが出会ったのは、四年ほど前だ。

親からの暴力に嫌気が差して家を出たラディが、うろうろと貧民区を彷徨っていた時に捨てられて泣いていたドーリアと出会った のだ。

そのとき以来、何故だか懐かれてしまい何だかんだで今では家族の様に暮らしている。

泥水を啜る暮らしも一人でないだけ救われる。

けれど、ドーリアは近頃身体を崩している。

熱が下がらず乾いた咳を繰り返すドーリアは、日に日に弱っていく。

こんな所では薬も手に入らず、滋養のある食べ物すら儘ならない。

せいぜい近くの森で、果物を取れれば良い方だ。

その果実すら、途中で奪われる事が多い。

ドーリアは衰弱していく一方だ。

何の助けにもなれずにいる自分が情けなくて仕方がない。

熱のせいかうとうととしながら寄りかかってくるドーリアを、そっと布団の上に横たえる。

放り出された手を握れば、それと分かるほどに熱い。

垢に汚れたドーリアの手の甲にある痣が熱を持ったのか、不自然に赤く浮かび上がって見えた。

寒くないようにあるだけの布を掛けて、枕元に座る。

ほつれた髪を指ではらって、唇を噛み締めた。

亡くしたくない、そう思っているのに。




次の日、同じように何か金になるものはないかと辺りをうろついていると陽気な声をかけられた。

「おまっ、また来たのかよ!」

「うん。だってまだ探してないところがあるからね」

のほほんとした表情で言うのは、昨日出会った男だ。

「だったら傭兵でも何でも雇って来いよ。また狙われても知らねえぞ」

「ありがとう。君は優しいね」

「ば、馬鹿野郎!」

臆面もなく、そんな褒め言葉をもらったのは初めてで顔が赤くなる。

「それで、あんたが探してる女って何なんだよ」

倒壊した家屋の塀に腰掛けて、どうにも頼りない大人を見上げる。

昨日よりもくたびれた格好だが、それでもラディよりもまともだ。

「ドーラはね、僕の子どもなんだよ」

「……捨てたのか?」

厳しい声が出たのは、思うところがあるから。

「まさか!五年位前かな、お屋敷にいく所で盗賊にさらわれてしまったんだ。それから、ずっと探しているんだけど手がかりが少なくてね。あ、そうだドーラの手の甲にね、こう赤い痣があるんだよ。赤ん坊の頃の火傷の痕なんだけど」

ここが最後の手がかりの場所なんだよ。

情けない笑顔を向けられて、ひゅっとラディは息を飲んだ。

五年前?

赤い痣?

