28* 果て
「凪……?」
デイルが去って小さな家はとても静かになった。
先程から、物音一つしない子ども部屋の扉を開く。
華奢な子どもは、寝台の隣りでぺたんと座り込んでいた。
白い光が差し込む窓を見上げながら。
旋の立つ戸口からは小さな背が見えるだけで、どんな表情を浮かべているかはわからない。
風に月金色の髪がたゆたう。
キラキラと輝くのは何だろうか。
気分でも悪いのかと近づこうとして、旋の足は絡め取られたように動かなくなった。
「……くるしい、です」
空を仰ぐ白い額に、悲し気な皺がよっている。
呼吸が上手くいかないかのように、細い指が喉に沿わされる。
真っ直ぐに伸びた手はそのまま熱い吐息が残る耳を覆った。
まだ、あの囁きが残っている。
強く力を入れられた目蓋からぽろぽろと落ちるのは透明な雫。
「凪」
涙は薄麻の布に染み入っていく。
苦しい、と訴えてから何も話せないでいる子どもの傍らに膝を付く。
「何が苦しい?」
判らないと頭を振るミルレイアの喉がなる。
見上げる瞳は自分の感情を正確にあらわす言葉を探しているようだ。
蒼が薄くなり、また次第に色味を増していく。
不思議な揺らめきを薄い皮膚の下に隠してしまう。
薄い、けれど確かな温もりのある胸に抱きしめられながらミルレイアは震える唇を開いた。
「ん……。わ、からない。でも、くるしいです」
わからない。
どうしてだろう。
あの人が行ってしまってから、とても苦しくて、とても痛くて。
「凪、ミルレイア……、あの人間のせいか?」
幾らかの腹立たしさが込められた声。
けれど、それは揺らぐ己を律しようとする声でもある。
デイルがもたらした伝言は、確実に旋の何かを動かした。
認めたくない事実を脇に置きながら、当惑しているミルレイアの頭を掻き抱く。
その目から涙が止まる事はない。
「ちが……」
否定しようとして、否定出来ずにミルレイアは俯いた。
この苦しいのは、あの人がいなくなってから。
最後の囁きが消えないから。
―愛してる―
あの言葉の意味は何だろう。
判らないことが多すぎて、この苦しさは不安なのだろうか。
それすらミルレイアには把握出来ない。
「……会いたいです」
涙を振り切ってミルレイアは、父の腕から顔を上げた。
わからない。
だから、辛いのか。
だから、苦しいのか。
知りたいと思った。
このままだと沢山の物が駄目になってしまいそうな気がする。
根拠などない焦燥は瞬く間に身体を焼いていく。
「凪!」
慌てる旋の腕を振り解いてミルレイアは駆けて行った。
自分が何をしようとしているかなんて、きっと自分が一番わかっていない。
このまま優しい家に、温かい父の腕にいれたならきっと、綺麗な自分のままで居られるのかも知れない。
そうだとしても。
何もわからないのは怖い。
あの人が誰かわからないのは辛い。
滑らかな木の床を蹴って、小窓のついた扉を開けはなつ。
空は青い。
風は流れている。
草地はまるで高価な毛氈のようだ。
世界は、とても美しい。
ミルレイアは、陽だまりのような思い出から飛び出した。
半球の木立の屋根を足早に通り抜けながらデイルは、やるせない想いを抱えながら髪をかき混ぜる。
感情を持て余した時の癖だが、もう何処の山の民かと思うほどぐしゃぐしゃになっていた。
あの家を後にしてから、伝えたい事が溢れるように出てきて尽きないのだ。
まだまだ言いたい事はあったのに、結局言えた事など高が知れている。
蓄えた語彙など何の意味もなさない。
どれも口にした途端に、真実を霞ませていくばかりだ。
「情けないにも程があるな」
精一杯の自嘲を無理やり浮かべて、自ら作りだした小道を行く。
この一歩が進むだけ、ミルレイアから離れていく。
もう背を向けたはずなのに、心は振り向くばかりだ。
きっと自分はこの後悔を一生引き摺るのだろうな。
厭世的な気分で考えて、今度は本心からの自嘲が漏れた。
ベルリード辺りから辛気臭いと怒られそうだ。
「あぁ、ライドールたちには何と説明したものかな」
彼らは本当に心からリゼイラを、ミルレイアを愛してくれていた。
出来るなら彼らには、神界に帰る前に会ってもらいたい。
また、神殿に出向いて神殿長の精霊に伝言を頼もうか。
つらつらと今後の事へ思考を走らせる。
消えない痛みからは必死に意識をそらせる。
悲しみに浸るのは雑務を終えてからでも良い筈だ。
言い聞かせる言葉がなければ、今すぐにでも振り返ってあの家へと走ってしまいそうになる。
丈の高い草に手を掛けて、ふと何かが聞こえたような気がして足を止めた。
何だろうか。
名前を呼ばれたような気がしたのだが。
振り返っても、人影など勿論ない。
とうとう頭まで狂ってきたのか。
筆頭公爵が恋狂いとは格好が付かないことだ。
いっそ適当に跡目を譲って隠居でもするか。
何もかも捨てて静かに余生を過ごすのも中々魅力的だ。
あり得ない未来だからこそ想像は何処までも広がる。
何処かの山の中に小さな屋敷を構えて、隠者のように本に囲まれた生活。
庭では根菜や青菜などの野菜を作るのも良いだろう。
