第9話:捨てられた聖女と、影の揺籃
城門が閉ざされ、勇者も聖都も闇の向こうへ消えました。
後に残されたのは、一人の老婆と、彼女を甘美な地獄へと誘う妖精だけ。
アガサが向かったのは、かつて慈愛を持って接したはずの近隣の村。
しかし、そこに「救済」を届ける聖女はもういません。
恩を仇で返した者たちへ、彼女が処方するのは、死よりも重い「代償」の味。
夜の帳に紛れ、老いたプリーストの残酷な往診が始まります。
ガイルを泥濘に残し、アガサが歩き出すと、背後で城門の巨大な鎖が「ガチャン」と、奈落の蓋を閉めるような重厚な音を立てた。
アガサの鼻腔には、城内の豪奢な香水の残り香をかき消す、夜の森が放つ湿った青臭さと、腐りかけの落ち葉の臭いが入り込む。
口内に広がるのは、雨上がりの冷たい大気に含まれる、古い石壁の染みのような、無機質でざらついた土の味だ。
「……アガサ様。ようやく、二人きりですね」
プリシラの囁きは、耳元で薄氷が割れるような、鋭くも艶やかな響きを持ってアガサの鼓膜を震わせた。
アガサの背中に触れる彼女の手は、死後数時間を経過した死体のように冷たく、それでいて異常なほどに柔らかな弾力を持っている。
プリシラの影からは、地下の奥底で熟成された、古びた白ワインの酸味と、湿った黒土が混ざり合った濃厚な香りが立ち昇る。
彼女が歩くたびに、アガサの足首には、見えない絹糸で縛り上げられるような、細く、冷酷な締め付けの感触が走った。
アガサの耳は、暗闇の奥でうごめく小さな獣たちの足音や、樹液が幹を伝う「ピチャリ」という微細な音を、異常な鮮明さで捉える。
視界の先、街道を照らす月光は、毒々しい青白さを帯び、アガサの行く末を照らす死装束のように寒々しく広がっている。
空気中に漂うのは、遠くの沼地から流れてくる、発酵した藻類と硫黄の混じった、鼻の奥をツンと刺すような刺激臭だ。
アガサの指先が触れる古い杖の木目は、彼女の魔力を吸い、内側から「ドクン」と、生き物のような脈動を伝え始めた。
アガサの喉を、夜霧に含まれる細かな氷の粒が、冷たいヤスリのように撫で、不快な渇きと心地よい痛みを同時に与える。
彼女は、自身の血管を流れる血が、裏切りの熱を捨て、影の冷たさと同化していく「変質」の味を静かに楽しんだ。
闇の奥から、ガイルの絶叫さえ届かないほど深い、静寂という名の捕食者の吐息が、アガサの全身を優しく包み込む。
街道を進むアガサの背後で、夜鳥が「ギャア」と不吉な声を上げ、湿った闇の静寂を鋭く切り裂いた。
アガサの鼻腔には、雨を含んだ土から這い出してきた、ミミズや這い虫たちが放つ、独特の生臭い泥の臭いが届く。
舌の上には、霧と共に漂う針葉樹のヤニの、喉を焼くような粘りつく苦みと、冷たい湿り気が居座り続けた。
「ふふ、あの男……今頃は自分の指さえ動かせず、泥を啜っているのでしょうね」
プリシラの笑い声は、壊れたバイオリンの弦を弾くような、震える高音となってアガサの鼓膜を執拗に撫でる。
彼女の細い腕がアガサの肩を抱くと、そこからは古びた墓標にこびりついた、芯まで凍てつく石の冷感が伝わってきた。
プリシラの影からは、闇の中で発酵した野生のベリーのような、甘酸っぱくも腐敗を予感させる、濃厚な香りが立ち昇る。
アガサの肌には、彼女の髪が掠れるたび、濡れた蜘蛛の糸が絡みつくような、不快で逃げ場のない粘り気が走った。
アガサの耳は、森の奥深くで大木が自身の重みに耐えかね、内側から「ミシミシ」と繊維を千切る終焉の音を拾う。
行く手を阻む深い霧は、月光を乱反射させ、アガサの視界を、古い白内障を患った眼球のような白濁した世界に変えていく。
空気中には、獣が獲物を仕留めたあとに残した、新鮮な内臓の熱と、鉄錆の混じった、生温かい風が漂っていた。
