24* 成長日誌
風華の大神殿は、国中を巡る風が戻ってくる場所と知られている。
記録に残された中で、およそ三百年。一日も神殿にまとう風が止まった事はない。
ころろ、ころろと音を立てるのは、開放的な入り口を飾る薄い陶器で作られた魔除けの風鈴だ。
風が吹くたびに、可愛らしい柔らかな音色を奏でる。
一日中響く音色は、この神殿の名物であり何気ない日常の一部だった。
まず最初に異変に気がついたのは、神殿の庭に出ていた神官見習いの少年たちだった。
庭の草むしりを行っていた一人が、汗を拭う手を止めて空を見上げた。
空は見事に晴れ渡った青。
だが、何かがおかしい。
青草を靡かせていた風が、僅かずつ力を失っていく。
見習いの少年たちが次々に顔を上げ、不安げに互いと目を見交わす。
籠に詰まれた雑草が、その重みで転がる。
地面に散った草は、けれどそのまま飛び交うこともなく萎びて落ちている。
やがて、神殿の何処に居ても聞こえていた風鈴の音色が人々の不安を煽るように消えていった。
「白嵐様」
幼い、けれど甘えを含まない理知的な声が客人の訪れを告げた。
窓辺で憂いの表情を浮かべていた神殿長は、このような場所で会うとは思いもしなかった人物の姿に軽く驚きを滲ませた。
「突然の、ご訪問を失礼致します」
馬を飛ばしてきたのか、威厳すら軽がるとまとう顔からは汗が滴っている。
「公爵様。かような場所まで如何なさいましたか?」
まずは落ち着くように椅子を勧めて、部屋に控えていた神官に飲み物を持ってくるように伝える。
筆頭公爵であるデイルが、大神殿に私用で訪れることなどほとんどない事だ。
ましてや神殿長の居室まで訪れるとは、何か余程の事があったのだろうか。
風の絶えた神殿の状況とあわせて考えて、神殿長の顔は曇った。
「申し訳ありません。本来なら総神殿長の貴方には礼儀を尽くさねばならないのですが」
「そのような事、お気になさいませんよう」
運ばれて来た冷たいお茶を有難く飲み干して、デイルは率直に言葉を重ねる。
「ハクラン、と言う名の精霊をご存知でしょうか」
神殿長は、すっとその表情を改めた。
「公爵様、二度とその名は口になさいませんよう。名は尊い物。みだりに口にしては災いとなります」
「判っています。もう口には致しません。ですが、教えては頂けませんか?」
必死な様子で詰め寄ってくるデイルに、神殿長もどうしたものかと考える素振りを見せた。
ベラール公爵の鋭敏な手腕も威厳に裏打ちされる実力も、世俗とは切り離されている神殿まで聞こえてくる。
その高潔な人柄に神殿長も一目置いていた。
「……理由をお伺いしてはいけませんか?」
静かな要求だった。
まるで押し付けがましくない、ゆるやかな声音。
老いてなお往年の美しさを宿す神殿長の深い眼差しを見つめて、デイルは一度閉じた唇を解いた。
長い、もしくは短い、話の後。
神殿長は、深々と息を吐いた。
「まさか貴方だとは……」
「白嵐様?」
苦笑する神殿長にデイルは眉を寄せた。
「私の事はエルゼナとお呼びください。混乱してしまうといけませんから」
公爵の疑問をかわして神殿長、エルゼナはそこの知れない微笑みを浮かべた。
やはり経験の差か。まだまだ若輩のデイルには持てない深みがあった。
「これから、私は神殿に起きている異常を知るために彼を呼びます。その上で、貴方の求める物を求めるとよろしいでしょう。ただし、それが確実に得られると言う保証は致しかねますが」
「構いません」
即答だった。
もし何も得られなかったとしても、デイルが求め続ける事に変わりはない。
他の手段でたどり着くだけだ。
「では、呼びましょうか」
気負いなく立ち上がったエルゼナは、開かれた窓辺に立つ。
「ハクラン、お聞きしたい事があります」
何でもないように囁いたエルゼナの声に、ふわりと絶えた筈の風がふわりと流れた。
霧の様に現れた姿にデイルは思わず腰を浮かせた。
だが、押し止めるような神殿長の目線に、無理やり己を落ち着けさせた。
『……やはり、こうなったか』
「風が止まった原因をご存知なのですね」
どこか苦しげな表情を見せたハクランの声はデイルには聞こえない。
