26* 小道
記憶の中の日々が、損なわれずにいたら。
きっとこんな後悔はしなかった。
いつだって人間は悔やんで生きていく。
それが、取り返しようもない事だとしても。
悔やみながら生き続けるのだろうか。
かさり、踏み締めた足元で青草が小さな抵抗を見せて揺れている。
雑草が首を傾ける道なき道を掻き分けながら、デイルは照りつける太陽を振り仰いだ。
白い太陽が鮮やかな青空に浮き上がるように輝いている。
浮かんだ汗を手の甲で拭って、一つ息を吐く。
まるで真夏の様な暑さに辟易していると、ふわりと爽やかな風がひとひら首筋を撫でた。
それだけで、救われる様な心地がする。
もう一息だと己に言い聞かせて、先を目指そうとして足を止める。
その足元に、小さく揺れる小花が一輪。
踏んでしまわぬように気をつけて、新たな一歩を踏み出した。
広がった光景にデイルは思わず息を飲んだ。
少年の頃に何度も見た光景が、寸分違わずに広がっていた。
まるで思い出の中に迷い込んでしまったようだ。
踏み込んでしまっても良いのだろうか。
自分と言う現実が入り込んだ瞬間に全てが消えていってしまいそうな気がする。
恐る恐る暗い繁みから木漏れ日のあたたかな庭へと全身をさらした。
全てを抱きしめてしまう優しさに満ちた風景は、デイルを懐かしい少年時代へと誘う。
そうだ。
どうして忘れていたのだろう。
この光景だった。
円蓋のような木立の道を走り抜けて行っていた。
もっと目線は低く、今よりずっと広く感じていたけれど。
風華の花々に紛れて、韮や薄荷の緑が無造作にあるのも懐かしい。
―あら、可愛らしい騎士様ね。お姫さまを探しに来たのかしら―
クスクス笑うアリゼイラの声がそよぐ梢の中から聞こえてくる。
記憶の中の自分は、袖の短い白衣に刺繍の施された贅沢な上着を羽織って、立ち止まっている。
柔らかくなめされた短革靴が、今の堅く磨かれた革靴に重なって溶け合った。
さわり、風が歓迎するように葉を揺らす。
思い出の光景はどこまでも揺ぎ無い母親のように、デイルを受け入れて包み込む。
排除される事も覚悟の上だったデイルは、穏健な風景に逆に戸惑ってしまう。
天上から差し込む透明な日の光。
金色の輝きをまとって佇むのは緑の蔦に飾られた煉瓦作りの小さな家。
幸せの象徴の様な家。
遠くに見つめて、湧き上がる思いを押し込めるように息を飲んだ。
そこが全ての決着の場所。
デイルは歩き出した。
褪赤色の扉に色硝子の小窓がついている。
アリゼイラが気に入っていた小鳥の形をした小窓。
そんな些細なところまで完全に再現されている。
そっと黄色の硝子を撫でて、扉に手を掛けた。
部屋の中も、外観と変わりなくひとつの違いも見つけられなかった。
変わらない風景は、なおさら足りない人の影を思い起こさせる。
それだけが物悲しい。
小花模様の射光布が掛けられた出窓。
日差しのあたるその場所に、籐で編まれた揺り椅子が持ち主の居ないままに揺れていた。
「二度とその顔を見せるなと言わなかったか」
懐かしい音を刻む椅子に手をかけた時、不意に響いた妍麗な声音にガタッと椅子にぶつかりながらデイルは振り返った。
出窓に腰掛けるのは、流れる金色の髪の貴人。
見るからに不機嫌な様子にも臆することなく対面した。
こうして見ると目元の華やかさなどが、ミルレイアに良く似ている。
ミルレイアが優しさと恥ずかしさを滲ませる瞳に、旋は自負と誇りの光を輝かせている。
「まだ、言わなければならない事があるんです」
伝えなければならない事がある。
謝らなければならない事がある。
このまま会えなくなるのは、罪の上重ねだ。
全てを思い出した今はなお更に。
揺るがない瞳の強さをどう受け止めたのか、旋はふんっと鼻を鳴らして顔を背けた。
行儀悪く片膝を立てた体勢で、頑なにデイルと目を合わせようとしない。
「お願いです。彼女に、ミルレイアに会わせてください」
必死に掻き口説いて頭を下げる。
外聞も体面も邪魔なだけだ。
今ここにいるのは、過去の過ちを取り戻そうと無様に喘ぐ男だけだ。
「彼女?凪はまだ子どもだ」
「……は」
馬鹿にしたような言葉に、デイルは間抜けな声を上げた。
「お前は何も知らぬのだな。それで凪を娶るなど片腹痛い」
嘲る笑みに彩られた顔すら美しく輝いてみせる。
「神族に固定の性別などない。愛した者にあわせて身体を変えてゆく。凪はアリゼイラの子だが、神族の血が濃い。まだ身体は変化していなかったぞ」