時には狩などもして、悠々自適な生活。
なんと素晴らしい事だろうか。
デイルの目にはもう綺麗に剪定された庭木が見えている。
現実はもうすぐそこだ。
あそこに戻れば、公爵としてまた第一線に出なければならない。
安らぎなど欠片も存在しない世界に戻るのだ。
自然とデイルの顔が硬く厳しい物へと変じる。
そこに揺らぎ悲しんでいた青年の顔は存在しない。
ほとんど虚勢であったとしても弱った顔は見せられないのだ。
木立を掻き分けるように手を伸ばし、足を持ち上げた。
その時。
「デイルさま!」
夢の薄布がふわりとデイルを包み込んだ。
自分でも驚く程の速さで振り返って、信じられない思いでその人を見た。
「ミルレイア殿」
丈高い草に囲まれるように駆けて来たのは金色の美しい人。
先程、全てを手放してしまった人のはずだ。
「まって、まってください」
息も切れ切れに、進路塞ぐ草を手繰り分けてミルレイアはデイルの前に倒れこむようにしてたどり着いた。
情けない事に、そこまで来てもデイルはこれが現実なのか判別がつかなかった。
本気で幻が見えるほどに狂ったのかと途方にくれる。
だが、ミルレイアの手が自分の腕を掴む強さに嫌でも現実だと教えられた。
「だ、大丈夫ですか?」
歩きなれていない足は、慣らされていない獣道を通ったせいでボロボロだ。
小さな爪や踵は土に汚れて、所々から血が滲んでいる。
デイルは慌ててしゃがみ込むと自分の衣服を裂いて足に巻きつけた。
「無茶なことを」
白い夜着もすっかり汚れてしまっている。
このままでは不味いとミルレイアを抱き上げて開けた庭に出る。
生垣に薄紅の大輪の花が色を添えていた。
此処からならば、あの泉が近い。
足の汚れを落とさねばならないと真っ直ぐそこへ向かった。
泉は、幾分の変わりもなく滾々と湧き出ている。
水辺にミルレイアを下ろすと、簡易に巻きつけた布を解いて水で傷口を洗う。
「沁みるでしょうが、我慢してください」
デイルの言葉に、ぎゅっと目が閉じられる。
子どもっぽい我慢の仕方に、今までのことも忘れて笑みが漏れる。
丁寧に、丁寧に土を落として新たに裂いた布で足を覆った。
「これで良いでしょう。あまり手当てなどはした事がないのですが」
貴族であるデイルが戦場に出る事は稀だ。
嗜みとして剣を習いはするが応急処置などは下位の者に任せるのが一般的である。
そうは言っても腕白だった子どもの頃に簡単な怪我の手当てくらいは自然と身に着けている。
一通りの事が終わると、途端に静寂が重く伸し掛かってきた。
あのままミルレイアとは会う事もなく別れるはずだった。
それなのに、今その人は目の前に居る。
いつかの様な月にではなく太陽の光に包まれて。
現実味の薄い光景に、思わずぼんやりとしてしまった。
「ミルレイア殿、何か私にご用でもありましたか?」
らしくない自分を押し隠して、話のきっかけを作る。
同じようにぼんやりしていたミルレイアもその言葉にハッとしたように瞬いた。
蒼空色の瞳が真っ直ぐにデイルを見つめる。
リゼイラと呼ばれていた幼い少女と泉の方の姿が溶け合った姿。
そう思ってしまうが、どちらがどうだと言う問題でもない。
今目の前にいる人が、自分が愛した、そしてこれからも愛し続ける人。
自然、デイルの目には切なさが溜まる。
「会いたかったんです」
見詰め合った瞳の間から声が生れ落ちる。
聞き間違いかと瞬いたのはデイル。
素直に自分の言葉を吐き出したのはミルレイア。
「デイルさまがいないとくるしいです、痛いです」
胸を押さえて吐露される心情。
偽らない気持ちは何よりも強くデイルを揺さぶった。
「ミルレイア、殿……?」
不幸のどん底に居たはずの自分に与えられた言葉。
夢だろうか。
本当に何か良くない物に囚われたのではあるまいか。
衝撃で息も出来ないで居るデイルに、ミルレイアは必死に言い募った。
「もっといっしょにいたいです」
デイルはその言葉が終わるか終わらないかで、華奢な身体を強く抱きしめた。
もう騙されていようが、何だろうが構わない。
今のこの瞬間のために生きてきたのだと言い切ってしまいたい。
初めて触れた身体は、温かかった。
頼りなくすらある肉体は脆弱でありながら何処までも優しかった。
「リゼイラであった貴方に償い続けたいと思っていました」
抱きすくめた体勢のままで低くつぶやく。
「ミルレイアである貴方の幸せを願っていました」
赤くなった頬を上向けてミルレイアはデイルの顔を見つめる。
「凪である貴方にこれからの幸運を祈りました」
自分に関する記憶を全て失った人に何もできることはないと思っていた。
ただ、自分と言う存在ごと忌まわしい出来事を封じてしまうしかないのだと考えた。
それがミルレイアの幸せだと言い聞かせて。
けれど、そんな想いを越えてミルレイアはその足で駆けてきてくれた。
自分の背を追いかけてくれた。
どれ程幸せなことか。
込み上げる想いはデイルの目元をぬらした。
そっとデイルの後頭部に軽い感触がもたらされる。
「貴方を愛しています」
二度目の言葉は、ミルレイアに何をもたらしただろうか。




