15* 根腐り
とおい、とおいゆめのそこ
あかい花がさいている
そこでねているのはだぁれ
真っ青な顔で眠るリゼイラの傍には、レジーナが付き添っている。
公爵の腕に抱えられて戻ったリゼイラを見た彼女は、小さく悲鳴を上げてから素早く寝床を整え始めた。
寝台に横たえられたリゼイラのほつれた髪を解き、身体を締め付ける衣装からゆったりとした夜着に着替えさせる。
その間、薄い目蓋は開かれず、レジーナも無言だった。
続きの部屋では、デイルとライドールが真剣な顔で額を突き合わせている。
誕生会の方は、適当に理由をつけて退出した。
その時、マリーニエが最後まで食い下がったがあしらう様にして逃れてきた。
「いったい何があったんだ?」
握り合わせた手を額に当ててデイルが呟くと、向かい合うように立っていたライドールが眉間に皺を寄せる。
何があったのかは、明らかだ。
口に出したくもないおぞましいこと。
「……何があったかは、明らかでしょう」
怒りを内包した声は冴え冴えとしていた。
リゼイラには聞かせたこともない声だ。
それこそが、ライドールの感情を露にしている。
声もなく苦しげに泣いていた小さな身体が目蓋の裏に染み付いている。
汚れた白い手足が、千切れた絹を掻き合わせていたのを覚えている。
何故だ。
何故、きれいなものは汚されなければならないのか。
何故、その美しさは認められない。
握り締められた爪が、手のひらに食い込み血を流す。
無表情に、何の感情も外に出さずライドールは怒っていた。
「あぁ、そうだな。だが、彼女は私の妻だと知られているはずだ。わざわざ、手を出すような危険を誰が犯す?館の招待客は全員身元は明らかだ。外から忍び込む事などできない」
「……招待客なら、リゼイラ様に害をなさないと何故言い切れますか?」
静かな声にデイルが顔をあげ呆れたように答える。
「招待されているのは貴族だぞ。下手に公爵に手を出せば自分の身が危なくなる事ぐらい承知している筈だ」
ベラール公爵家は国王の膝元に最も近い筆頭貴族だ。
他の貴族とは格段の差がある。仮にとは言え、リゼイラはその公爵家夫人だ。それを祝い事の最中に、乱暴を働くなど愚行などと言う問題ですらない。
自殺行為にも等しい。
一蹴したデイルに、だがライドールはずっと気になっていることがあった。
宴の中、目立たぬ場所で談笑していたマリーニエ。
窓辺に近いあの場所で彼女はいったい何をしていた。
華やかな宴の中心にいることを何より好む彼女が。
「その招待客が、決して表沙汰にならないとしたら如何です?」
「何?」
そう。絶対に自分たちの身元が割れず、たとえ露見したとしても庇いだててくれる絶対的な存在が居たとしたら。
どんな愚かな行為だろうが、いっそ嬉々として行うだろう。
もとより、貴族と言う地位に相応しい人間など、それが子息ともなれば、数えるほどもいない。
「例えば、マリーニエ様が命じたとすれば…」
「ライドール!立場を弁えるが良い!」
ライドールが疑惑を全て口にする前に、鞭のような叱責が飛んだ。
それは隣にいたレジーナが思わず立ち上がった程の強い声だったが、ライドールは顔色一つ変えずに頭を垂れた。
「マリーニエは、私の義妹だ。いくらこのような事が起こったとしても、無闇に疑いを向けるなどこの館に仕える人間として恥じだと思え!」
「……申し訳ありません。出すぎた口を利きました」
淡々と吐き出された言葉に、デイルは憤激を飲み込み黙って扉へと向かった。
最後、部屋から出て行く前に平坦な声で告げる。
「マリーニエにはこちらから話を聞く。勝手な行動は慎め」
「はい」
感情の窺えない返事を背にデイルは扉を閉めた。
その音を待っていたかのように寝室の戸が開かれ、レジーナが心配そうな顔を覗かせた。
「ライドール、一体どうしたの」
「いや、心当たりを述べただけだ。確かに不敬な事ではあったが」
それでも、言わずにはいられなかった。
リゼイラがこれ以上傷つけられるのは我慢が出来ない。
「……あれはマリーニエ様がなさったの?」
自嘲したライドールに、小さく堅い声が投げられた。
ぎゅっと両手を祈るように握り締めたレジーナの真剣な眼差しがそこにあった。
「私が疑っているだけだ」
「ライドールが疑うだけの根拠はあるのね」
ほとんど同じ時期に奉公にあがるようになったレジーナとライドールは兄妹のようにして育った。
