第12話:病める都
王都の門は腐り落ち、かつての栄華は泥の中に沈みました。
アガサが歩む大通りには、彼女の「毒」に侵された者たちの呻き声が響き渡ります。
目指すは、絶望の根源たる王宮――玉座の間。
そこには、己の罪を棚に上げ、最後まで「救い」を乞う醜悪な権力者たちが待っていました。
老婆が杖をひと振りするたび、智者は狂い、王は動かぬ石像へと変貌します。
そして、闇に染まった玉座の奥から、因縁の主がその姿を現しました。
「……アガサ様。王都の正門が、内側から腐り落ちましたわ」
プリシラが影の触手で瓦礫を掻き分け、崩落した鉄格子の隙間を広げた。
「威厳も、誇りも、ただの錆びた鉄屑ね。……まるで今のこの国のよう」
アガサの鼻腔には、崩れた石材の粉塵と、逃げ惑う群衆が撒き散らした古い油、そして恐怖で逆立った獣のような体臭が届く。
「門を抜けた先、大通りの噴水に死体が浮いています。……あら、以前貴女を罵倒した騎士団の小隊長ですわね」
「鎧を脱ぐ暇もなかったようね。……内臓から沸き立った熱で、自らの鉄の籠の中で蒸し焼きになったのかしら」
アガサの耳は、混乱した街の奥から響く「カン、カン、カン!」という警鐘の、焦燥に満ちた乾いた音を捉える。
「アガサ様、石畳の下を通る水路にも、私の『種』を流しておきました。……もう、この街に逃げ場はありません」
「ええ。美しく着飾った貴婦人も、路地裏の浮浪者も、等しく私の『毒』で結ばれるのよ」
アガサは杖で血溜まりを避け、暗雲に覆われた王宮へと続く、真っ黒に染まった大通りを一歩ずつ踏みしめた。
「……アガサ様。貴族街の窓が、ひとつ残らず閉ざされましたわ」
プリシラが、彫刻の美しいバルコニーを見上げ、クスクスと肩を揺らした。
「カーテンの裏で震えているのが手に取るようにわかるわ。……香水で死臭をごまかそうなんて、愚か極まりないけれど」
アガサの鼻腔には、高級な沈香の香りと、それを突き破って漂い出す、皮膚がただれた際に生じる生臭いタンパク質の臭いが届く。
「あら、あの白亜の屋敷……。かつてアガサ様の研究を『不浄だ』と断罪した、公爵の別邸ですわね」
「ええ。彼の自慢の血統も、今頃はどす黒く変色して、その贅沢な寝床を汚しているはずよ」
アガサの耳は、重厚な扉の奥で「ヒッ……、ヒッ……」と、必死に呼吸を繋ごうとする、かつての権力者の無様な嗚咽を拾う。
「アガサ様。彼、喉に指を突っ込んで、何かを吐き出そうとしています。……毒ではなく、己の罪でも吐くつもりかしら?」
「吐き出せるものなら、試させてあげなさい。……ただし、一度吐き出したものは、二度と肺には戻らないけれど」
アガサが杖を地面に軽く打ち付けると、公爵邸の土台を支える石積みが、まるで骨粗鬆症を患ったかのように、脆く、白く砕け始めた。
「さあ、崩壊の序曲よ。……プリシラ、あの家の影をすべて繋ぎ合わせなさい」
「御意。……暗闇の鎖で、彼らをひとり残らず抱きしめて差し上げますわ」
「……アガサ様。王宮へと続く大階段に、魔術師団が並んでおりますわ」
プリシラが影の中に身を潜めながら、白銀の杖を構えた男たちを冷ややかに見つめた。
「『清浄の光』を掲げているつもりかしら。……彼らの魔力回路、すでに私の『目詰まり』が始まっているというのに」
アガサの鼻腔には、彼らが必死に焚き上げた、魔力を増幅させるための苦い薬草の煙と、死を前にした男たちが放つ、鋭く冷たい金属的な汗の臭いが届く。
「見てください。先頭の魔術師、詠唱の途中で喉を詰まらせましたわ。……言葉が石に変わったような顔をして」
「過剰な魔力供給は、血管を焼き切る劇薬になる。……私が教えた基礎中の基礎を、彼らは忘れてしまったようね」
アガサの耳は、男たちの体内で魔力が暴走し、「パチパチ」と火花を散らしながら神経を焼き切る、微細な破裂音を捉えた。
「アガサ様、彼らの放つ光が、どんどんどす黒い紫に染まっていきます。……美しい、絶望の色ですわ」
「光を信じるから、闇に呑まれた時の恐怖が深くなる。……彼らの自慢の魔法で、自分たちの脳を焼き尽くさせなさい」
アガサが杖をひと振りすると、放たれるはずだった浄化の光が逆流し、魔術師団は悲鳴を上げる間もなく、自らの魔力の炎に包まれて崩れ落ちた。