だから黙って成り行きを見守るしかない。
『知っている。怒っているのだよ。あの方が、とても』
「あの方?もしや、来臨の年と何か関係が?」
眉を寄せたエルゼナの言葉にデイルが小さく指を揺らしたが、それ以上の反応は見せなかった。
『……あの子の父親だ。金と青の一族。風の名を持つ方だから、精霊たちが怯えている』
「風の名を持つ神族ですか。それが、今の無風の状態に?」
『あぁ。だが、心配する事はない。全てが終われば元にもどるだろう』
「どう言う事です?」
淡々と述べる精霊をエルゼナは問い質す。
聞き逃せない言葉だった。
『もう誰も止められない。長い過去の罪を償う時が来ただけのこと』
冷たい言葉ではない。ただ、仕方がないと既に起こった事を諳んじるような突き放した感があった。
エルゼナもそれ以上問うことは諦めた。
代わりに、すっとデイルの方へ身体を向ける。
「最後に一つだけ。彼の希望を聞いてあげられますか?」
デイルを見つめたハクランの目が軽く見張られる。
どうやら覚えていたようだ。
『何を望んでいる?』
咎めるような精霊の眼差しを、エルゼナは軽く笑ってあしらう。
「何も。ただ、貴方が現状をどう捉えているかに寄るかとは思っていますが」
何の含みも無い表情を浮かべる人間をハクランはため息を吐いた。
もう十年単位での付き合いをしているが、エルゼナの性格を掴めた事などない。
諦めて、それでも興味を抱いていた人間を見定める。
ハクランがデイルを初めて見かけたのは、アリゼイラの家に迷い込んできた時だ。
あの頃は、ただ普通の子どものように見えた。
特に興味も関心も抱かなかった。
それが、今になってこう対面することになるとは。
皮肉と言うのか。
それとも、運命とはこう言うものなのだろうか。
精霊にあるまじき考えを巡らせて、ほのかに緊張を滲ませる青年をしっかりと見つめる。
まだ若いが故に力のある瞳。
そして、若いが故に揺らぐその強さ。
凪が、ミルレイアが惹かれた一人の人間。
きっぱりと言ってしまえば、何故この男なのだろうかと思う。
ハクランから言えば、いつも傍らに控えていた人間の男の方がよほど見込みがあるような気がする。
けれど、ミルレイアは選んだのだ。
数秒が数分に数時間にも思える間。
ぎゅっと膝の上で握り締められた拳は、力を込めすぎて色を失っている。
『私は、彼の方の邪魔をするつもりはない』
ハクランの返答にエルゼナは、少しばかりの落胆を込めて手を組みなおした。
『だが、あの子の幸せを願うのも真だ。私には何が一番良いのか判らない』
旋がなそうとしている事が絶対に正しいなどとは言えない。
願うのは、多くを奪われ続けた子どもがこれ以上何も失わないように。
半透明の腕が伸ばされて、白い光の玉が生み出される。
いつかも見た、光景にデイルは息を飲んだ。
『あの子に関わる全ての記憶だ。これを見て、何を成すかは己で決めるが良い』
舞の一手のように差し出された手に誘われるように、光はデイルを包み込んだ。
一瞬、立ち眩みの様に視界が回り、長い長い手紙の様な映像が一気に駆け抜ける。
与えられた情報量の多さに、酔ったように足元が覚束なくなる。
座っていたから醜態は見せなかったものの、立っていた状態だったら間抜けな姿を曝してしまっていただろう。
『それでは、私は精霊たちの方を見回ってくる。何かあればその都度知らせよう』
グラグラする視界に頭を抱え込んだデイルには、興味を示さずエルゼナに必要な事を告げるとあっさりと姿を消した。
「公爵様、お加減はよろしいですか?どうやら、必要な記憶を全て渡して行ったようなのですが」
乱暴なハクランのやり方を申し訳なく思いつつ労わりの言葉を述べる。
「…まだ、少し混乱していますが。もうしばらくすれば落ち着くかと」
頼りない声だが、意思はハッキリしているようだ。
その事にひとまず安心する。
お茶のお代わりを運ぶように頼んで、エルゼナはデイルが落ち着くのを待った。
幼い子とは言え、人の一生の記憶だ。
突然に前置きもなく与えられれば混乱するのは無理もない。
頭痛を堪えるような仕草を見せる公爵に同情しながら、風のない空を見上げる。
降り注ぐ日差しがやけに暑く感じた。
