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や、やめてください!

 俺は扉を叩く手を止めた。いくら叫んでも無駄だ。

 今の結花は完全に自分の世界に入り込んでいる。

 俺が抵抗して騒げば騒ぐほど、彼女の狂気は深まり、警戒を強めるだけだ。

 力ずくで突破しようとすれば、確実にあの細い腕で刃物を持ち出してくる。

 今は大人しくして彼女を安心させるのが先決だ。


 俺は冷たいコンクリートの床に静かに座り込んだ。荒くなった呼吸をゆっくりと整える。暗闇の中で必死に頭を回転させ始めた。

 スマホは壊された。

 理のバイタルセンサーが異常を感知してくれているはずだ。

 だが、このアパートの正確な位置まで把握できているかは怪しい。

 小夜も、俺が自分から結花について行った以上、すぐには助けに来られないかもしれない。

 誰かの救助を待つだけでは手遅れになる可能性がある。この密室から自力で脱出する方法を見つけるしかないのだ。


 俺はゆっくりと立ち上がり、壁伝いに部屋の中を歩き始めた。

 窓は一つもない。

 真っ暗で自分の足元すら見えない。

 手のひらから伝わる冷たいコンクリートの感触だけが頼りだった。

 ここは本当にアパートの一室なのだろうか。

 普通の賃貸物件に、こんなコンクリートむき出しの空間があるはずがない。

 おそらく防音室か何かを徹底的に改造した、監禁専用の部屋なのだ。

 壁を叩いてみるが、硬く詰まった音がするだけで壊せそうな気配は全くない。ドアノブも外側から完全に固定されていて、ピクリとも動かなかった。

 その時だった。

 分厚い扉の向こうから結花の声が聞こえてきた。


「空くん、大人しくなったね」

「私の愛を受け入れてくれたのかな」

「今美味しい夕飯を作ってあげるから待っててね」

「空くんの好きなハンバーグにするね」


 弾むような声だった。そして楽しそうな鼻歌が遠ざかっていく。

 料理をしているということは火や包丁を使っている。

 結花の意識が完全に俺から離れ、キッチンに向いている今がチャンスだ。

 俺は音を立てないように部屋の隅から隅まで這いつくばって、何か使えるものがないかを探した。

 床には埃一つ落ちていない。家具も何もない。

 結花が俺を閉じ込めるために周到に掃除して準備していたのだ。

 絶望感が再び胸をよぎる。武器になるようなものは何もない。

 諦めかけたその時だった。

 俺の手が部屋の奥の壁際で微かな風の流れを捉えた。

 上だ。

 俺は壁に沿って立ち上がり、限界まで背伸びをして手を伸ばす。

 指先が冷たい金属の格子のようなものに触れた。

 通気口だ。

 微かにだが、そこから別の部屋の空気が流れ込んで来ているのが分かる。

 大きさは顔がギリギリ入るかどうかというところだ。

 俺の身体が通り抜けるのは到底不可能だ。

 しかし、この格子を外すことができればここから外に声を届けることができるかもしれない。

 あるいは、細い棒状のものを見つけて外の鍵をどうにかできるかもしれない。

 俺は通気口の格子を両手で掴み、音を殺しながら力一杯引っ張った。


 ガタッ。


 微かな音がして、格子が少しだけ動いた。

 ネジが古くなって緩んでいるのか、それとも最初からしっかり固定されていなかったのか。

 真っ暗な絶望の部屋に僅かな希望の光が見えた気がした。

 俺は結花に気づかれないように慎重に格子の隙間に指をねじ込み始めた。


 ミシッと小さな音が鳴り、格子が枠から外れかける。

 もう少しだ。

 これさえ外れれば、何か脱出の糸口が掴めるかもしれない。

 俺がさらに力を込めようとしたその時だった。


 「空くんご飯できたよ」


 分厚い扉の向こうから結花の弾むような声がした。

 そしてガチャガチャと鍵を開ける無機質な音が連続して響く。

 やばい。

 俺は慌てて通気口から手を離した。

 足音を完全に殺して部屋の中央へと素早く戻る。

 コンクリートの冷たい床にペタンと座り込み、膝を抱えた。

 怯えて大人しく従順にしているフリをするのだ。

 ギーッと重い音を立てて扉が開かれた。リビングの明るい光が真っ暗な部屋に差し込んでくる。

 俺は眩しさに目を細めた。

 光を背にして立つ結花のシルエットが浮かび上がる。

 彼女の手にはハンバーグから湯気が立ち上るお盆が握られていた。


 「お待たせ、空くん」

「特製ハンバーグだよ」

「空くんのために愛情たっぷり込めて作ったんだから」

「冷めないうちに食べてね」


 結花は満面の笑みを浮かべて俺の前に膝を下ろした。

 甘い肉の匂いが部屋の中に広がる。

 俺は震える手を伸ばしてフォークを受け取った。


 「……ありがとう結花」


 俺はできるだけ弱々しい声を出した。

 抵抗する意志を完全に喪失した無力な男を演じ切るのだ。

