29* 受粉
“愛”と言う言葉の意味はわからない。
いつも誰かが口にするのを不思議な気分で見ていた。
どんな想いがそこにはあるのだろう。
熱に浮かされたようなものだろうか。
深く包み込むようなものだろうか。
“愛”はどんな色をしているのだろうか。
“愛”はどんな形をしているのだろうか。
抱きすくめられた腕の強さに、まず驚いた。
薄い皮膚が骨に当って痛いくらいの強さ。
けれど、その痛みは辛さではなく安心をもたらしてくれる。
ずっと溜まっていた苦しさが解けていく。
不思議。
どうしてこんなに安心出来るのだろう。
耳元で響く心臓の音がとても懐かしい。
記憶など何も残っていないのに。
少しだけ駆け足の鼓動は、ミルレイアの心の音にそっと寄り添ってくれる。
やっぱりデイルの傍はあったかい。
空気に色鮮やかな花が咲いていくようだ。
「すみません」
ほとんど陶然とした気分で目を閉じていた所で、身体を離されてぱちっと瞬いた。
デイルは顔を赤くしながらも、どこか苦い顔つきでいた。
いまさら愛している、など言っても重荷にしかならないのに。
嬉しさに突き進んでしまった自分を叱咤する。
悔やむデイルの前で、ミルレイアはほのかに熱を引き摺る顔を傾けた。
「愛ってなんですか?」
「……ミルレイア殿?」
唐突な疑問にデイルの方が驚いた。
素っ頓狂な声で名を呼んでしまう。
変なことを聞いてしまっただろうかとミルレイアの顔が一瞬で曇る。
それに大慌てで取り成す。
「すみません!いえ、ちょっと驚いただけです。あの…」
「……ごめんなさい。わからないんです。愛しているって意味が、よくわからなくて」
ハクランが何度も口にしていた言葉。
父からも贈られた言葉。
けれど、それが一体どんな意味を表すのかわからない。
デイルもたくさんの気持ちと一緒にくれたけれど。
ミルレイアには、うまく伝わらない。
「愛の意味ですか」
泉の前で、やけに哲学的な問答に腕を組んだ。
デイル自身、そう改めて問われると明確な答えは持たない。
恐らく生きている人間の中でも、この問いに答えられる者など一握りだろう。
困ったような、ほんの少しだけ怯えるような表情を浮かべる人を見て、そっと手を伸ばした。
抱きしめるのではなく、膝の上に置かれた手を取るために。
「恐らく、たくさんの意味が込められた言葉です」
「たくさん、ですか?」
「ええ、口にする人の数だけ意味を持っているでしょう」
考えながら話す。
少しでも伝わるように。
「私の言った愛の意味は、最も身勝手なものかもしれません」
その人の全てを捕らえてしまいたいと願う言葉だ。
優しく甘い言葉に彩られただけ、強い欲望を内包する物。
包み込んだ小さな手にそっと口付けを落とす。
「この手を握るだけで、途方もない幸せだと思いながら、それだけでは我慢ならない自分もいる。貴方を此処に縛り付けてしまいたいと請うてさえいる。身勝手で、愚かな願いです」
「……一緒にいたいってことですか?」
おずおずと聞き返すミルレイアの言葉の優しさに苦笑する。
「そうですね。それもあります」
実際はもっとドロドロとした感情だけれど。
「包み込み守るだけの愛もあります。優しさを与える愛も。けれど、私にはそれほど高尚な想いを捧げる事は出来ません」
全てが欲しいと願ってしまう。
心も身体も。未来への約束も。
贅沢な願いを全て、たった一言にこめればデイルの持つ愛になる。
「貴方を愛しています」
三度の言葉は、ミルレイアの心に波紋を広げた。
ざわつく心の中心に何かが芽吹く。
それが何なのか確かめようとした時、強く風が巻き上がった。
咄嗟にデイルがミルレイアを庇うように抱きしめる。
「……凪!」
強い声にミルレイアが顔を上げる。
そこにはハクランを従えた旋が、複雑な表情で空に立っていた。