アガサの指先が触れる自らの唇は、もはや体温を失い、硬化した蜜蝋のような、無機質で滑らかな感触へと変貌している。
アガサの喉を、湿った大気の中に潜む、極小の胞子が、ざらついた布のように不快に、そして深く覆い尽くした。
彼女は、自身の肺が吸い込む空気が、もはや生命を維持するための酸素ではなく、影の一部となるための「毒」であると理解する。
闇の奥で、誰かが死者の名前を呼ぶような「カサリ」という微細な音が、アガサの新たな心音と同調するように響いた。
「……アガサ様。さっきから、あの哀れな男のことばかり考えていらっしゃいますね?」
プリシラが、アガサの耳たぶを冷たい唇でなぞるように囁いた。
その声には、嫉妬に似た鋭い棘が含まれている。アガサは歩みを止めず、前方の暗闇を見据えたまま、低く、掠れた声で応えた。
「考えてなどいないわ。ただ、自分の『処方』が、どの程度の時間で彼を完全に壊すかを計算していただけよ」
「嘘。貴女の指先、微かに震えていましたもの。慈悲ですか? それとも……執着?」
プリシラの細い指が、アガサの顎を強引に上向かせる。
彼女の瞳は、闇の中で獣のように金色に濁り、不気味に発光していた。
アガサはその視線を真っ向から受け止め、薄く笑みを浮かべる。
「執着よ。彼が二度と立ち上がれず、一生泥を這いずり回るという結果に対する、ね。プリシラ、貴女は私がまだ『聖女』の残滓を抱えているとでも思っているの?」
「いいえ。そうであってほしくないだけ。貴女を汚泥から救い出したのは、神でもあの無能な英雄でもなく、私の影なのですから」
プリシラは満足げに喉を「ゴロゴロ」と鳴らし、アガサの首筋に顔を埋めた。
そこから漂う、冬の土のような冷たい香りがアガサの肺を満たしていく。
「……分かっているわ。今の私を支えているのは、貴女の呪いと、私の憎悪だけ」
アガサの言葉に、プリシラは狂おしいほどの喜びを露わにし、アガサの腕を強く引き寄せた。
「そう、それでいいのです。さあ、行きましょう。夜はまだ始まったばかり。貴女を裏切った世界が、どれほど脆く、そして美味しい『味』がするのか、もっと教えて差し上げますわ」
二人の足音が、濡れた落ち葉を踏みしめる「カサリ、カサリ」という乾いた音だけを、夜の森に響かせていった。
「……アガサ様。足取りが軽いですね」
影の中からプリシラが顔を出し、アガサの横顔を覗き込んだ。
「重荷を捨てたもの。当然よ」
アガサは前を見据えたまま、短く応える。
「あの男の絶叫、耳に残っていますか?」
「いいえ。ただの雑音だわ」
「ふふ、冷酷。でも、そこが堪らなく愛おしい」
プリシラがアガサの腕に、氷のような指を絡める。
「愛? 貴女にあるのは、執着だけでしょ」
「同じことですわ。貴女が壊れるまで、私が支えてあげる」
アガサは鼻で笑い、湿った地面を強く踏みしめた。
「壊れるのは私じゃない。この世界よ」
「素敵。では、次はどこを腐らせましょうか?」
「まずは、あの男を英雄と崇めた、愚かな村からね」
二人の影が月光の下で一つに重なり、夜の奥へと消えていった。
「……アガサ様。あの村の灯りが見えますわ」
プリシラが遠くの微かな光を指さし、舌なめずりをした。
「私の治癒に、あぐらをかいていた連中の家ね」
アガサの鼻腔を、家々から流れる安っぽい薪の煙臭さがかすめる。
「何を奪いましょう? 食料? 誇り? それとも……」
「すべてよ。まずは『健康』という幻想から」
「いいですね。絶望の処方箋、書き放題ですわ」
プリシラの影が、アガサの足元から村の方角へ「スルスル」と伸びる。
「……アガサ様、怖くはありませんか? 人を捨てるのが」
「捨てたのではないわ。ようやく、対等な重さになっただけよ」
アガサの指先が、枯れ木のような杖を強く握りしめる。