 結花の瞳が歓喜に濡れた。

 自分の愛が俺を完全に支配したのだと錯覚してくれている。

 俺はハンバーグを一口切り取って口に運んだ。


 「美味しい!」


 嘘ではなかった。

 味は本当に絶品だった。

 だが、今はそんなことを味わっている余裕はない。

 俺の視線はハンバーグを褒めながら、結花の腰元に注がれていた。

 彼女のピンク色のエプロンのポケットから銀色の鍵の束が少しだけ顔を出している。

 あの鍵さえ奪えれば。

 俺の脳内で脱出のためのシミュレーションが高速で展開されていく。

 ハンバーグを食べ終わったふりをして、お盆を下げる瞬間に奪うか。

 それとも結花が油断して俺の頭を撫でようとした隙を突くか。

 失敗すれば確実にあの細い腕で俺は殺される。

 心臓の音がうるさくて、結花に聞こえてしまわないか不安だった。


 「空くんがいっぱい食べてくれて嬉しいな」

「これからも毎日私がご飯を作ってあげるね」

「外なんて気にしないで、ずっとここにいようね」


 結花が俺の顔をうっとりと見つめながら甘く囁く。

 狂気の愛撫が言葉となって俺の鼓膜を震わせる。

 俺はフォークを動かしながら、愛想笑いを浮かべ続けた。

 彼女の狂気を刺激しないように。

 しかし、心の奥底では虎視眈々と反撃の牙を研ぎ澄ませていた。

 この甘いハンバーグの温度が下がる前に、俺はこの狂気の密室から脱出しなければならないのだ。

 俺が結花のポケットの鍵に指をかけようとした、その瞬間だった。


 バチッ。


 部屋の奥で何かが爆ぜるような鋭い音が響いた。

 直後。

 煌々と輝いていたリビングの光も寝室を照らしていた明かりもすべてが同時に消え去った。

 アパート全体を完全な闇が支配する。

 夜の静寂が急激に重さを増した。


 「え……?」


 結花の驚いたような声が暗闇の中で漏れる。

 彼女もこの突然の事態は予想外だったらしい。

 俺は暗闇に目が慣れないまま息を殺して、その場に固まった。

 心臓の鼓動だけが耳元でうるさく打ち鳴らされる。

 その時だった。

 俺たちの頭上で微かなプロペラの回転音が聞こえ始めた。

 ブーンという羽虫のような小さな羽音。

 通気口の格子を外しかけていたあの隙間から何かが部屋に侵入してきたのだ。

 赤い小さなLEDの光が暗闇の中で一つだけ点滅している。


 『バイタルデータの急上昇を確認。私のハッキングは完璧に成功したよ』


 暗闇の中に理の無機質な声が響き渡った。

 スピーカー越しだ。

 侵入してきたのは手のひらサイズの超小型ドローンだった。


 『空。今だ。走って』


 理の短い指令が俺の背中を強く押した。

 俺は迷わなかった。

 結花が混乱しているこの一瞬。

 これを逃せば二度と外の世界には戻れない。

 俺は床を強く蹴って開いたままの扉に向かって、全速力で走り出した。


 「待って!空くん行かないで!」


 背後で結花の叫び声がした。

 暗闇の中でも彼女の執着に満ちた気配が追いかけてくるのが分かる。

 俺は手探りでリビングの壁を叩きながら、玄関の方向を必死に探した。

 ドローンが放つ赤い光だけが俺の行く道を微かに照らし出している。


 『右に三メートル。そのまま直進だ。玄関のロックはすでに無効化してある』


 理のナビゲートが脳内に直接響く。

 俺は理の言葉を信じて、闇の中を猛進した。

 家具に足をぶつけそうになりながらも、必死にバランスを保つ。

 背後からは結花の荒い呼吸と床を叩く足音が確実に迫っていた。

 ようやく指先に冷たい鉄の感触が当たった。

 玄関の扉だ。

 俺はレバーを力任せに押し下げた。

 理の言葉通り、扉は音もなく、軽やかに外へと開かれた。

 夜の冷たい空気が頬を撫でる。

 俺はアパートの廊下へと飛び出した。

 非常階段の緑色の灯りだけが頼りだった。

 一度も振り返ることなく、俺は夜の闇へと駆け出していった。


 静寂を切り裂いて、俺は無我夢中で走った。

 肺が焼けるように熱い。脇腹の傷口が悲鳴を上げている。

 だが止まるわけにはいかなかった。

 背後にはあの狂気に満ちた密室と、俺を所有しようとする幼馴染がいるのだ。

 街灯がまばらな道を抜けようやく校門が見えてきた。

 昼間の賑わいが嘘のようにひっそりとしたその場所に、一台の異質な車両が停まっていた。

 漆黒の塗装を施された高級セダンだ。

 周囲の景色から浮き上がるような威圧感を放っている。

 俺が近づくと、後部座席のドアが音もなく滑るように開いた。


 「こっちだ空。早く乗りたまえ」


 車内から聞き慣れた無機質な声が響く。

 理だ。

 俺は吸い込まれるように、黒塗りの車内へと飛び込んだ。

 俺がシートに倒れ込むと同時にドアが力強く閉まる。

 ガチャン。

 電子ロックがかかる重厚な音が車内に密閉感をもたらした。


