第11話:腐敗の行進
聖都を追放されたアガサが、次に目を向けたのは彼女を切り捨てた「王都」でした。
しかし、彼女は軍勢を率いることも、破壊魔法を放つこともしません。
街道で出会った役人、そしてかつて自らの薬草園を焼いた因縁の調剤師。
アガサは彼らの肉体に、そして王都への報告書に、目に見えぬ「絶望」を仕込みます。
それは慈悲深い聖女がかつて与えた「救い」の反転。
誰にも気づかれぬまま、王都という巨大な生命体が内側から腐り落ちていく、静かなる包囲網の記録をどうぞ。
「……アガサ様。この街道の先、宿場町がありますわ」
プリシラが影の触手を路面に這わせ、獲物の振動を読み取った。
「あぁ、あそこには『王都の目』がいるはずよ。私の追放を主導した、あの賢者の弟子が」
アガサの鼻腔には、街道沿いの馬糞の臭いと、湿った革の焼けるような臭いが届く。
「復讐の連鎖……素敵ですわ。喉の渇きはどうですか?」
「最高よ。あいつらが溜め込んだ『知識』を、すべて膿に変えて吐き出させてやるわ」
アガサの耳は、遠くから聞こえる馬車の車輪が「ゴトゴト」と不規則に跳ねる音を捉えた。
「あら、一台こちらへ。……御者は、まだ若い命の香りがします」
「止めなさい。まずは、王都へ向かう便りを『汚染』するのが先よ」
アガサの指先が虚空を掻くと、黒い蝶のような呪いの粒子が、風に乗って舞い上がった。
「……アガサ様、悪い顔。聖女の面影が、完全に溶けてなくなりましたね」
「捨てたと言ったはずよ。今の私は、ただの『死に至る病』そのものよ」
「……アガサ様、馬車が止まりましたわ。御者が首を傾げています」
プリシラが影を伸ばし、街道の真ん中で立ち往生する一台の馬車を指した。
「当然よ。馬の足元の感覚を、少しだけ『狂わせて』おいたもの」
アガサの鼻腔には、怯えた馬が流す泡混じりの汗と、土埃の乾いた臭いが届く。
「荷台の中……あら、上品な革の匂い。王都の役人かしら?」
「ええ。私が処方した、最高級の強壮剤を愛用していた男よ」
アガサの耳は、馬車の窓が開く「ガラリ」という音と、男の苛立った舌打ちを拾った。
「おい! 何をしている。急げと言っただろう!」
「ふふ、元気な声。アガサ様、彼の心臓、少し叩いて差し上げます?」
「いいえ。まずは彼の自慢の『脚』からよ。……立てない恐怖を、車内でじっくり味わわせるの」
アガサが杖を軽く一振りすると、馬車の影が生き物のように蠢き、車内へ這い入った。
「……アガサ様。中から、綺麗な悲鳴が聞こえ始めましたわ」
「耳を澄ませなさい。それが、私たちが奏でる新しい『聖歌』よ」
「……アガサ様。役人の男、窓から身を乗り出して助けを求めていますわ」
プリシラが、白目を剥いて悶える男の指先を、影で弄びながら嘲笑った。
「あぁ……が……足が、感覚が……ない……ッ!」
男の喉からは、砂利を噛んだような、ざらついた絶望の声が漏れる。
「感覚がない? おかしいわね。あれほど贅沢を尽くして肥え太らせた肉体なのに」
アガサの鼻腔には、男が恐怖で垂れ流した冷や汗と、高級な香水の甘ったるい死臭が混じり合う。
「アガサ様、この男の懐に、王都への報告書があります。……破り捨てますか?」
「いいえ。インクを『毒』に変えなさい。読んだ者の指先から腐り落ちるように」
「最高。……あら、紙が黒く変色して、まるでおぞましい鱗のよう」
アガサの耳は、男の膝関節が「ピキ、ピキ」と、薄い氷が割れるような音を立てるのを逃さない。
