25* 購い
アリゼイラ・エル・カンターナ。
美貌と才で名の知れた彼女だが、その行く末を知る者はいない。
ただ、伯爵家との婚姻がいつの間にか立ち消えた事をいぶかしんだ者は当時もいた。
何かが起きたらしい事は周りの者も薄々と悟っていた。
目に見えて亡霊のようになっていた子爵が、ある日から豪勢な暮らしぶりを現し始めたのだ。
浪費家であった子爵のため傾く一方だった館が、最盛期の華々しさを取り戻した。
家の輝かしさと引き換えに、子爵家の花と呼び名が高かった令嬢は姿を消した。
目を閉じて、十五年ぶりに知らされる事実を思い返し、旋はギリッと歯を食いしばった。
「娘を売り、誇りを売り、そうして長らえた血筋に幾らの価値があるものか」
冷え冷えとした声は、吹き荒れる嵐を内包していながら恐ろしいほど静かだ。
怒りを通り越した激昂は、精霊たちを怯えさせ風の国から大気の流れを奪い去った。
「全ての憂いは、この手で絶とう…」
眼下に広がるのはカンターナ子爵家。
全ての悲しみと怒りは報いを受けるべき人間の下へ。
崩壊の足音は、実にささいなものだった。
風がやみ、梢は静まり、小鳥は羽をふるわせ木陰に身を寄せた。
子爵家に勤める使用人たちは、異様な静けさを感じ言葉少なに仕事を進めていた。
誰もが言い知れぬ予感を抱きながら、口には出せない何かを敏感に感じていた。
じっとりと暑い空気が屋敷中を包み、汗が皮膚から滲み出てくる。
不快感はいや増すばかりだ。
「おいっ、大扇を…いや、魔術師だ!魔術師を呼べ。こうも暑くてはかなわん」
みっしりとした分厚い脂肪からダラダラと汗が流れ落ちる。
幾重にも重なる首周りを締め付ける詰襟を指で緩め、豪奢な上着が床に投げ捨てられる。
金鎖が大理石の床にあたり耳障りな音をたてた。
「まったく何という暑さだ」
虹色貝をふんだんに使った豪華な窓を開け、少しでも涼を求めようとするが、空気は澱み新たな流れは作りださない。
苛立たしげに子爵は、更に襟元をくつろげる。
「ええい、まだか魔術師は!」
子爵家にお抱えの魔術師はいない。
原則的に魔術師は協会に属さなければならない。
個人で魔術師を雇うには、かなり面倒な手続きとそれなりの財力を必要とする。
公爵にでもなればお抱えの一人や二人はいるだろうが、子爵程度では無理な話だ。
慌しく動く使用人たちを苛立ち混じりに叱り付け、ささくれ立った気分をわずかばかり抑える。
「まったく、魔術師さえ居ればすぐに涼しくなるものを」
本来の魔術師の存在意義を全く無視した呟きは、誰にも拾われずに消えるはずだった。
子爵以外に、誰もいないはずの部屋にくすりと笑い声が落ちる。
「誰だ!」
「つれないお言葉ですね、兄上」
皮肉な声は実に美しかった。
妙なる調べの旋律は、茹だるような暑さすら吹き飛ばしてしまうようだ。
振り返った子爵はそれまでの苛立ちを思わず忘れた。
虹色貝の窓辺に立っていたのは、輝く金色の髪と透明な蒼の目を持つ至上の人。
間抜けな表情をさらして立ち尽くす子爵に、天上の住人は実に艶やかに微笑んだ。
木漏れ日に透ける葉のように、穏やかで印象的な笑顔。
「あ、兄?何だお前は!いったい何処から…」
笑顔に気を取られながらも、不信人物を問い質すだけの理性を取り戻した。
「礼儀知らずで申し訳ないと思いますよ。兄上」
「い、いや、それは…、違う!だから、兄とは一体どういう事だ!あ、私はそのように言われる覚えは」
動揺をそのままに表してうろたえる子爵に、黄金の訪い人、旋は更に優雅な微笑みを浮かべる。
誰に対しても優しく、礼儀を守るのが心情である神族らしく旋はどこまでも穏やかだった。
否、穏やかに見せていた。
「いや、私にはそう呼ぶ権利がありますよ。カンターナ子爵」
「何だと」
暑さを冷ますための汗が、別の何かに変わる。
「間違えるわけがない」
徐々に室内が冷えていくような気がした。
自分の身体が熱を持っているせいか、逆に冷えていく末端の四肢が妙に浮いて感じた。
にこやかな笑顔に目が離せない。
何故だろうか。友好的な表情であるはずなのに、無言の威圧すら感じる。
「アリゼイラの兄上。親が妹を色狂いの公爵に売るのをけしかけ、私の子を汚らしい地下に押し込めたあげく、またしても自分の財のために公爵に売った」
決して、激昂することなく、淡々と旋は告げる。
「アリゼ?アリゼイラがお前のなんだと……」
見苦しく空回りする舌を凍りつかせたのは、旋の一瞬にして変わった表情。
太陽が暗く輝いているような禍々しい美しさ。