 「……助かった。死ぬかと思ったよ」


 俺は荒い息を吐きながらシートに深く身を沈めた。

 冷房の効いた車内は結花の部屋とは違う意味で非日常的な空気に満ちていた。

 理は助手席に座りタブレット端末を指で弾いている。

 彼女は一度も振り返ることなく淡々と告げた。


 「私のナビゲートに従うのは当然の帰結だ」

「だが、君は私の警告を無視して独断で彼女のテリトリーに踏み込んだ」

「これは重大な規約違反だね」


 理の声には怒りというよりも、冷徹な計算が含まれていた。

 俺は嫌な予感がして身を起こそうとした。

 しかしその瞬間。

 シートの横から機械的なアームが飛び出し、俺の両手首を固定した。


 「なっ、なんだこれ!?」


 カチリという硬質な音と共に、俺の手首は座席に完全に拘束された。

 さらにシートベルトが自動的に締め上げられ、俺の身体を座席に縫い付ける。

 身動き一つ取れない。


 「理。何をするんだ。降ろしてくれ」


 俺が焦って声を荒らげる。

 すると理はゆっくりと助手席のシートを回転させ、俺の方を向き直った。

 銀色の眼鏡の奥で彼女の瞳が妖しく光る。

 その唇には薄らと冷酷で知的な笑みが浮かんでいた。


 「これはお仕置きだよ」

「私の管理下にある検体が勝手に壊れようとするのは容認できない」

「君には自分の立場を再認識してもらう必要があるね」

「これから私の研究室までこのまま運送させてもらうよ」

「逃げられないように、薬理学的な処置も並行して行わせてもらおうか」


 理は手にした注射器を月明かりにかざした。

 透明な液体が先端から一滴滴り落ちる。

 結花の狂気から逃れた先に待っていたのは、理のマッドサイエンティストとしての独占欲だった。

 黒塗りの車は夜の街を滑るように走り出す。

 俺は拘束されたまま、再び自由を奪われる恐怖に全身を震わせるしかなかった。


 黒塗りの車は地下駐車場へと滑り込んだ。

 俺は手首を拘束されたまま、ストレッチャーのようなものに乗せられた。

 そして理の研究室の奥にある無機質な実験室へと運び込まれる。

 冷たい金属の実験台の上に仰向けに寝かされた。

 手足の拘束は解かれることなく、さらに強固な金属のベルトで固定された。

 身動き一つ取れない。

 天井の眩しい照明が俺の目を射る。

 白衣に着替えた理がカチャカチャと金属製の器具を準備する音が響いた。


 「さてと」

「まずは結花に買ってもらったその趣味の悪い服を脱がせようか」


 理は無表情のまま俺に近づき、新しいジャケットのボタンに手をかけた。

 俺は慌てて身体を捩る。


 「おい理、何をするつもりだ」


 俺の抗議を完全に無視して、彼女の指先が俺のシャツをはだけさせていく。

 胸元から腹筋までがあっという間に露出してしまった。

 冷房の効いた実験室の空気が肌に触れてゾクッと鳥肌が立つ。


 「何ってバイタルセンサーを最新型に交換するだけだよ」

「旧型では、君の急激なストレス値の変化に処理が追いついていなかったからね」

「もっと君の深部まで正確に計測できるものが必要なんだ」


 理はそう言うと、銀色のバットから透明なゼリー状の液体を手に取った。

 そして俺の露出した胸板にその冷たいゼリーをたっぷりと塗りたくったのだ。


 「ひゃっ」


 思わず情けない声が漏れてしまう。

 ゼリーの冷たさと理の滑らかな指先の感触が混ざり合って、脳が激しく混乱する。

 理は俺の胸から腹部にかけてゆっくりと円を描くようにマッサージを始めた。

 最新型のセンサーを入れるという名目にしては、やけに手つきがねっとりとしている。

 どう考えてもセンサーの交換なんてただの建前だ。


 「君の心拍数が異常に跳ね上がっているよ」

「血流も活発化して体温が急上昇している」

「素晴らしい反応だね空」


 理が銀色の眼鏡の奥で妖しく目を細めた。

 彼女の顔が俺の顔のすぐ近くまで迫ってくる。

 甘い薬品の匂いと理の熱い吐息が俺の首筋にかかった。


 「このゼリーは神経の伝達を活性化させる特別なものなんだ」

「君の細胞の一つ一つが私の指先にどう反応するか」

「そのすべてのデータを私がこの手で直接採取してあげる」

「結花なんかに、君の身体は絶対に渡さない」


 彼女の指が俺の腹部からさらに下へと這うように撫で回していく。

 手術というよりもこれは、完全に彼女の歪んだ独占欲を満たすための実験だった。

 俺の生体データという名目で、俺のすべてを支配しようとしているのだ。

 冷徹な科学者が見せる生々しい執着に俺は背筋が震えた。

 俺は羞恥心と微かな恐怖で、顔を真っ赤にしながらただ彼女の指先に翻弄されるしかなかった。


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