「アガサ様、彼はもう言葉を失いました。……ただの震える肉の塊です」
「置いていきなさい。王都へ辿り着く頃には、彼は自分の名前すら忘れているわ」
アガサは一歩も立ち止まらず、動かなくなった馬車の横を、無情に通り過ぎた。
「……アガサ様。次の犠牲者が、向こうから歩いてきますわ」
プリシラが、街道の先で揺れる小さな松明の火を指差した。
「夜回りか、あるいは逃亡者ね。……あの足音、どこか聞き覚えがあるわ」
アガサの鼻腔を、湿った土の匂いと共に、安っぽい消毒薬の鋭い香りがかすめる。
「あら、同業者の香り。王都から派遣された、若い調剤師かしら?」
「ええ。かつて私の薬草園を『不潔だ』と罵って焼き払った、高慢な小僧よ」
アガサの耳は、男が恐怖を紛らすために呟く、拙い防御呪文の詠唱を拾った。
「呪文で防げると信じているなんて。……無知は最大の不治の病ですわね」
「教えてあげなさい。真の医術とは、生かすためではなく、壊すためにあるのだと」
アガサが杖の石突きを地面に「ドスン」と叩くと、街道の泥が黒く脈打ち始めた。
「アガサ様。彼の足元、すでに影の牙が届いていますわ。……いつ噛ませましょう?」
「彼が一番『希望』を感じる瞬間よ。……私の顔を見て、救いを求めたその瞬間にね」
「……ア、アガサ様!? なぜ、こんなところに!」
男の顔から血の気が「スッ」と引き、手に持った松明が激しく震えた。
「あら、覚えていてくれたのね。私の大切な『薬草園』を焼いた、あの日の熱気を」
アガサの鼻腔を、男の恐怖が引き起こした酸っぱい胃液の臭いが突く。
「ま、待ってください! 私は命令に従っただけで……ヒッ、足が……!?」
「アガサ様。彼のふくらはぎ、筋肉が溶けて液体になっているようですわ」
プリシラが男の足元で、泥のようにドロドロと崩れる肉を眺めて悦に浸る。
「その薬箱を見せなさい。……ふん、中身はただの『まやかし』ね」
「アガサ様、彼が自分の薬を飲もうとしています。……止める必要もありませんわね?」
「ええ。私が魔法をかけたわ。それはもう、命を繋ぐ水ではなく『渇きを増幅させる劇薬』よ」
男が必死に飲み込んだ小瓶の中身が、彼の喉を「ジジュッ」と焼く音が暗闇に響いた。
「アガサ様。彼、自分の喉を掻きむしって……素敵な指の動きですわ」
「自業自得よ。さあ、その絶望を王都まで持ち帰りなさい」
「……アガサ様。この男、まだ這いずろうとしていますわ」
プリシラが、泥に顔を埋めながら王都の方角へ指を伸ばす男を、爪先で小突いた。
「執着ね。その見苦しい生命力、以前の私なら褒めてあげたでしょうけれど」
アガサの鼻腔には、男の指先から滲み出した、鉄臭い血と泥の混じった臭いが届く。
「アガサ様、彼の背中に『伝令』の印が浮き出ています。……王都へ異変を知らせる術式ですね」
「消させはしないわ。むしろ、その術式に私の『呪い』を上書きしてあげましょう」
アガサが杖をかざすと、男の背中で光っていた紋章が、不気味な紫黒色へと変質した。
「ふふ、これで彼が王都の門を潜った瞬間、結界が内側から腐り落ちますわ」
「ええ。彼自身が、王都を滅ぼすための『生きた保菌者』になるのよ」
アガサの耳は、男の肺が「ヒュー、ヒュー」と、破れた蛇腹のように鳴るのを冷酷に聞き届けた。
「さあ、行きなさい。最期まで『役に立つ』人間として、走り抜けるがいいわ」
アガサは見向きもせず、月明かりに照らされた孤独な街道を、再び歩き始めた。