ハクランによって、いきなり手に余るほどの情報を与えられたデイルは、必死で脈絡もなく飛び出してくる記憶の断片を整理していた。
うっかり目を開くと、実際の視覚からの情報と与えられた情報が混ざり合って訳がわからなくなる。
目蓋を閉じ、ゆっくりと必要な情報だけをより分けていく。
今までにした事のない作業だったが、やって行くうちに何とかコツは掴めて来た。
黄色と茶色、薄っすらとした緑色の明るい色彩が閃いたと思えば、暗い灰色の光景が延々と流れる事もある。
薄暗い光景は恐らく何処かの地下牢だろう。
意識を向ければ、その時のリゼイラが感じていた光景がまるでその場にいるかのように感じ取れる。
冷たい、暗い、怖い、…寂しい。
ぼんやりとした気持ちは、酷く希薄でそれがリゼイラの生きていた大半なのかと思うとやりきれない。
何が、貴族のご令嬢だ。
こんな小さな世界で、あの人は生きてきたのか。
これだけの世界しか知らずに、どうしてもあんなにも優しくあれるのか。
過去の己への慙愧と羞恥が入り混じる。
ともすればそればかりに囚われそうになり、無理やり思考をずらす。
今必要なのは、後悔ではない。
一度は手放してしまったあの小さな手をまた握り締めるための手がかりを。
暗い過去を振り解き、もっと奥へともぐりこむ。
記憶の渦は底がないかと思われるほど深い。
やがて、灰色の記憶が途絶え始め、代わりに柔らかな光に包まれた記憶が現れ始める。
それは、ミルレイアだった頃の記憶。
時折垣間見えるのは、懐かしい女性の姿。
おぼろげだった記憶が今はっきりと像を結んだ。
そうだ、この人だ。
明朗な微笑みが印象的な人。
流れ込んでくる感情は、どれも朗らかで温かい。
母親を慕う気持ちが多く溢れていた。
その中に、幼い自分の姿も見つけ何やら面映くなる。
誰もが幸せだと思っていた頃だ。
ひらり、赤い花弁が一枚流れた。
デイルを誘うように真っ赤な花びらは一枚、また一枚と増えていく。
奥へと進み行くうちに、花びらは辺りを埋め尽くしていく。
今までになく不吉な物を感じて、デイルはぐっと息をつめた。
ここで引き返すわけには行かない。
いつのまにか記憶の断片は、一つも浮かばなくなっていた。
赤い欠片だけが鮮明だ。
やがて、デイルの目にこんもりと盛り上がった何かが見えた。
吸い寄せられるようにそれに近づく。
花に覆い尽くされた何かを見極めようと、積もった赤を払っていく。
一払い、二払い。
中から見えたのは白い石膏のような何か。
震える手で、その全体を明らかにする。
「……っ!」
デイルの口から声が漏れた。
否、漏れたような気がしただけかもしれない。
花びらに埋もれていたのは、一人の女性。
昔、少年だったデイルを温かく迎え、たくさんの事を教えてくれた人。
ミルレイアと言う名の赤ん坊を嬉しそうに紹介してくれた人。
長じて名前を聞いていなかった事を後悔していた。
今は、その名を呼べる。
「アリゼイラ……、お姉さん」
懐かしい呼び名を口にして、余りに多くの事が思い返された。
だが、何故彼女がこんな状態になっているのだろう。
そっと伸ばした手が、アリゼイラの冷たく強張った肌に触れた。
ぞくりとする冷たさに戸惑う隙もなく、最後の記憶がデイルに流れ込む。
これまでの乱雑な記憶ではない。
整理された単調な情報は、これまで以上にデイルを打ちのめした。
「……っ、嘘だ!」
「公爵様!」
絶叫した拍子に、意識は現実へとはじき出された。
心配そうに見守るエルゼナの姿も今のデイルには映らない。
ただ、今見たものが信じられないでいる。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ」
繰り返す言葉は、否定を望みながら、否定出来ない現実を悟って揺らいでいる。
何故、何故出会ったんだ。
出会わなければ、良かったのか。
「義母が殺したのかっ」
あの人の母親を。アリゼイラを。
父に囲われていたから。
旋の言葉がデイルの言葉を打った。
「俺が、俺の家族が……あの人の全てを奪ったのか」
もう後悔すら遠すぎて。
デイルは壊れたような笑みを浮かべた。