目の前で飴色の髪が揺れる。

「本当は、もう死んでるのかもしれない。それでも、あの子の何かを見つけたくてね」

「あんた……、良い所で働いてんだろ。子どもの一人位良いじゃねえか」

「……子どもは掛け替えのない宝なんだよ。たとえ、他に子どもが居ても。ドーラを見捨てたくはないよ」

そこにはラディが知らない愛情があった。

生まれてから一度もラディには手に入らなかったそれ。

目の前で見せ付けられて、ラディは怒りにも似た衝動でいっぱいになった。

「あー、またつまらないことを聞かせたね」

「……ドーラが生きてたらどうすんだ?」

「ん?」

「ドーラが生きてたとしても、ここで五年も暮らしてたら犯罪にも手を染めてる。そんな子ども、どうするんだ?」

吐き捨てるように問うラディに、男は少し目を瞠ってから困ったように頬をかいた。

「嫌われるかもしれないけど、引き取りたいと思ってるんだ。甘いと君に言われそうだけど」

「ホント、甘すぎだ」

断定した少年に、恰幅の良い腹が揺れた。

温かな笑い声を聞きながら、ラディは目を閉じて考えた。

目蓋の裏に焼きついている、ドーラの痩せ果てた身体。

もう歩く事すら儘ならない頼りない足。

かさついて咳き込むたびに切れる唇。

それでも笑ってくれる顔。声。瞳。

「ついて来いよ、おっさん」

本当は、そうでなければ良いと思っている。

たった一人、こんな泥に汚れた世界にいるなんてたまらない。

何故、自分ばかりが救われないのか。

そんな浅ましい思いがずっと底の方から聞こえてくる。

耳をふさいでもふさいでも。

声は体に絡み付いて離れない。

「えーと、何かあるのかな?」

戸惑いながらも素直についてくる男に笑いが込み上げる。

本当に危機感がない。

グルグル考えながら、ラディは寝床へ向かって大股で歩く。

積み上がったごみの山が見えてきて、喉が上下する。

あそこに着いたら、全てが変わる。

「ひやあ、凄いね。おじさんは大変だ」

言うとおり息が上がっている。

額から滝の様な汗が流れ落ちている。

情けない、と横目で見ながら近づいて来た自分の家に違和感を感じた。

何かがおかしい。

「どうしたの?」

ラディの隣りにまでやって来た男が不思議そうに立つ。

二人の視線の先には、荒らされ崩されたがらくたの数々。

土砂崩れでも起こったかのように流れている。

広がる光景の意味を悟った時、ラディは言葉にならない悲鳴を上げて駆け出した。

何が起こった。

土ぼこりが上がっている。

何があった。

ドーリアッ。

転がり落ちるように走って、着いた先。

「……ドーリアッ!!」

ラディが見たのは、潰れた家。

転がっているのは、ドーリアが使っていた小物入れだ。

歯のかけた櫛を拾い上げ、歯を食いしばって耐えた。

「ドーリア!何処に居る!」

逃げているはずだ。

逃げていて欲しい。

最近、この辺りの治安は悪くなる一方だ。

面白半分で、がらくたの家を壊すくらいは平気でやる連中がゴロゴロしている。

そんな輩にドーリアが見つかったら…。

上がる息を懸命に抑えて、辺りを探す。

だが、見つけたい人影は何処にも見つからない。

嫌な予感ばかりが先立って、前すら見えなくなりそうだ。

「……ドーリアッッ!!」

身体中で叫んで、瓦礫の影に動く影を見つけた。

思うより早く体が動いた。

長い髪が毛羽立った枯れ枝のように辺りに散っている。

抱き上げた身体は、今までになく冷たく、そしていつも纏っていた衣服はズタズタにされていた。

「……っ!」

何があったか明らかだった。

震える手で、自分の着ていた服を脱いで半裸の体に着せ掛ける。

「ドーリア、ごめん。ごめん……」

謝りながらボロボロに傷ついた少女の体が霞む。

こぼれ落ちる涙が、乾ききった肌に落ち流れる。

「ラディ……だぁ」

か細く掠れる、そして心から嬉しそうな声。

「ごめ、うち、壊れちゃ……た」

「……馬鹿、また作れば良い。どうせ、そこら辺ので出来てるんだから」

「そ、か。じゃ、もっと、おおきな……のが、いいな」

必死で笑おうとして、でも目の前の笑顔を見てしまうと涙が止まらなくなった。

「ドーリア……」

何も言えない。

もう何も言ってあげられない。

「あぁ、良かった。いきなり走っていくからどうしたのかと……、怪我をしたのかい!はやくお医者さまに!」

慌てて走っていこうとする男を叫んで呼び止めた。

今にも息を止めてしまいそうなドーリアを抱き上げて男に抱くように言う。

戸惑いながら男は、驚く程軽い少女を抱き取る。

「……あんたのドーラだ」

涙混じりの声に柔和な表情を崩さなかった男が凍りついた。

「ドーラ?」

もうほとんど焦点のあっていない目でドーリアが自分を抱く人間を見上げる。

「可愛い私の、ドーラ。私の大事な宝物……」