「……アガサ様。王都の尖塔が、夜霧の向こうにうっすらと見えてきましたわ」
プリシラが影の衣を翻し、遠くそびえ立つ権力の象徴を忌々しげに指差した。
「あの高い場所から、私を見下し、ゴミのように捨てた連中の巣窟ね」
アガサの鼻腔には、風に乗って流れてくる、王都特有の贅沢な香料と、下水の入り混じった傲慢な臭いが届く。
「門番たちが、街道を這う『保菌者』に気づいたようですわ。……ほら、駆け寄っていく」
「慈悲の心で抱き上げればいいわ。……それが自分たちの『死』になるとも知らずに」
アガサの耳は、遠くで響く門番の「大丈夫か!」という叫びと、金属鎧が擦れる「カチャリ」という音を拾った。
「アガサ様。彼が触れた瞬間、腐敗が伝染りました。……鎧の隙間から、黒い筋が」
「いい速度ね。私の憎しみは、どんな名医の術式よりも速く、深く浸透するわ」
アガサは杖を強く握り直し、王都を包囲するように広がる夜の闇に、冷たい笑みを向けた。
「アガサ様、仕上げの呪文は?」
「言葉なんていらないわ。……ただ、静かに、確実に、その心臓を止めればいい」
「……アガサ様。王都の巨大な門が、ゆっくりと閉ざされていきますわ」
プリシラが影の底から顔を出し、慌てふためく衛兵たちの騒乱を愉しげに報告した。
「遅いわ。扉を閉めたところで、絶望はすでに内側に招き入れられた後よ」
アガサの鼻腔には、閉まりゆく門の隙間から漏れ出す、古い石材の冷気と、パニックに陥った人間たちが放つ独特の、鼻を突くアンモニア臭が届く。
「見てください。あの高く聳える賢者の塔。……あそこの主も今頃、自分の指先が黒ずんでいくのに気づいているはずですわ」
「ええ。彼が信奉する『清浄なる魔力』が、私の中毒症状を前にいかに無力か、その身を持って知るがいいわ」
アガサの喉の奥からは、かつての聖女としての慈愛ではなく、復讐者としての渇いた、地を這うような笑みが漏れる。
視界の端で、王都を照らしていた美しい街灯が、ひとつ、またひとつと、腐食した回路のように力なく消えていく。
「……アガサ様。夜が、本当の意味で支配を始めましたね」
「そうね。明日の太陽が昇る頃、あそこは壮麗な墓標に変わっているわ」
アガサは翻した黒い法衣を夜風になびかせ、王都を見下ろす丘の上で、杖を深く、深く大地へ突き立てた。
もはや彼女の背中に、救いを求める声は届かない。あるのは、闇に溶けゆく心地よい静寂だけだった。
「さあ、プリシラ。……崩壊の音を、特等席で聴きましょうか」
二人の影はひとつに重なり、断末魔すら呑み込む深い闇の一部となって、王都の最期を見つめ続けた。
第11話をお読みいただき、ありがとうございました。
王都の門番が、衰弱した伝令を「助けるために」抱き上げた瞬間、その国の運命は決しました。
アガサが作り出したのは、物理的な毒ではなく、医学的知見に基づき「自己治癒」や「防御術式」そのものをバグらせる致命的なエラー。
賢者たちがどれほど高度な魔法を操ろうとも、その拠って立つ肉体と神経が崩壊すれば、彼らはただの震える肉塊に過ぎません。
「夜が、本当の意味で支配を始めましたね」
プリシラの言葉通り、王都は今や巨大な病棟、あるいは墓標へと変貌しようとしています。
一人の老婆がもたらす「静かなる終焉」。
この冷徹な復讐劇にゾクッとしていただけましたら、ブックマークや評価などで応援いただけると幸いです。




