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保険なんてない

 俺は呼吸の仕方を完全に忘れてその血に染まった箱を見つめていた。

 赤い液体がじわじわとカーペットに染み込んでいく。


 鉄の匂い。

 いや違う。

 極限の恐怖で俺の嗅覚がバグを起こしているだけで、これは甘い匂いだ。

 でも見た目は完全にスプラッター映画のそれだった。


 「ほら空くん開けてみて」

「私が一生懸命選んだんだよ」


 結花の声が背後から俺を急かす。

 俺の右手は痙攣するようにガタガタと震えていた。

 箱の蓋に手をかける。


 中から出てくるのは不良の指か耳かそれとも目玉か。

 生首のトラウマがフラッシュバックして、吐き気がこみ上げてくる。

 俺は覚悟を決めて目をギュッと閉じ勢いよくその蓋を開け放った。


 「……えっ?」


 目を開けた俺は間の抜けた声を漏らした。

 箱の中に不良の身体の一部は入っていなかった。

 そこにあったのは真っ赤なフルーツが大量に乗った巨大なホールケーキだったのだ。

 イチゴにラズベリー、そしてさくらんぼ。

 それらがこれでもかと盛られた豪華なケーキだ。

 しかし箱の片側に偏って無惨にひしゃげている。

 箱から染み出していた赤黒い液体の正体は、潰れたフルーツから溢れ出したただのベリー系のシロップだったのだ。


 「あははははっ!」

「空くんすっごい顔してる!」

「もしかしてあの不良たちのお肉でも入ってると思った?」


 結花がお腹を抱えて大爆笑し始めた。

 涙目になりながらソファに転げ回っている。


 「お前……これ……」


 俺は全身の力が一気に抜けてソファに深く背中を預けた。

 安堵と同時に凄まじい疲労感が襲ってくる。


「ごめんね空くん」

「ショッピングモールで空くんに内緒で買ったんだけど、さっきの不良から隠れる時にぶつけて潰しちゃったの」

「でもシロップが血みたいだったからちょっと驚かせてみようかなって」

「空くんの怯えた顔すごく可愛かったよ」


 結花は悪びれる様子もなくニコニコと笑いながら潰れたケーキを見つめている。

 ただのタチの悪い悪戯だった。

 俺の寿命は確実に三年は縮んだはずだ。

 狂気に満ちたジョークは心臓への負担が大きすぎる。


「笑い事じゃないだろ……俺本気で警察に自首する準備してたんだぞ……」


 俺が両手で顔を覆って深い深ため息をつく。

 すると結花はピタリと笑いを止めて俺の隣にすり寄ってきた。

 そして俺の耳元で甘く囁く。


 「でもね」

「もし本当にあいつらが空くんを傷つけていたら」

「この箱の中身はケーキじゃなかったかもしれないよ?」


 背筋に再び冷たいものが走った。

 冗談だと言って笑っている彼女の瞳の奥には確かな狂気の火種が燻り続けている。


 それから潰れた特大のフルーツケーキを二人で無言でつつき始めた。

 見た目はスプラッターだが味は普通に美味しい。

 有名店のケーキなのだろう。

 しかし俺の胃袋は恐怖で完全に萎縮していた。


 甘いベリーのシロップを飲み込むたびに喉が引きつる。

 結花は幸せそうに頬を緩ませてフォークを動かしている。

 狂気の後のこの穏やかな時間が、逆に俺の精神をゴリゴリと削っていくのだ。


 その時だった。

 ドスドス。

 廊下の奥から複数の足音が近づいてくる音がした。

 俺の肩がビクッと大きく跳ね上がる。


 ガチャリ。


 扉が開く音が部屋に響いた。

 俺は反射的にフォークを落としそうになった。

 結花との密室空間に第三者が侵入してきたのだ。


 誰だ。

 もしかしてあの不良たちが仲間を連れて仕返しに来たのか。

 それとも結花に恨みを持つ別の人間の襲撃か。

 俺が身構えてソファから腰を浮かせた瞬間だった。

 リビングの扉がゆっくりと開かれた。


「結花、いるかい」


 穏やかで優しそうな男性の声だった。

 そこから顔を出したのは少し白髪の混じった中年男性とエプロン姿の女性だった。

 結花の両親だった。

 俺は全身の力が抜けて再びソファにへたり込んだ。


「お父さん、お母さん。おかえりなさい」


 結花がパッと明るい笑顔を浮かべて立ち上がる。

 その笑顔には先ほどまでの猟奇的な狂気は一ミリも含まれていない。

 ただの親思いの心優しい普通の娘の顔だった。

 完璧な擬態だ。

 結花の母親が俺の姿に気づいて目を丸くした。


「あらあら、結花が男の子をお部屋に入れるなんて珍しいわね」


 そう言って、結花の母親はこちらに頭を下げる。