「おとうさん」
振り切って行ってしまった事がミルレイアにすまなそうな表情を浮かばせた。
それでも後悔は感じていなかった。
旋は、そんな我が子を見つめて何ともいえない顔で大地に降り立つ。
「凪、おいで」
差し出されたのは手。
強制する言葉ではない。
叱り付ける声でもない。
ただ、請うような、願うような響きを含んでいた。
父親の迎え入れる言葉に、ミルレイアはわずかに迷って首を振った。
ふるふると揺れた髪は、空気をはらんでまるで手布のように横になびく。
「だめ。ごめんなさい…」
駄目だと繰り返される言葉を旋は苦い顔で受け止めた。
飛び出していった背中を見た時に、いくらか悟ってはいたが事実になるとやはり辛いものがある。
「その人間と居ても幸せになどなれまいよ。一度ならず信頼を損なった人間だ」
噛み含めるように言い聞かせる。
「おぼえていないから」
迷いない声に、旋と身動きできずにいたデイルが息を飲んだ。
「昔のことは、よくわからないけど。それでも、デイルさまといっしょにいたいです」
何か大変な事があったのかもしれない。
けれど、今の自分はデイルの傍にいたいから。
それが偽りようのない本当のこと。
胸元で交差する腕の強さが嬉しい。
背中に感じる温もりが優しい。
それだけで十分だから。
「いっしょに、いたいです」
「私と離れてもか?」
「……っ、はい」
突きつけられた冷たい言葉に、それでも頷いた。
その返事にデイルの方が慌てる。
「ミルレイア殿!」
「いいです。おとうさんとは、また会えるから。今はデイルさまといたいです」
繊細可憐な声は、はっきりとした意思によって紡がれる。
嬉しいやら戸惑うやらでデイルの顔は赤い。
対して旋は覆いかぶさるような重いため息を吐いた。
「だから、嫌だったのだ」
『仕方ないのではありませんか』
慰めるような精霊の声に、恨めしげな視線が返される。
「十五年ぶりに、生まれてようやく会えた我が子をたかが人間の手に奪われるのだぞ!」
『アリゼイラ様もそのたかが人間です。それに…』
ハクランは真剣な眼差しを向けてくる愛し子を喜びと共に見つめる。
『あの子が望んだ相手です。少々の器量不足には目を瞑りましょう』
ミルレイアが初めて自らの意思で選んだのだ。
尊重すべきだろう。
真っ当な答えだ。親である旋が納得するには時間がかかるだろうが。
「凪、その人間でなければならぬのか?」
確認の言葉にもはっきりとミルレイアは頷いた。
「その人間が、お前の母を奪ったとしてもか?」
ミルレイアの瞳が驚きに見開かれた。
ぐっと力が込められたデイルの拳に、それが全くの嘘でないことを知る。
だが、答えは変わらない。
「デイルさまのそばにいたいです」
傍らにいないと苦しくて、悲しくて、辛いから。
近くに居るとそれだけで、嬉しくて、楽しくて、幸せだから。
あぁ、もしかしたらこれがそうなのかもしれない。
心の中に芽吹いたもの。
もしくは、小さく実をなしたもの。
「デイルさまを、愛しています」
最後通牒に旋は、ため息と共に降参するしかなかった。
「ミルレイア殿?」
震える声はデイルだ。
背中から抱きしめてくる腕に頬を寄せて、ミルレイアはもう一度デイルのためだけに呟く。
「愛しています」
デイルから贈られたのは、痛いくらいの抱擁と温かな涙だった。
やがて日々は日常を取り戻し、ベラール公爵は新たな花嫁を正式な妻として迎え入れた。
その花嫁は、名もなき家の娘だと言う事で一時期は噂にもなったが、花嫁が披露されると誰もが納得した。
美しい月光の様な金の髪に、晴れ渡った空のような蒼の瞳。
若き公爵は天上の者を伴侶としたのだ。
美しき花嫁の名は、ミルレイア・ナギ・ベラール。
堂々たる体躯の公爵の傍らに控える花嫁の美しさは、高らかに謳われた。