「神に見捨てられた気分は?」
「最高よ。あんな無責任な視線、もう必要ないもの」
二人の笑い声が、夜の静寂を冷たく、鋭く切り裂いた。
「……アガサ様。村の入り口、誰か立っていますわ」
プリシラが目を細め、闇を透かして囁いた。
「見張りの若造ね。以前、私の薬で熱を下げた子よ」
アガサの鼻腔を、若者の安っぽい体臭と、雨に濡れた革鎧の臭いが突く。
「恩返し、させますか?」
「ええ。私が治したその脚、もう一度折ってあげるわ」
「ふふ、合理的。再発……いえ、再構築ですね」
影が若者の足首に「ヌルリ」と絡みつき、骨が軋む音を待つ。
「アガサ様、躊躇いは?」
「あるわけないでしょ。あの子、あの時お礼すら言わなかったもの」
「あら、根に持っていらしたのね。可愛い」
アガサは杖を突き、冷徹な一歩を踏み出した。
「私は聖女じゃない。ただの、執念深い老婆よ」
「最高ですわ。さあ、夜の往診を始めましょう」
「……誰だ! 止まれ!」
若者の声が、暗闇の中で「ヒュッ」と情けなく裏返った。
「私よ。以前、あなたの高熱を下げた『聖女』よ」
アガサは影の中からゆっくりと姿を現し、冷たく微笑む。
「ば、婆さんか……。悪いが、村は今、余所者を通さない。特にあんたみたいな不吉なのは」
若者の鼻を、アガサのまとう深い土と腐敗の臭いが突き刺した。
「不吉? 命の恩人に対して、ずいぶんな言い草ね」
「……っ。あの時は、村長が頼んだからだ。俺は頼んでねえ!」
若者が槍を構えると、アガサの耳は彼の震える膝が「カタカタ」と鳴る音を拾った。
「そう。なら、返してもらいましょうか。私が与えた『健康』を」
「アガサ様。その子の股関節、美味しそうな音がしていますわ」
プリシラの影が、若者の背後で大きな口を開けるように膨らむ。
「やりなさい、プリシラ。二度と槍を握れないように」
「御意、我が主人」
闇の中で「メキリ」という、瑞々しい木が折れるような残酷な音が響き渡った。
「ぎ、あああああッ!」
若者の叫びが、夜の森に「ビチャリ」と湿った絶望を撒き散らす。
アガサの鼻腔には、激痛で失禁した若者のアンモニア臭が、冷たい夜気と共に突き刺さった。
「五月蝿いわね。その喉も、私が煎じた薬で治したはずよ」
アガサの冷徹な一瞥に、若者は泥を啜りながら白目を剥き、がたがたと震える。
彼女の指先に触れる杖は、若者の生命力を吸い上げ、仄かな熱を帯びていた。
「アガサ様。この子の脚、不自然な方向に曲がって……まるで芸術品ですわ」
プリシラが泥に沈んだ若者の頭を、愛おしそうに、かつ無慈悲に撫で回す。
「捨てなさい。そんなガラクタ、もう価値もないわ」
「そうですね。次は村長……あの肥え太った老人の贅肉を削ぎましょうか」
アガサは若者の体を踏み越え、村の広場へと視線を向けた。
舌の裏には、これから始まる「報復の晩餐」を予感させる、鉄錆と蜜の混じった味が広がる。
「行きましょう。夜が明けるまでに、この村を一つの大きな墓場に変えるのよ」
「ふふ、承知いたしました。愛しの聖女様」
二人の影は、蹂躙された若者の呻き声を背に、深い闇へと溶け込んでいった。
第9話をお読みいただき、ありがとうございました。
「不吉な老婆」と罵られたアガサが選んだのは、かつて与えた「健康」を、その手で直接奪い返すという報復でした。
プリシラの影に導かれ、かつての恩義を忘れた若者を無慈悲に「再構築」していく様は、聖女としての過去との完全な決別を象徴しています。
神に見捨てられたのではなく、神を捨てた老婆。
彼女が村の広場へ辿り着いた時、村人たちが目にするのは「不滅の慈愛」ではなく、底知れぬ「執念」が形を成した影の姿でしょう。
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