27* 告白
ねぇ、デイル。お願いね。あの子をお願いね。
守ってあげて。
約束よ。
あと、もう一つだけ。
私の旦那様に。
伝えてくれるかしら。
ミルレイアは困っていた。
目を覚ましたら見知らぬ男の人が枕元に跪いていた。
それだけで驚いてしまって、傍にいた父の後ろに隠れてしまったのだが。
頼れる父の背中に寄り添いながら自分に会いに来たと言う青年を見つめる。
繊麗な父親とは違った感じの人だ。
大きくて揺らぎない大樹のような人。
どこか懐かしく感じるのは何故だろう。
初めて会った人なのに。
嫌な気持ちにさせないように気遣いながら青年を見つめる。
おずおずと眺めているとデイルと視線がかち合って、慌てて俯いて視線を外す。
びっくりした。
驚きを素直に表す鼓動に、白い簡素な衣を握り締めた。
悲しい目をしていた。
一瞬だけだったが、全てを諦めてしまったような静かな色を湛えた瞳にミルレイアは囚われた。
どうしてそんな悲しそうにしているのだろう。
「言いたい事があるのだろう」
告げるべきことがあると言いながら黙ったままのデイルに旋が呆れたように促す。
言いたい事?
首を傾げたミルレイアの肩から金糸の髪がさらりと流れ落ちる。
何だろう。
ふっとか細い風が流れてデイルが立ち上がる。
立ってみると本当に大きな人。
旋よりもずっと大きかった。
この人にはどんな世界が見えているのだろう。
驚きから派生した恐怖が静まると興味が湧いてくる。
緊張が少し解けて父の背中から一歩踏み出した。
精一杯の勇気にデイルの目が、安堵したように優しい光を浮かべる。
それでも苦痛の色は隠せない。
傷ついた森の動物の様な目。
踏み出す一歩に躊躇いはない。
「悲しいですか?」
「……いいえ」
驚いたように見開かれた目は、すぐに取り繕うように瞬かれた。
慰めてあげたいとごく自然に思う。
けれど、悲しそうだと思った瞳はきれいに隠されてしまった。
代わりに懐かしいような微笑みが返される。
「すみません、少し取り乱してしまって」
そっと引かれた身体に、何か大きな隔たりを感じてしまう。
どうしてだろう。
初めて会った人にそんな感情を抱くなんておかしい事なのに。
「初めまして、ミルレイア殿」
「は、はじめまして……」
膝を屈めての挨拶は、貴婦人に対して行われる丁重なものだった。
近くなった瞳の優しさにミルレイアの胸は高なる。
わからない。
どうして、こんなに反応してしまうのか。
「私の名はデイルと言います」
「デイル、さま?」
「ええ。貴方にお会いしたくて、お邪魔させていただきました」
「わたしに、ですか?」
戸惑ってさまよった手がぎゅっと握り締められる。
デイルは屈んだ姿勢から、ミルレイアが俯いた視線の先に居れるように膝を付く。
まるで忠誠を誓う騎士のような格好。
「きっと何を言っているのか、判らないかと思いますが。お付き合いくださいますか?」
見上げられて頼まれると断れない。
小刻みに頷くとホッとしたように硬い表情が柔らかくなった。
とくんっと身体があったかくなる。
不思議な人。
どうしてこんなにも揺り動かされてしまうのだろう。
すんなりとした口元に目を吸い寄せられる。
いったいどんな事を話すのだろう。
疑問と戸惑いを胸に、ミルレイアは小さく息を吸い込んだ。
何から話すべきだろうか。
そして、何を話さないべきか。
混乱からどうにか抜け出して、デイルは頭を回転させる。
言わなくても良いことが多すぎる。
言い換えてみれば、それだけしか与えられなかったのだ。
「デイルさま?」
気遣うような声音に、デイルはハッとする。
あぁ、また助けられている。
いつだってミルレイアは優しくて、強いのだ。
誰にだって、その優しい手を差し伸べられるだけの強さを持っている。
些細なことに囚われて真実を見失うような自分とは大違いだ。
だから、今度こそ間違いたくない。
今のミルレイアが幸せだと言うのなら、それを壊すようなことだけはしたくはない。
「すみません。貴方にはあまりに謝らなくてはならない事が多くて」
「あやまる、ですか?」
不思議そうな声はただの疑問だけで彩られている。
何も知らないでいられるなら、あんな苦しみを忘れてしまえたなら。
きっとそれは救いとなるだろう。
これからの道筋は明るく幸いに守られたものになるだろう。
頭は嫌になるくらい理解している。
けれど、心は捩れるように痛みを訴えている。
情けない事だ。
こんな顔は見せられたものではない。
「私は多くの過ちをずっと見過ごしてきてしまいました」
過ち。罪。見過ごしてはならない多くの物。
透き通る無垢な瞳を悲しみで曇らせてきたのは、自分の罪悪だ。
そして、大切な宝物だった思い出を赤く穢したのは自分の両親だ。
「貴方の幸せを崩してしまいました。償いようもない罪です」