「私のただ一人の伴侶だ。軽々しくその名を呼ぶな」
礼儀などかなぐり捨てた相手の豹変に、子爵はもう喘ぐしかない。
「子爵、実に素晴らしい保身能力だと褒めてさしあげよう」
「ひっ!」
ゆうるりと伸ばされた手に、子爵の身体が跳ねる。見苦しく揺れる贅肉を嫌悪で見下ろし旋は断罪を下す前に、一言口を開いた。
「これはほんの祝いの品。我が子が天へと帰る祝賀の手向け。遠慮なくお受け取り下さい」
白絹のような手が閃いて一瞬。
ガタンッ、と立った音に何の興味も示さず旋は来た時と同じように窓から外へと出た。
誰に見咎められることなく姿を消した旋の背後で、子爵は最大限に口を開いて声もなくのた打ち回っていた。
断続的に襲う痛み気を失う事もできないまま床を這う姿は醜悪だ。
その日から、カンターナ子爵は原因不明の病で床に就いた。
王城付きの医師ですら頭を振った病は、子爵が息を引き取るまで十五年にわたって苦痛を与え続けたのだった。
旋が一つの復讐を果たした頃。
デイルは、ようやく混乱の縁から抜け出していた。
「大丈夫ですか、公爵様」
心配そうに見送りに立った神殿長に、憔悴した面立ちでそれでも微笑んでみせる。
「えぇ、この度はご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。頂いた情報を役立てていきたいと思います」
しっかりとした挨拶にエルゼナは、まだ少し懸念を感じながらもゆっくりと頭を下げた。
「貴方様のご意思が神の御許に届きますよう、お祈り申し上げます」
「感謝いたします」
辞去の挨拶は短く、だが溢れる程の気持ちが込められていた。
用意された馬に手早く跨るとデイルは、短く声を発して手綱を振るった。
駆けて行く公爵をエルゼナは長く見送っていた。
デイルが館に戻ったのは、昼を過ぎ午後のお茶の時間になろうかと言う刻限。
早足でベルリードの待つ執務室へと向かった。
「あぁ、お帰りなさいませ。言われていた資料は整いましたよ」
外套を脱ぎながらの帰宅と言う無作法を見ぬ振りで、有能な側近は仕事の成果を片手に報告してくる。
それを受け取り、ざっと捲ってみていく。
紙面に書かれていたのは、神殿で与えられた記録と寸分の変わりもない事実。
疲れたように椅子に座り込んで目を閉じれば、血にぬれた人の姿が鮮明に映し出される。
苦しげに息を吐いた公爵をベルリードが労わるように見つめてくる。
「……義母のことを詳しく知っている人間はいるか?」
「大奥様ですか?」
いきなりの要求にきょとんとしたベルリードだったが、詳細は尋ね返さずに一人の侍女の名を上げた。
マリーニエ付きの侍女の名を。
少しして二人の男に挟まれるようにして侍女、ナーガがデイルの前に連れてこられた。
落ち着いた容貌の彼女は、公爵の前に出ても落ち着きを崩さずに立っている。
従者二人を下がらせてから、デイルは口を開いた。
「お前は、義母の侍女からそのままマリーニエ付きに移ったと聞いた。義母に仕えていたのはどれくらいだ?」
「お亡くなりになる二年ほど前からです」
無駄な口を聞かずに答えるナーガにデイルは難しい顔で考え込んだ。
義母が亡くなったのは、マリーニエが7歳。デイルが15歳の時だ。
リゼイラが子爵家に引き取られたのが3歳だとすれば、何かを知っている可能性はある。
「……この屋敷で昔一人の女性が父に囲われていた。心当たりは?」
単刀直入な問いにナーガは、小さく眉を動かした。
それだけの仕草だったが、何かを知っていることは明らかだった。
「知っているな」
問い詰めれば、肩を落として話し始めた。
「アリゼイラと言う子爵家の娘が、先代の公爵様のご寵愛を受けておいででした」
ぎゅっと肘置きに置かれていたデイルの拳が強張る。
「義母は、その女性をどう思っていた」
核心に迫れば、さすがの侍女もわずかに言いよどんだ。
それでも、二、三度唇を噛み締めてから真実を吐き出す。
「大奥様は、先代の公爵様を愛しておられたのです…」
苦しげに言われた言葉は、デイルに事実を突きつける。
「殺したな。無頼の男を雇い入れて、四人だ。たった一人の女性を殺すには、手が込んでいるな」
吐き捨てた声に、控えていたベルリードの方が驚いたようだ。
ナーガに至っては蒼白な顔でデイルを食い入るように見つめていた。
「何故、それを」
「誰も見ていない事など在りはしない。いずれ全ては人の目に触れ、人の耳に入る。それだけの事だ」
「公爵様、いったいどう言う事です?」
一人、置いていかれるベルリードが痺れを切らして問い質してくる。