レジーナの両目には、揺ぎ無い信頼の光がある。
「公爵様は、ほとんど疑ってはいらっしゃらないが」
「仕方がないわ。妹様だもの。それに、マリーニエ様はとても頭が良い方だわ……」
言葉を呑んだレジーナの、その先を悟ってライドールは憂いを吐き出す。
きっとマリーニエは確たる証拠など与えはしないだろう。
デイルは知らない。
彼女が幾度その手を汚さずに、この屋敷から兄に想いを寄せる女性たちを追い出してきたか。
ボロボロになって館を去っていた侍女をライドールは何人も目にしていた。
そんな目にリゼイラをあわせるわけにはいかなかった。
「私たちが気をつけましょう。リゼイラ様がお健やかに過ごせるように」
「あぁ」
誓うように囁いたレジーナの肩を抱き寄せ、ライドールも願うように頷いた。
あの優しい笑顔が汚されることのないように。
大切に守っていこう。
『愛しい子、今日はずっと傍についていよう』
朝、目が覚めるとハクランが優しい微笑みを向けてくれた。
そんな事は初めてでリゼイラは大きな目をさらに大きくしながら輝くような微笑みを浮かべた。
昨夜の事がリゼイラに暗がりを落としていないかと気を揉んでいたレジーナとライドールも、嬉しそうなリゼイラの様子にホッと胸を撫で下ろしていた。
午後の麗らかな日差しの中、木陰で本を広げてリゼイラは幸せそうに笑っている。
それが、どれだけ周りの救いとなっているか本人だけが知らない。
ライドールがくれた画集を膝の上に乗せて、優しい風に包まれる。
『ねぇ、ハクラン』
こうしてハクランが傍に居てくれる事なんて、最近では本当に久しぶりだったからリゼイラはずっと気になっていたことを尋ねた。
『どうしたのかい、優しい子』
『あの、神族って何?』
小さく口に出したリゼイラに、ハクランは表情を止めた。
それに何か大変な事を聞いてしまったのかとリゼイラが、ぎゅっと膝の上の本を掴む。
『あぁ、怖がらせてしまったね。何でもないのだよ』
『……ほんとうに?』
『あぁ、愛しい子。そなたが憂うことなど何もないよ』
微笑んで言われた言葉に、ようやくリゼイラの手から力が抜ける。
『神族とは、我ら精霊にとって敬い尊ぶべき一族のことだよ。美しい金の髪に透き通る青の瞳。妙なる歌声をなさった方々だ』
『金のかみ……』
繰り返したリゼイラは、絵に描かれた神族をそっと指で辿る。
『どうして、夜になるとかみがかわるの?目のいろも青くなるの?』
不安そうな質問が口をつく。
知らないことが多くて、時々自分が何なのか判らなくなる。
『……それは、まだ教える事は出来ないのだよ。すまないね。けれど、もうすぐだよ。もうすぐ、幸福がもたらされるから』
『もうシアワせ、だよ』
不思議そうに首を傾げるリゼイラを、半透明の手が優しく撫でる。
『愛しい子、そなたの幸せが続く事を祈っている』
滲むようなささやきにリゼイラは心地よく目を閉じた。
本当に、十分幸せなのだ。
ハクランがいてくれて、レジーナもライドールも傍で笑ってくれる。
それに、デイルさまも名前を呼んでくれた。
本当に、幸せだから。
リゼイラはそれ以上など、何も望んでいなかった。
幸せだったから。
今が続くだけで良かった。
誕生会が終わった、次の日。
マリーニエは、宴の時よりも念入りに化粧を施して着飾っていた。
赤褐色の髪には、兄から贈られた黄金と緑柱石で作られた大輪の花を飾り、衣装もそれにあわせた淡い緑の絹に深緑の天鵞絨を重ねた豪奢なものだ。
だが、そんな衣装に見合うだけの美貌は確かに彼女に備わっていた。
繊細な磁器に指を沿わせながら、特別に設えさせた露台で優雅に香茶を楽しむ。
マリーニエは、お気に入りのものに囲まれてとても気分が良かった。
何より、今彼女の前には誰よりも愛している兄がいるのだから。
美しいと評判の笑みを浮かべて、マリーニエはその豊富な知識で会話を豊かにする事につとめる。
兄に認められるように、浮ついた流行や噂だけでなく、世情や政治的な知識も進んで取り込んでいた。
彼女は、讃えられるに相応しい人間であるように努めて来た。
公爵家の一人娘として、兄の自慢になれるよういつでも必死で努力しているのだ。
子爵ごときの娘で安穏と暮らしてきたあの子どもに、優るこそすれ劣る物など何一つない。
自信はさらにマリーニエを美しく見せる。
傲慢さすら彼女を持ってすれば魅力の一つとなった。
それは、確かにリゼイラにはないものだ。
