16* 咲き初め
パッと目が覚めた。
何か、夢を見たような気がした。
ぼんやりと寝台から起き上がって、寝癖のついた髪で部屋の中を見回した。
まだ外は暗い。夜のようだ。
やわらかな寝台に足を取られながら、ちょっと転びかけながら床に足を着ける。
露台の窓に手を付ければ、ひんやりした硝子の向こうに眠る花園が見える。
迷うように視線を彷徨わせてから、カタンッと窓は開かれた。
あの宴から夜は少し怖い。
それなのに、ハクランは今いないのに。
外に、泉に、行きたかった。
緊張を呑むように細い喉が上下する。
裸の足が芝草を踏む。
夜露がひんやりと白い足を洗う。
優しい風が吹けば、金色の流れを作り出す。
そっと身体を抱きしめて、小さく無意識にため息を吐いた。
憂いに染まった顔は、無邪気さを拭い、大人びた色を乗せる。
勇気を離さないとするように、折れそうに細い手がきゅっと胸の前で組まれる。
清かな水音が聞こえてくる。
揺れる気持ちを抑えながら、泉へと足を踏み入れた。
木々に囲まれた泉は、静寂に満ちていた。
ほろほろと揺れる小花が、夜風に散って波紋を作る。
『……いない?』
求めていた人の姿は、ない。
ずっと来ていなかったから、デイルさまも呆れたかな。
寂しく思いながら泉の縁に座り、冷えた水に指先を浸す。
波立つ水面を見つめているとざわっと泉に眠る精霊たちが、いっせいに目を覚ました。
驚いて目を見張っている前で、泉に現れたのは見慣れた姿。
だが、明らかに違う面立ちの精霊。
『泉を揺らすのは、その名に反しているのではないかい』
『……誰?』
艶然と笑うのは、ハクランと同じ半透明の姿。
『ふふ、ロランという。本当なら、こちらに来るのはあまりよろしくないのだがね』
『ハクランのお友達?』
『似たようなものかな』
嘯くように笑う瞳は、ハクランとは違う鮮やかな青。
『青い目……』
『ん。あぁ、これは貴方がたとは違うよ。この目に血も力もないからね』
『ロラン、何をしている!』
尋ねようと口を開いたリゼイラの声を奪ったのは、厳しいハクランの声だった。
『何だ、もう来たのかい。もう少し、逢瀬を楽しみたかったのに』
至極残念そうな声は、けれど揶揄するような笑みも含んでいる。
『ロラン、何を考えている』
『おや、怖い。ただ、お帰りになる前に少しばかり話をしてみようと思っただけさ』
『ロラン……!』
叱責するような声が、軽やかな声に重なり叩く。
『帰る?』
不思議そうに繰り返したリゼイラの目を覆うように抱きしめたハクランは、厳しい視線をロランを投げる。
『まだ、知らなかったのか……』
『去れ』
『はいはい、帰りましょう』
ロランがふっと痛そうな目を向けた。
『一つ、置き土産だ。公爵の娘には気をつけると良い』
水面に落ちる雫の様に姿を消す寸前の言葉にハクランは眉を寄せた。
意味が掴めないのではない。懸念を裏付けられた事が腹立たしいだけだ。
本当に、人間とは何故こうも愚かなのだ。
『ハクラン……』
戸惑う頼りなげな声音に、意識的に優しい笑みを浮かべる。
『すまない、驚かせてしまったね』
『あの方は?』
『あれは、水華の精霊だ。水の性かいつも気ままに流れているよ』
『……楽しそう』
小さく微笑んだリゼイラに、ハクランも気を緩めたように笑った。
『さぁ、今日はもうお帰り』
『うん。あのね……』
『なんだい?』
風に運ばれる力を感じながらリゼイラは、思いを馳せるように目を閉じた。
『名前』
呟いて、ふっと口を閉ざした。
『夢を見たの。きれいな女の人が、名前を呼んでくれた。……聞いたことのない名前だった』
ロランと話している時に不意に先ほど見た夢の事を思い出した。
ふわふわとした黄色の花に彩られた優しい夢。
『ハクランは、リゼイラって呼ばないね』
腕の中、安堵と共に訪れた眠気にぼんやりと呟く。
『それは、そなたの名ではないよ』
『ちがう、の……?』
眠くて、もう呂律が回らない。ハクランが言っていることも良く判らない。
『そなたの名は、もっと美しい。もっと穏やかだ』
健やかな寝息をたて始めた温もりに、ハクランは慈しむように口付けを落とす。
『“導の花”。幸せを招く名だ。そなたにこそ相応しい名前』
名づけた人の明るい笑顔を思い出し、精霊の顔に偲ぶ微笑みが浮かぶ。
『……ミルレイア』
囁く声は、眠るリゼイラには届かない。
『もう一つ。その名を呼ぶのも近いかもしれない』
次に目を覚ましたら、もう朝だった。
また、ハクランに寝台まで運ばれてしまった。
ちゃんと自分で戻ろうと思っていたのに。
甘えてばっかりではいられない。そう思っているのに、やっぱり会ってしまうと甘えてしまう。
「リゼイラ様。今日は早起きですね」
水差しを持ってきたレジーナが、軽く驚きを滲ませたのに照れたように首を傾げた。
そんなにいつも寝坊してるかな。
「いつもリゼイラ様を起こすのが楽しみなのに、ちょっと残念ですね」
悪戯っぽく笑うレジーナにきょとんとしてしまう。
起こすのが楽しい?