言うべきか迷ったデイルだが、これ以上黙っている事など出来ないと判断した。
「昔、父はカンターナ家の支援と引き換えにその家の娘を妾に貰い受けた。その娘は、婚姻も決まっていたがある理由から破談になっていた。…父親の知れぬ子を宿したからだ」
アリゼイラは誰にも父親のことを話さなかった。
婚姻前の娘が、子供孕むなど許されないことだ。
村娘ならまだしも、アリゼイラは貴族の娘だ。
「それで、金と引き換えに子爵はアリゼイラ様を売り渡したのですか」
「あぁ。父が買った。その美しさに目が眩んだのかただの好色かは知らないが」
嘲笑うデイルの声は苦い。
何故、思い至らなかったのか。
子どもの自分が、勉強の合間に抜け出せるような場所に女性が住んでいるなんて可笑しな事だったのだ。
公爵家の敷地は広い。
子どもの足で抜け出すのは一苦労だ。
だが、大した苦労もせずに逢っていたのだ。
アリゼイラが、公爵家の敷地に立てられた別宅に住んでいたからだ。
「そして、嫉妬に狂った義母が男を雇って殺した。父は知っていたのか?」
「いいえ。御領地の視察に言っている間に、病で亡くなられたとお伝えしました」
「それを信じた?」
「少しの間は、疑っておられたようですが。数ヶ月も経てば何も仰らなくなりました」
そっと目を伏せたのは、声にならない憤激を感じ取ったからか。
長くデイルの傍に仕えていたベルリードさえ直視するのが躊躇われた。
椅子に座るデイルの周りから怒りが陽炎の様に揺らめいて見えるようだった。
今にも剣を手にしそうな物騒な雰囲気は、部屋中を緊迫させたが、恐るべき自制心でデイルは口を開いた。
「判った。戻って良い。マリーニエの処分は、追って沙汰する。だが、荷物を纏める準備はしておくように」
「……はい」
静かに頭を垂れたナーガは、どこかホッとしたように見えた。
長い事実の隠匿はそれだけ彼女にとって重荷だったのだろう。
いま、その荷は全てデイルの肩へと移された。
二人になった部屋は、重苦しい静寂が満ちて不用意な発言を切り捨ててしまう。
「俺は、あの人を迎えに行く権利があるのだろうか」
膝の上に立てた腕に額を当てていたデイルは、不意に呟いた。
迷い、躊躇う声にベルリードが息をつめた。
未だに事実がきれいに飲み込めないベルリードだったが、言うべき言葉は決まっていた。
「ありますよ」
あっさり言う側近に公爵が顔を上げる。
「権利はないかもしれませんが、会って謝る責任はあるでしょう。何を迷っておいでですか?嫌われるのが怖いですか?」
容赦ない言葉に、デイルは思わず苦笑した。
ベルリードの言うとおりだ。
怖がって何もなさなければ、今までの自分と何一つ変わらない。
「そうだな。迷っている暇はないか」
立ち上がったデイルに、ベルリードが首を傾げる。
「行くべき場所は判ってるんですか」
「あぁ。思い出した。会えるかは判らないが、行って来る」
静かに決意を決めた背に、ベルリードは何も言わずに送り出した。
言葉は必要ないと思ったのだ。
後は祈るだけだ。
全てが上手く行くように。
散乱する書類を片付けようと腰を屈めた時、扉を叩く音と共にライドールが顔を覗かせた。
「あぁ、来たの」
「えぇ。今度こそ、ちゃんとお話をお伺いしようと思いまして」
「良いけどね。こっちも混乱してるんだ。散漫になるよ」
拾い上げた書類をまたパッと散らしてベルリードは自分の椅子に座る。
律儀に立ったまま一歩も退かない構えを見せたライドールに、やれやれとため息を吐きながら何処から話そうかと考える。
「長くなるから、お茶をいれてくれない?」
あの時のことをミルレイアは、辛い気持ちと一緒に閉じ込めてしまっていた。
怖くて、苦しくて、痛くて。
なかったことにしてしまいたくて、そうして忘れてしまった。
優しい家に突然やって来た怖い男の人たち。
時々やって来るおじさんとも違う人たちを見て、母は咄嗟にミルレイアを戸棚の中に隠した。
暗くて狭い戸棚の中にいるのは怖くて、それでも真剣な母の言葉にじっと我慢していた。
細く伸びる光の隙間から見える母の後姿だけを見つめて。
そうして、見てしまったのだ。
見るだけしか出来なかったのだ。
振り下ろされた鋼に反射する光を。
母が上げた悲鳴の声を。
床に流れた赤い血潮を。
冷たくなった母の身体を。
見つめるしか出来なかった。
怖くて、苦しくて、痛くて。
母が死んだなんて思いたくなくて。
ミルレイアは忘れてしまった。
怖くて、苦しくて、痛くて。
今、こんなに痛いのも忘れてしまうのだろうか。