「お兄さま?どうかなさいましたの?お疲れの様ですけれど」
どこかぼんやりとして見えるデイルを気遣って言うと、何でもないと微かな笑みが返った。
小さな微笑みは、それだけでマリーニエを魅了する。
「それより、今日はお前に聞きたいことがあって来たんだ」
「まぁ、なんですの」
お兄さまになら何でもお教えしますわ、上品に笑って手にした茶器を白い円卓に戻す。
「昨夜の誕生会のことだ」
ぴくりと繊手が小さく震える。
だが、何でもないように両手を重ねてマリーニエはデイルをじっと見つめた。
「お前だから言うが、昨夜リゼイラ殿が何者かに襲われた。無事ではあったが、何か気付いた事はなかったか?」
「まぁ!そんな事が?どうしましょう…」
悲鳴を上げるようにして立ち上がった義妹をデイルが驚いたように見上げる。
「何か知っているのか?」
「あ、いいえ。いいえ、そうですわね。リゼイラ様が怖い思いをなさったのですものね。あたくしの愚かな行為のせいですわ」
荒れる事のない手で唇を覆って、マリーニエはその場に座り込む。
動揺しているようなマリーニエの肩を戸惑いながらデイルは抱く。
「お兄さま、怒らずに聞いてくださいます?あたくしが全て悪いのですわ」
「あぁ、怒ったりはしない。だから知っていることを教えてくれ」
腕の中、俯いたマリーニエの表情はデイルからは伺えない。
けれど、少しこもったような声は泣いているかのように震えていた。
「あの日、リゼイラ様をお庭に誘ったのはあたくしですの」
「なに?」
「お庭の奥に、今が盛りの風扇花がありますでしょう。リゼイラ様がお庭に出るのがお好きだと聞いて、是非ご覧になっていただこうと思いましたの」
震えた語尾にあわせて、マリーニエの身体が小さく揺れた。
心から後悔して懺悔している様子に、デイルは何も言わずに先を促す。
「本当はあたくしがそこまでご案内しようと思ったのですけれど、途中でお客さまに呼ばれてしまって。リゼイラ様がお一人でも大丈夫だとおっしゃるから行かせてしまいましたの。それに、そこで知り合った方にリゼイラ様がお庭にいらっしゃるからお頼みしたのです」
それが……、わっと泣き出したマリーニエは声を詰まらせながらデイルの胸に抱きつく。
「その方たちが、リゼイラ様を恐ろしい目に合わせたのでしょうか?それでしたら、あたくしのせいですわ。本当に大変な事をしてしまいましたわ!」
「いいや、お前は悪くない」
「本当に?お兄さまは、あたくしを信じてくださいますか?」
「あぁ」
「嬉しい!」
泣き濡れた目で見上げてくる義妹が嘘を言っているなど、デイルには思えなかった。
だから、優しく慰めることを選んだ。
その腕の中で、マリーニエが薄っすらと笑んでいる事など気付きもしなかった。
先程まで泣いていた目が、恐ろしい策謀の光を浮かべているなど思いもしなかった。
デイルが仕事があるからと部屋から出て行くと、マリーニエは微笑んでいた表情をスッと拭い捨てた。
「ナーガ、あの男たちはどうしているの?」
命令しなれた口調で、自分付きの侍女の名を呼ぶ。
ひそやかにその足元に頭を垂れた侍女は、静かに報告を述べる。
「エミール子爵のご子息様たちは、原因不明の病に倒れたと聞いております。噂では死神につかれたとか」
「……役立たずな!」
吐き捨てたマリーニエは、持ち上げた茶器を中身の紅茶ごと露台に叩き捨てた。
飛び散った欠片が、ナーガの手元まで飛んで薄く血が滲む。
だが、侍女は眉一つ動かさず、マリーニエも全く気に止めなかった。
「お兄さまに、変な疑いを持たれてしまっては意味がないのよ!今度は、もっと慎重に…。いいえ、いっそ大胆でも効果的なものが良いわ」
妙案を思いついたようにマリーニエの口角が吊りあがる。
紅くぬられた唇は血を吸ったように禍々しい。
「ナーガ、あの娘の傍付きを引き離す事は出来て?」
「ご命令であれば」
「そう。あの二人、邪魔なのよ。どちらもお兄さまに顔を覚えられているから下手なことはしないで。引き離すだけで良いわ」
「判りました」
「……最初から、こうすれば良かったわ。あぁ、もう直ぐですわ。お兄さま。あたくしがお兄さまの頭痛の種を消し去って差し上げますから」
うっとりと呟かれた声音は、艶めいて、それだからこそ背筋が凍るほど恐ろしいものだった。
歯車は廻された。
狂気と言う名の力に押されて、運命は廻る。
誰にも止められない何かが、動き出したのだ。