顔一杯に疑問符を浮かべたリゼイラの素直さに、吹き出してしまいそうになってグッと堪えた。
やっぱり可愛いご主人様だ。
「さぁ、今日も綺麗にしましょうか」
楽しそうなレジーナの言葉に頷きながら、鏡の前に座る。
いつもと変わらない一日の始まりだった。
「今日は雨模様ですね」
朝食のお皿を片付けながらレジーナが、窓を見つめながら呟く。
いつも太陽の光をいっぱいに取り込む窓は、水にぬれて透明な筋をいくつも作り出していた。
『雨……』
そう言えば、初めて雨を見た。
窓辺に立って空を見上げると、大きな埃のような雲がいっぱいに広がってそこからポタポタと雫を落としている。
空の上には水差しがあって、それをこぼしているのだろうか。
庭は薄っすらとぼやけていて何だか不思議な光景だ。
空気の匂いも、いつもとちょっとだけ違う。
風が温もって、水気を含んで少し重い。
精霊たちも、何だか身体が重そうにしている。
反対に元気なのは、葉や花の精霊と水の精霊たち。
精霊にも色々居るのだと思うと楽しくなる。
「そうだ。お外に出られないんですから、今日は温室に行ってみませんか?」
『おん、しつ?』
首を傾げると、元気良く頷かれた。
オンシツって何だろう。
何かの部屋だろうか。
「ちょっと離れた場所にあるんですけど、館からそのまま回廊が伸びてるんです。雨でも楽しめるように」
良く判らなかったけれど、レジーナは楽しそうできっと良い所なのだと思った。
「レジーナ、また勝手に……」
呆れ混じりのライドールの小言をいつものように振り切ってレジーナはリゼイラを誘う。
「如何ですか?温室だけで育てられてる植物もいっぱいあるんですよ」
奥の手の様にレジーナが付け加えると、リゼイラの目が輝く。
「それじゃ、お昼が済んだら行ってみましょうね。早速、準備をしてきます!」
ライドールが口を挟むより早く侍女の姿は外に消えた。
付き合いが長いと言うのは、良いばかりではない。
「落ち着きのない」
額を押さえながら言う声には、どこか諦めの様な甘さがあった。
本人はきっと気付いていないのだろうが、ライドールはレジーナにはほんの少し態度が甘くなる。
小さな発見はリゼイラを楽しくさせる。
こうやって傍にいる人たちの事を知っていけるのは嬉しい。
「……リゼイラ様、それでは午前中はどうしましょうか?画集でも持って来ましょうか?」
尋ねてくるライドールに少し考えるように俯いた。
前に貰った画集は、全部見てしまった。何度見てもドキドキするけれど。
「画集でしたらたくさんそろってますよ」
遠慮を見せる令嬢に視線をあわせて、少しだけ誘惑するように言葉を重ねる。
これではレジーナを諌められないな、と苦笑しながら、それでもリゼイラにはこれくらいが丁度良いのだと学びつつあるライドールだ。
やがておずおずとお願いするように頷かれた返事に、かしこまりました、と立ち上がる。
見上げる視線に見え隠れするのは、申し訳なさと本当に良いのかと自問する戸惑い。
そんな懸念を払い除けるように笑うとようやくリゼイラはホッと安堵の表情を見せる。
本当に、どんな境遇にあった方なのだろうか。
日の強さを知らない決めの細かい肌は、数多の女性が羨望の眼差しで見るだろう。
だが、あまりに白すぎると感じるのはライドールが男だからだろうか。
その身体の細さを心もとなく思うのはライドールが下働きの女性を見慣れているからだろうか。
不穏な胸騒ぎを感じながらライドールが、リゼイラにお茶をいれようとした時に扉を叩く音が響いた。
レジーナが戻って来たのかと扉を開くと、そこに居たのはこの館の奥向きを仕切っている侍女頭の伝言を携えた侍女だった。
彼女のことは、ライドールも良く知っていた。
だから、不信に思うこともなく伝言を受け入れた。
リゼイラには聞こえないように伝えられたそれに頷いて、いったん部屋に戻る。
「リゼイラ様。申し訳ありませんが、少し席を外してもよろしいでしょうか。すぐにレジーナも戻ってくると思いますが」
本当に申し訳なさそうなライドールをリゼイラが止めるわけもなく。
リゼイラは、この屋敷に来てから初めて一人きりになった。
ハクランも今は、傍から離れている。
太陽が空にいる間は、仕事があるから仕方がない。
それでも、この頃は夜になるといつも一緒に居てくれるからそれで十分だ。
慈しんでくれる精霊を思い出して、ふっと昨日の名前の事が思い出された。
リゼイラは、違う名前だと言っていた。
その言葉だけは夢うつつの中でも聞き取れた。
それなら。
それなら、本当の名前って何だろう。
名前は、あるのだろうか。
『いたっ……』
ぼんやり考えているとツキンと頭が痛んだ。
まるで考える事を否定するように頭痛がする。
フラフラと椅子に座って、身体を丸めた。
外は降りそぼる雨。
雨垂れに紛れるように、カチャリと扉が開く音がしてレジーナが帰って来たのだろうか重い頭で振り返り、部屋の入り口に立っていた訪問者の姿に息を呑んだ。
「突然、お邪魔してしまって申し訳ありませんわ」
しとやかに部屋に入って来たのは公爵家のご令嬢。
「今日はリゼイラ様とどうしてもお話しがしたくて」
そう言って、マリーニエはとても美しく笑った。