「……アガサ様。王宮の門まで、あとわずか。……赤い絨毯が、彼らの返り血でさらに深く染まりましたわね」
「歓迎の準備は整ったようね。……さあ、玉座に座る『臆病者』に会いに行きましょうか」
「……アガサ様。王宮の正門、その奥から最上級の結界が展開されましたわ」
プリシラが、視界を遮る透明な壁に影の指先を触れ、不快そうに顔を歪めた。
「『神の息吹』と呼ばれる守護結界ね。……私を追放した後、彼らがどれだけ怯えて過ごしていたかがよくわかるわ」
アガサの鼻腔には、結界が放つオゾンに似た鋭い香りと、その裏側に潜む、腐りかけた権力者たちの爛れた体臭が混じり合って届く。
「アガサ様、この壁……内側の者たちの『生命力』を吸い取って維持されていますわ。なんと浅ましい」
「ええ。国民を見捨て、自分たちだけが生き残るために、残った臣下を文字通り『薪』にしているのよ」
アガサの耳は、結界の維持に耐えきれず、門の内側で兵士たちが「ギ、ギギッ」と骨を軋ませ、絶命していく音を正確に拾った。
「皮肉なものですわね。彼らを救うはずの『光の盾』が、今や彼らを絞り殺す『首枷』になっているなんて」
「プリシラ、その結界の『ひび割れ』に、私の指先を滑り込ませなさい。……愛でてあげるわ、その醜い執着を」
アガサが杖の先で結界の薄い一点を突くと、清浄なはずの障壁が、黒い毒に侵された血管のように網目状に汚れ、崩壊の悲鳴を上げ始めた。
「……アガサ様。扉が開きますわ。……地獄への扉が」
「いいえ。地獄はもう、ここにあるのよ。……さあ、玉座の間へ」
「……アガサ様。玉座の間へ続く回廊、かつての貴女の肖像画が、無残に切り裂かれていますわ」
プリシラが影の触手で、床に散らばったキャンバスの破片を弄び、歪んだ笑みを浮かべた。
「構わないわ。あんな偽りの笑顔、私自身が焼き捨てたかったもの。……それより、この空気」
アガサの鼻腔には、極上のビロードに染み付いた、恐怖による失禁の臭いと、冷え切った贅沢な供物料理が放つ、腐敗し始めの甘ったるい臭いが届く。
「ええ。奥の扉の向こう……王と、数名の賢者たちが、互いの喉を掴み合うような殺気が渦巻いていますわ」
「醜いわね。死が目の前に迫って初めて、自分たちの座る椅子の脆さに気づいたのかしら」
アガサの耳は、豪華な扉の向こうから響く、王の「私を、私だけを助けろ!」という、掠れた、しかし必死な絶叫を捉えた。
「アガサ様。賢者の一人が、貴女に差し出すための『供物』を用意したようです。……自らの弟子の首を」
「薬の材料にもならないゴミね。……プリシラ、扉を開けなさい。私の『診察』を待っている患者たちが、あまりに騒がしいから」
プリシラが影の力で重厚な扉を「ドォォォン!」と吹き飛ばすと、光の消えかけた玉座の間には、絶望に顔を歪めたかつての知人たちが、這いつくばっていた。
「……アガサ様。皆様、驚きのあまり、息をすることすら忘れてしまったようですわ」
「いいのよ、そのまま。……最後の一息まで、私の美しさに、そして死の香りに酔いしれなさい」
「……アガサ、様……。ああ、神よ……! 救済に、戻ってきてくれたのだな!」
玉座の脇で震えていた筆頭賢者が、白髪を振り乱しながらアガサの足元へ縋り寄った。
「救済? 勘違いしないで。……私は、あなたたちの心臓に最後の一撃を加えるために来たのよ」
アガサの鼻腔を、賢者が恐怖を紛らすために噛み締めた、苦い覚醒薬の残臭と、老いさらばえた肉体が放つ、饐えた脂の臭いが突く。
「な、何を……。我々がいなければ、この国の智は途絶えるのだぞ! お前だって、ここで学んだはずだ!」
「智? ……いいえ。あなたたちが蓄えたのは、他者を踏みにじるための『毒』だけ。……プリシラ、彼の喉を塞ぎなさい」
「承知いたしました。……あら、言葉の代わりに、黒い粘液が溢れ出して。素敵」
アガサの耳は、賢者の喉奥で「ゴボッ、ゴボゴボッ」と、汚泥が逆流するような湿った音を逃さない。
「アガサ様。王が、玉座の陰に隠れて震えておりますわ。……まるで、罠にかかったネズミのよう」
「いいわ、放っておいて。……まずは、私からすべてを奪った、この賢者様の『記憶』から腐らせてあげる」
アガサが杖の先を賢者の額に突き立てると、彼の目は濁り、これまでに積み上げた呪文の数々が、おぞましい数式となって宙に霧散していった。
