第10話:静寂の蹂躙
聖都を追われたアガサが辿り着いたのは、かつて彼女の献身によって支えられていた村。
しかし、そこに「聖女」の姿はありません。
夜の帳に紛れ、彼女が行うのは「往診」という名の復讐。
かつて自らが取り除いた病、自らが癒やした傷――。
返却を求める彼女の杖が地面を叩くたび、村人たちは自らの肉体が「借り物」であったことを、絶望と共に思い知らされます。
一晩で書き上げられる、静かなる絶望の診察録。どうぞご覧ください。
「……静かですね。まるでもう、誰も住んでいないみたい」
プリシラが、アガサの影から這い出し、村長の家の重厚な扉を指先でなぞった。
「寝静まっているだけよ。自分たちの足元が腐り始めていることも知らずに」
アガサの鼻腔には、石造りの家々から漂う、消えかけの薪の臭いと、家畜の生臭い体臭が届く。
「アガサ様。あの窓、村長の寝室ですわ。脂の乗った心音が聞こえます」
「ええ。私の調合した強心薬で、無理やり延命している醜い心臓ね」
アガサは杖の先を、凍てついた地面に「コン」と静かに打ち立てた。
「返していただきますか? その……借り物の命」
「いいえ。一気に奪うのは慈悲よ。少しずつ、組織を壊死させていくの」
アガサの指先から、黒い霧のような魔力が、鍵穴を通って家の中へと染み込んでいく。
「ふふ、『遅効性の絶望』。貴女の真骨頂ですね」
「黙って見ていなさい。明日の朝、彼が最初に感じるのは、自分の足が動かないという恐怖よ」
二人の影が、月光に照らされた扉に、巨大な死神の鎌のような形を刻みつけた。
「……アガサ様。奥の寝室から、嫌な音が聞こえ始めましたわ」
プリシラが耳を扉に押し当て、恍惚とした表情で囁いた。
「『ゴボリ』……肺に水が溜まる音ね。私がかつて抜いてあげた水よ」
アガサの鼻腔には、密閉された室内から漏れ出す、湿ったカビと老人の加齢臭が混じった臭いが届く。
「苦しそう。助けを呼ぶ声さえ、泡になって消えていく」
「当然よ。声帯の浮腫もセットで処方したのだから」
アガサの掌には、魔力を通じた村長の苦悶が、微かな振動となって伝わってくる。
「ねえ、アガサ様。村長、必死に枕元の鈴を掴もうとしていますわ」
「無駄よ。指先の神経は、もう絹糸のように細く、脆くなっている」
アガサは冷たく笑い、杖の先をさらに深く地面へ突き立てた。
「残酷……。でも、救いを与えたのも貴女、奪うのも貴女なのですね」
「救いなど、ただの貸しよ。利息を乗せて返してもらうわ」
暗闇の中で、村長の家全体が「ミシリ」と、巨大な棺桶のように軋んだ。
「……アガサ様。お隣の家でも、赤ん坊が泣き止みましたわ」
プリシラが隣家を指さす。窓の奥で、揺り籠が「ギィ、ギィ」と不吉な音を立てて止まった。
「あの家の子は、私が難産の末に取り上げた子ね。……今、その呼吸を少しだけ重くしたわ」
アガサの鼻腔には、夜風に乗って、赤ん坊の甘いミルクの臭いと、微かな高熱の熱気が混じり合う。
「母親が慌てて起きました。……あら、彼女の膝も崩れましたわね」
「カルシウムの収奪よ。私に感謝もせず、走り回っていた報いよ」
アガサの耳は、壁越しに「ドスン」と人体が倒れる重い音と、喉を掻きむしる喘鳴を拾う。
「一晩で、この村は動けない肉の貯蔵庫になりますね」
「死なせはしないわ。ただ、明日からの日常が地獄に変わるだけ」
アガサの指先が、冷え切った大気をピアノを弾くように叩く。
「処方箋の仕上げは?」
「絶望という名の、特製スープよ。誰にも飲み干せはしないわ」
闇に沈む村の家々から、連鎖するように「ゴフッ」と苦悶の吐息が漏れ出した。
「……アガサ様。井戸の広場に、数人集まってきましたわ」
プリシラが影の触手を伸ばし、異変を察知して這い出してきた村人たちを数える。
「松明の火が揺れているわね。……あぁ、あの脂ぎった肉屋の主人だわ」
アガサの鼻腔を、男が振り回す松明の不完全燃焼な煙と、焦げた獣脂の臭いが掠める。
「腰が引けています。アガサ様の影を見て、幽霊だと叫んでいますわ」
「幽霊なら救いがあったでしょうね。……残念、生身の復讐者よ」
アガサの耳は、男の心臓が「ドッドッ」と、壊れた太鼓のように早鐘を打つ音を捉えた。
「血圧を上げますか? それとも、一気に下げますか?」
「破裂させなさい。私を『魔女』と呼んで石を投げた、その太い血管を」
「御意。……あら、いい音。風船が弾けるみたい」
闇の中で「パンッ」と湿った音が響き、松明が泥の中に虚しく落ちた。
「さあ、次。夜明けまでに、私の『患者』全員を絶望の底へ沈めるわよ」
「……アガサ様。井戸の広場、素敵な地獄絵図ですわ」
プリシラが、倒れた肉屋の男の影を吸いながら、陶酔した声を上げた。
「次はあの井戸よ。村中の人間が、私の浄化薬で清められた水を飲んでいた場所」
アガサの鼻腔には、石造りの井戸から立ち昇る、生温かい湿気と古びた苔の臭いが届く。