どう言う事か説明するまでもあるまい。
皮肉に途切れた声に、デイルは俯いて考える。
どう言う事か。
神族の身体が感情によって変化すると言うのなら。
変化を示さなかったミルレイアの気持ちは…。
ぐっと声を詰まらせたデイルに旋は嘲笑を浴びせる。
「不当な扱いをしておきながら愛されようなど厚顔も良いところだ。人間とはなんと無恥な生き物だろうか」
「…それでも、そうだとしても!」
貶されるのは仕方ない。それだけの間違いを重ね、罪を犯してきた。
だが、謝罪を、贖いを努める事はまた別の事だ。
「謝らねばならないのです。許される事など望んでいません。ただ、それでも謝らねば…」
情けない。
高ぶった感情から言葉が途切れる。
握り締めた拳を胸にあて、意識的に呼吸を繰り返す。
「会わせてください。恥知らずな願いだとしても。どうかミルレイアに会わせてください」
不器用なまでに真っ直ぐな言葉に、旋が鼻白む。
沈黙が二人を包み、遠くから聞こえてくる小鳥の歌声が場違いに長閑だ。
ふうっと長い息が花びらの唇から漏れる。
「良いだろう。会わせてやろう」
下げられたままのデイルの顔がバッと上がる。
安堵したような希望の輝きが色を添えていた。
「だが、お前の手の元に返すつもりはない。凪は神界に連れて行く」
決定事項として伸べる旋の言葉を、痛みを堪えて受け入れる。
あの優しい人を腕の中に取り戻したいなどと言えるほど、デイルは恥知らずではなかった。
「……この一時でも許されるなら」
「ふん。それならば良い。その言葉が通じるかは知らぬがな」
意味深な言葉の意味を考える前に、旋が立ち上がる。
流れるような物腰で奥へと導かれる。
家中に満ちる太陽の香りが、その部屋にも満ちていた。
薄絹がひるがえる窓からは、可愛らしい小花をつける繁みが見える。
ドクドクとなる心臓を押さえながらデイルは、可愛らしい部屋に足を踏み入れた。
白木の壁には森の動物が織り込まれた壁掛けが飾られている。
薄い青と緑を配置した部屋は小ざっぱりとして気持ちが良い。
そんな部屋の隅に白と青の掛け布の寝台が置かれている。
覗く月金色の髪が日の光を弾いて、デイルの目を一瞬で奪った。
立ちすくむデイルに枕元に控えた旋が目で近くによるように促す。
「起こしても?」
躊躇う声にぞんざいな許可が出された。
起こしても良いと言われても、伸びる手はオズオズとしたものだ。
健やかに眠る人に触れることも出来ずに、枕元に膝を付き寝台の縁に指を掛けるだけで精一杯だ。
「……お願いです、起きてください。貴方に、たくさんの事を謝らねばならないのです」
悔やみに震える声が届いたのか、金の睫毛が覚醒を告げる。
けぶる蒼空色がデイルに多くのものをもたらす。
魅入られるように動けない青年を後目に、華奢な身体が寝台の上で起き上がった。
まだ眠いのか白い手が目を擦っている。
「凪、良く眠れたか?」
「……おはよ、う、ございます」
とろとろと頭を下げた子どもに旋は慈しみに満ちた笑みを浮かべる。
泉で出会った時の翳りを持った人ではない、幼い仕草にデイルは声もなくミルレイアを見つめる。
まだ赤ん坊だった頃のミルレイアがそこにはいた。
言葉を失ったデイルを、父を見上げていた瞳が映す。
泣かれてしまうだろうか。
一瞬身構えたデイルだったが、ミルレイアの瞳に浮かんだのは純然たる戸惑い。
パッと寝台から飛び降りると旋の背後に隠れてしまった。
声をかける暇もない。
「だれ、ですか?」
胸を振るわせる透明な声が室内に響く。
声に、殺された。
比喩でなく、デイルはそれだけの衝撃を受けた。
父親の背に隠れて、ミルレイアは見も知らぬ客人を見つめて旋を見上げる。
「おとうさんのお友だち……?」
「いいや。そなたに会いに来た人間だ」
優しい手つきで髪を撫でられてミルレイアは不思議そうな顔を浮かべる。
「お客さま……」
噛み含めるような声にデイルの手が力なく床の上に落ちた。
「なにか、ごようですか?」
初めて会う人を見る目で、人見知りする声で。
ミルレイアはデイルを見つめていた。
澄み渡る瞳に、痛みも苦しみも存在しない。
名前の通り、凪いだ湖面のような穏やかな目。
デイルの脳裏に、いつか読んだ詩の一文が虚ろに泳ぐ。
そこに救いは存在するだろうか。
仰いだ天は、晴れやかに澄み渡っていた。
忘却とは
人に与えられた至高の妙薬である。