声が詰まって、ハッと息を吐く。
泣くわけにはいかない。
涙は悲しみを、苦しみを磨耗させてしまう。
楽になるわけにはいかない。
揺らぐデイルの目に何を見つけたのか、ミルレイアの小さな手が伸ばされる。
いつかのように。
救いを与える手に迷いはない。
だが、今回は縋るわけにはいかないのだ。
優しい温もりをそっと手で止める。
火にでも触れたようにミルレイアの手が跳ねた。
すぐに困ったように手を引っ込めた子どもにデイルはほのかな表情を浮かべる。
「償えるなど思いません。けれど、これだけは伝えたいのです」
黄金の花芯のような睫毛がふわっと瞬く。
筆頭公爵として国王である人以外に下げた事のない頭を床に擦れるまでに落とす。
滑らかな丘陵を描く白い足の甲に額づく。
「申し訳ありません」
これだけの言葉しか言えない。
たかが数文字の言葉しか返せないのだ。
一体、何をして来たのだろうか。
「デイルさま!」
慌てたように肩に手が置かれる。
「あの、あやまらなくていいです」
訳が判らないのだろう。
混乱が鮮やかに浮き立つ瞳を見上げる。
感情が素直に現れる瞳は、幼いあの子と何も変わっていない。
下げた頭を持ち上げ、デイルは泣き笑いのような複雑な顔を手で覆った。
「今、貴方は幸せですか?」
目元が隠されてミルレイアには、青年の口元しか見えない。
「はい。おとうさんもいるから」
躊躇いのない言葉に、旋が満足そうな笑みを浮かべる。
デイルも顔を隠していた手を退けて、真っ直ぐにミルレイアを見つめた。
「今から言うのは、遠い人への手向けです。よろしければ、代わりに聞いていただけますか?」
「とおい人?」
囁くような反復する声に微笑んで頷いた。
「大切な人です。もう手の届かない、人です」
切ない声音にミルレイアはドキリとする。
何故か、その言葉を聞いた途端、胸がぎゅうっと握り締められたように痛んだ。
自分の気持ちに戸惑って視線を泳がせると、大きな手のひらがそっと被さって視界を塞ぐ。
「このままで、聞いてもらえますか」
布一枚ほどの隙間で留まった手に、おずおずと頷いた。
デイルの安堵したような感謝の言葉を聞いた。
視覚が閉ざされた分だけ声に含まれる多くの気持ちが明確に伝わってくるようだ。
ふっと気持ちを落ち着けるような吐息までハッキリと聞こえる。
「リゼイラ殿、すみません。貴方を不当に貶めてしまった」
震える言葉。
滲むのは後悔。
「泉で出会った時に気付かなければならなかったのに」
泣いているのだろうか。
震える声にそう思ったが、声音は柔らかで郷愁が混じっているような気もする。
また一つ息がこぼれた。
温もりが近づいて来るのを感じて小さな身体に緊張が走る。
首から肩にかけての素肌にさらりとした糸の様な物が触れる。
少し冷たい感触。
「……愛しています」
囁かれた息は、熱かった。
「もう良いのか?」
未練もなく立ち上がった公爵に旋が少々意外そうな顔をした。
もっと醜く足掻くものだと思っていたのだが、潔い姿に爪の皮一枚分くらいは見直す。
潔さは行動を美しくさせる。
「えぇ、十分です」
言いながら、そこに含まれる感情は決して満ち足りてなど居ない。
何を言われたのか、ぼんやりと目を見開いている我が子を見つめ旋は長い髪を掻き揚げる。
「……貴方にも伝言があるのですが」
「伝言?」
この人間に伝えられるような覚えはない。
「アリゼイラ殿からです」
ハッキリした言葉に旋の目がデイルに向いた。
その目は、下手なことを言ったら何をするか判らないと告げている。
「昔、ミルレイアを頼まれた時に貴方への言葉も頼まれたんです」
もう会えないかもしれないから。
そんな悲しい予言と共に。
ミルレイアの部屋から出るように旋は促す。
最後に振り返るデイルの背を見ることはしなかった。
居間は温かな日の光に満ちていた。
アリゼイラがいつも楽しそうに座っていたゆり椅子に旋はそっと触れる。
この目で見たかった光景。
情報の中のアリゼイラは、いつも微笑んではいたが自分に向けられるものはない。
編み物をしながら、凪をその手に抱きながら、アリゼイラは楽しそうだった。
時々、遠い目をしていたのは自惚れても良いだろうか。
「それで、伝言とは?」
毛織のひざ掛けを掬い上げて頬を寄せる。
妙に艶っぽく見える動作にもデイルはそれどころではないのだろう。
過去を見つめ直すようにぼんやりとしている。
「旦那様に」
懐かしい呼び名に旋の目が眇められる。
アリゼイラのハキハキとした声が、そう呼ぶ時だけ甘くなるのが好きだった。
「旦那様に、伝えて欲しいと言われました」
微笑みながら形作った言葉を正確に復唱する。
「私は、貴方だけの花嫁です」
―生きる時がどれだけ違っても、この先愛するのはただ一人だけだから―
―私は、旦那様だけの花嫁なのよ―