「……アガサ様。彼、もう自分の名前も、魔法の使い方も……ただの『無』になってしまいましたわ」
「ええ。何もない頭で、ただ死を待つ。……それがあなたにふさわしい、最後の処方箋よ」
「……アガサ様。王が、ついに腰を抜かして玉座から転げ落ちましたわ」
プリシラが影の指先で、金糸の刺繍が施された王の重いマントを、死装束のように引きずった。
「あ……あが……アガサ……。余が悪かった! 領地も、金も、地位も……すべて、すべて返してやる!」
王の喉からは、王冠の重みに耐えかねた、潰れた蛙のような情けない声が漏れる。
「返してやる? ……ふふ、傲慢ね。それは最初から、あなたが奪い取ったものに過ぎないのに」
アガサの鼻腔には、王が恐怖で漏らした尿の臭いと、冷え切った金貨が放つ、無機質で残酷な金属臭が混じり合って届く。
「アガサ様。彼、隠し持っていた『賢者の石』のまがい物を飲み込もうとしています。……永遠の命を求めて」
「飲み込ませてあげなさい。……ただし、それは命を繋ぐ石ではなく、内側から体を『宝石』に変える呪いよ」
アガサの耳は、王の体内で細胞が結晶化し、「ピシ、ピシッ」と硬質な音を立てて凍りついていく音を正確に拾った。
「アガサ様! 見てください、彼の指先が、透き通った不気味な紅蓮の色に……。動く彫刻の完成ですわ」
「動けない彫刻よ。意識だけをその石の中に閉じ込め、国が滅びゆく様を永遠に見続けさせるわ」
アガサは杖を振るい、王の顔が完全に硬質な石に覆われる直前、その絶望に満ちた瞳を冷たく見下ろした。
「……アガサ様。玉座の間には、もう『人間』は一人も残っておりませんわ」
「ええ。静かなものね。……でも、まだ一人。この腐った劇場の幕を引くべき相手が残っているわ」
「……アガサ様。そのお方の影だけが、この惨状の中でも揺らぐことなく凛としていますわ」
プリシラが、玉座の背後に広がる深い影のカーテンを見つめ、警戒と期待の混じった吐息を漏らした。
「隠れていても無駄よ。私の鼻は、あなたのまやかしの『聖域』が放つ、吐き気のするような白百合の香りを嗅ぎ分けているわ」
アガサの鼻腔を、崩壊しつつある王宮の死臭を強引に上書きするような、あまりに清廉で、それゆえに毒々しい花の香りが突く。
「……やはり、あなたでしたか。アガサ、かつての私の誇り」
影を割り、ゆっくりと姿を現したのは、アガサに医術と魔術の基礎を教え込み、そして最後には彼女を「穢れ」として切り捨てた、この国の最高位聖職者——大司教だった。
「誇り? 冗談はやめて。……あなたが私に教えたのは、他人の命を天秤にかけ、都合の悪い方を切り捨てる『選別』の技術だけよ」
アガサの耳は、大司教が握りしめるロザリオの鎖が、微かに「チリ……」と震える音を逃さない。
彼の手のひらからは、死の恐怖ではなく、自分こそが正義であると疑わない狂信者の、熱を帯びた汗の臭いが漂う。
「アガサ様。この男の瞳、まだ貴女を『病』として浄化しようとしていますわ。……なんと救いようのない」
「救いは、もうどこにもないわ。……大司教、あなたの喉に、私がこれまで味わったすべての『沈黙』を詰め込んであげる」
アガサが杖を高く掲げると、玉座の間に溜まった濃密な闇が、巨大な渦となって大司教へと襲いかかった。
窓の外では、王都を飲み込む黒い雨が降り始め、かつての栄華は完全に泥の中へと沈んでいった。
「……アガサ様。これ以上ない絶望の調べですわね」
「ええ。さあ……最後の診断を始めましょうか」
アガサの瞳は、降り注ぐ闇の中で、残酷なまでに美しく輝いていた。
第12話をお読みいただき、ありがとうございました。
王都を蝕んだ「病」の正体は、他でもないアガサが長年培った知識と、彼女が味わわされた絶望の結晶でした。
王を宝石(石像)に変え、賢者の脳を「無」に書き換える。それは死よりも重い、アガサにしか成し得ない精密な復讐。
そして、ついに姿を現した大司教。
アガサに全てを教え、同時に全てを奪った「師」との最終診断が始まります。
清廉な白百合の香りを漂わせる大司教に対し、アガサが突きつける「最後の処方箋」とは何か。
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