涙に揺れる声にドーリアの手が上がる。

「おと……さ、ま」

ふっくらとした手が、己の半分もない小さく痩せた、赤い痣のある手を握り締めた。

ラディは、そっとその場を離れた。

振り返ることも、その場に留まる事も出来なかった。



「ありがとう」

しばらくして、一人瓦礫の前に立っていたラディの後ろに男が立った。

声だけ聞いても泣きぬれていたことがわかる、かすれた声だった。

「もう良いのか?」

浮いた涙を拭ってラディが振り返ると、男は赤くなった目じりを和らげてラディを見つめる。

その優しい眼差しが、ひどく気に障った。

「本当にありがとう。あの子に会えるとは思わなかった」

「……死んじまったじゃねえか!」

物柔らかな感謝の言葉をラディは語気強く跳ね除けた。

「あんたのドーラは死んだじゃねえか。俺が、俺といたから……。あんな、酷いこと……っ」

本当ならもっと早くに会えた筈なんだ。

元気に笑っていたドーリアに会えた筈なんだ。

俺が、気付かずにいたあの時間がドーリアの最後の時間だったのに。

悔やむラディの手をそっと優しい温もりが包んだ。

「君といたから、ドーラは優しい女の子になった。最期でも、私はあの子に会うことが出来ました。心から感謝してます」

「でもっ、俺はドーリアが憎かった……。勝手に、幸せなところに行こうとするドーリアが羨ましかった」

あの一瞬、彼女の死すら望んだかもしれない自分。

流れる涙は、悔恨と懺悔。

誰よりも彼女を守りたいと思っていたはずなのに。

「良いんですよ。あの子を君から取り上げようとしてしまってすみません」

本当に申し訳なさそうに言う男に、クッと笑いがもれた。

「あんた、本当に甘いな」

「すみません。甘いついでに、私と一緒に来ませんか?」

「は?」

「私の子どもに、あの子のお兄さんになってくれませんか?」

本気でラディは耳を疑った。

「何、言ってんのおっさん?」

律儀に子どもに向かって謝る大人は、それでも嘘偽りのない眼差しで塵の道に立つ少年を見つめる。

「ドーラは幸せだった。君が幸せにしてくれたお陰だ。なら、今度は私が君を娘の代わりに幸せにしてあげたい」

差し出されたのは、優しさと穏やかさと、愛情。

欲しいと願い、そして与えたいと祈っていた物。

「私とドーラの家族になってくれませんか?」

再度の言葉に、ラディは泣きながら震える手を差し伸べた。

「ドーリアは……一緒につれてくのか?」

「もちろん。遅くなったけど、一緒にお家に帰りましょう」

握られた手が嬉しく、そして申し訳なかった。

本当ならドーリアの居るべき場所だったのに。

貧民街を通り抜け、薄汚れた町並みを見下ろせる場所に立ちラディはぐっと足を踏み締めて振り返った。

「……名前、」

「はい?」

「あんたの子どもになるんだろ。子どもは親から一番初めに名前を貰うんだ。だから、何か俺に名前くれよ」

男は、否父親はその言葉に驚きを浮かべ、そして優しい声で新しい名前を付けてくれた。

そうして、ラディは大切な仲間を喪って、家族を得た。

歩き始めた彼は二度と振り返ることはなかった。




「それでは、行って参ります。父上」

「公爵様のお屋敷は、色々大変だが頑張りなさい」

春の風が、花の眠りを覚ます季節。

有り触れた一軒の家は、新たな門出を迎えていた。

「はい。父上もあまり無理はしないように」

「大丈夫だよ。それにしても、あの子どもがここまで立派になって、こんなにも嬉しいことはない」

感無量の涙を浮かべる父親に、褐色の髪を一つに纏めた背の高い青年は苦笑を浮かべる。

「こうして働きに出られるのも、礼儀作法や言葉使いを教えてくれたおかげですよ」

「いや、君が頑張ったからだ。本当に君が息子で幸せだ。あの子も喜んでいるよ」

「……休みには、戻ります。二人で会いに行きましょう」

「あぁ。それじゃ、頑張りなさい。大丈夫、君ならうまくやれるよ」

「はい」

懐かしさと今も胸を締め付ける苦しさに目を細めて、青年は家を出る。

新たな一歩を踏み出した息子の背に父はまた言葉を贈る。

「君は君のままで大丈夫。頑張りなさい、ライドール」

「……行って来ます」

父の温かく力強い言葉を胸に抱いて、ライドールは光の中を歩き出した。



ひっそりと閉じた目蓋に口付けを。

二度とは見開かれぬ瞳に懺悔を。


ドーリア、君の全てを受け継いで俺は此処にいる。

光知らぬあの頃の俺たちの代わりに。

今、私は此処にいる。


私は、此処に居る。




fin




本編である意味、公爵様以上に活躍していた彼の過去話です。

サイトの物をちょこっと加筆修正してます。


ちなみに、この約10年後が「名もなき花」になります。


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