「中身、入れ替えましたの? 猛毒に」
「いいえ。毒なんて上等なものじゃないわ。……ただの『拒絶』よ」
アガサが杖で井戸の縁を叩くと、水面が「ドロリ」と不気味に濁り始めた。
「飲んだ者の内臓が、水を水と認識できなくなる。……喉が焼けるような渇きね」
「ふふ、水の中にいながら、渇きに悶えて死ぬ。……最高に皮肉ですわ」
アガサの耳は、喉を鳴らして水を求めた村人たちが「カハッ」と、砂を吐くような音を拾う。
「アガサ様、村長が窓から這い出してきましたわ。……無様な芋虫のよう」
「見せつけなさい。彼らが守りたかった『平和』が、いかに脆い薬の上に成り立っていたかを」
月光に照らされた井戸の周囲で、人々は救いの水を求め、泥を噛んでのたうち回った。
「……アガサ様。村長が、貴女の靴を舐めようとしていますわ」
プリシラが、泥にまみれて這い寄る老人を、汚物を見るような目で見下ろした。
「あぁ……が……アガサ、様……助け……て……」
老人の喉からは、割れた笛のような、かすれた喘鳴が漏れる。
「助ける? 私が? ……可笑しなことを。あんなに私を追い出したくて必死だったのに」
アガサの鼻腔を、老人の死の恐怖が混じった、酸っぱい汗の臭いが刺す。
「この男、喉の粘膜が癒着しかけています。……剥がしますか?」
「いいえ。そのまま、言葉にならない懺悔を飲み込ませておきなさい」
アガサは冷たく笑い、杖の先で老人の震える手を、容赦なく踏みつけた。
「ヒッ……い、いぎぃッ!」
「痛い? ……そう。それが生きているという証明よ。一生噛み締めなさい」
「アガサ様。村の鐘が、風で虚しく鳴っていますわ。……終焉の音ですね」
「ええ。もう二度と、この村に安らかな眠りは訪れないわ」
「……アガサ様。教会の鐘楼に、若い聖職者が隠れていますわ」
プリシラが影を長く伸ばし、怯える獲物の位置を正確に指し示した。
「私の弟子だった男ね。私が追放されるとき、真っ先に目を逸らした……」
アガサの鼻腔には、古びた教会の香炉から漏れる、安っぽい没薬の香りが届く。
「彼、神に祈っています。……面白い。助けが来ると信じているのかしら」
「祈りなど、ただの逃避よ。……プリシラ、彼の肺から空気を奪いなさい」
「承知いたしました。……あら、喘ぐ音がまるで壊れたフイゴのよう」
アガサの耳は、鐘楼の上で「カハッ、カハッ」
と、真空に放り出された魚のような音を拾った。
「神様は、彼を助けてくれないのですか?」
「神は沈黙がお好きなのよ。……私も、今はその静寂が心地よいわ」
アガサは杖を鳴らし、礼拝堂の扉を「バタン」と、影の力で閉ざした。
「……アガサ様。村中が、静かな絶望の繭に包まれましたわ」
「ええ。誰も死ねない、誰も動けない。……完成ね、私の最高傑作が」
「……アガサ様。東の空が、白み始めていますわ」
プリシラが影の衣を揺らし、名残惜しそうに薄明かりを見上げた。
「夜明けね。……彼らにとって、一生終わることのない悪夢の始まりよ」
アガサの鼻腔には、静まり返った村から漂う、冷え切った汗と絶望が凝縮された、重苦しい空気が届く。
「見てください。村長も、肉屋も、聖職者も……みんな、同じ泥の色をしています」
「平等でいいじゃない。私の『診断』の前では、肩書きなんて無意味よ」
アガサは、指先で杖の冷たい感触を確かめ、一度だけ村の惨状を振り返った。
舌の奥には、すべてを壊し尽くした後の、乾いた砂のような虚脱感と、鋭い快感が混じり合う。
「……満足ですか? 聖女様」
「ええ。心底、清々しいわ。……もう、何も思い残すことはない」
アガサの喉を、夜明けの冷たい風が、祝福の口づけのように滑らかに撫で上げていく。
彼女の背後で、かつての村は音のない地獄と化し、ただ朝霧の中に静かに沈んでいった。
「行きましょう、プリシラ。次は……この国を処方し直さなければならないわ」
「ふふ、どこまでも。……貴女が闇に溶け切るその日まで」
二人の影は、昇り始めた太陽に抗うように、さらに深い奈落の奥へと歩みを進めた。
第10話をお読みいただき、ありがとうございました。
村長、赤ん坊、肉屋、そしてかつての弟子……。
アガサは誰一人として殺さず、しかし誰一人として「人」としての生活を営めぬよう、精密にその機能を奪い去りました。
水の中にいながら渇き、生きながらにして壊死していく。
プリースト(司祭)としての知識が、これほどまでに残酷な武器へと反転する様は、神の沈黙よりも深く、重い恐怖を村に刻みました。
「この国を処方し直す」
村という小さな器官を潰したアガサの次なる標的は、この歪んだ国そのもの。
闇に溶けゆく老婆と妖精が、次にどのような「メス」を入れるのか。
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