「初めまして結花の母です。いつも娘と仲良くしてくれてありがとうね」


 母親はとても温厚そうで人の良さが全身から滲み出ていた。

 父親の方も目尻を下げて嬉しそうに俺を見ている。


「空くんか。昔から結花が君の話ばかりするから会ってみたかったんだよ。今日はゆっくりしていってくれ。何なら夕飯も食べていくかい」


 なんて優しそうな両親なんだ。

 絵に描いたような温かい家庭の象徴みたいな二人だ。

 俺は慌てて立ち上がり深々と頭を下げた。


「お邪魔してます!いつも結花さんには大変お世話になっています」


 俺は冷や汗を流しながら必死に愛想笑いを浮かべた。

 頭の中が完全に混乱していた。

 こんなにも優しくて普通の両親からどうしてあんな狂気に満ちたバケモンが生まれてしまったんだ。


 もしこの両親が結花の狂気を知らずにただの優しい親として接しているのだとしたら。

 俺がここで助けを求めても絶対に信じてもらえないだろう。

 むしろ「うちの娘がそんなことするはずない」と俺が変質者扱いされるのがオチだ。

 逃げ場なんて最初から存在しなかったのだ。


「お母さん私たち今ケーキ食べてるの。後で紅茶淹れるから二人も一緒にどう?」


 結花が甘えたような声で母親にすり寄る。


「ふふっありがとう」

「でもお父さんとお母さんはまたお買い物に行ってくるから二人でゆっくり食べなていなさい」

「空くん。結花は少し不器用だけどこれからも仲良くしてあげてね」


 優しすぎる両親の言葉が今の俺には何よりも恐ろしい呪いのように聞こえた。

 この善良な人たちの笑顔の裏で俺の命は結花の手のひらの上で完全に転がされているのだ。


 バタン。

 扉が閉まり再び両親の足音が遠ざかっていく。

 玄関の扉が閉まる音がして、部屋はまた密室の静寂に包まれた。

 リビングに再び俺と結花の二人きりの空間が戻る。


 結花は扉が閉まった瞬間にゆっくりと振り返った。

 そして両親に向けていたあの純粋な娘の笑顔をドロリと溶かして俺を見つめる。


「ねえ空くん」

「私のお父さんとお母さん優しかったでしょ」

「二人とも空くんのことすっごく気に入ってたね」

「これで空くんも私の家族の仲間入りだね」


 彼女の瞳の奥に広がる底なしの暗闇を見て俺は絶望的な寒気に襲われた。

 俺は完全に言葉を失い、結花の底知れない暗闇を見つめていた。

 家族という言葉がこれほどまでに恐ろしく聞こえたことはない。

 この密室で俺は彼女の愛という名の消化液にゆっくりと溶かされていくのだ。


 絶望が足元から這い上がってきたその時だった。

 俺のポケットの中でスマートフォンが震えた。

 ブブブ、という無機質な振動音が静まり返ったリビングに響き渡る。


 俺はビクッと肩を大きく揺らした。

 結花の顔からスッと笑顔が消え去る。

 そしてゆっくりと首を傾げて俺のポケットを見つめた。


 「誰からの電話」


 声のトーンが先ほどとは全く違う。

 絶対零度の冷たさだった。

 俺は震える手でポケットからスマホを取り出した。

 画面に表示されていたのは理の名前だ。

 こんな絶体絶命の状況でストーカー紛いからの着信。

 普段なら絶対に出たくない相手だ。

 だが今はこの密室から外の世界へと繋がる唯一の命綱に思えた。


 俺は結花の刺すような視線を浴びながら恐る恐る通話ボタンを押した。


 「……もしもし」

 『遅いよ空。通話に出るまでに四点五秒もかかっている』


 電話の向こうから理の淡々とした声が聞こえてきた。

 その声を聞いて俺は少しだけ息を吹き返した気がした。


 『君の生体データに異常な数値を観測したから連絡したんだ』

 「生体データって……お前また俺に何か仕込んでたのかよ」

 『この前、君の傷口を縫合した時に超小型のバイタルセンサーを埋め込ませてもらったんだ。君の安全を管理するためだから感謝してほしいね』


 相変わらずの狂った理屈だ。

 だがその異常なストーカー行為が今は少しだけありがたかった。

 理はカタカタとキーボードを叩く音を響かせながら口を開く。


 『ところで空。君の心拍数と発汗量、そしてコルチゾールの値が致死量のストレスを示している』

『この前、化け物と遭遇した時よりも高い数値だ』

『私のクラウドも悲鳴を上げているよ』


 理の声が少しだけ険しいものに変わった。


 『君の目の前にいるその女は、本当に人間なのかい』


 その言葉に俺は心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。

 理の科学的な分析が結花の異常性を正確に浮き彫りにしたのだ。

 人間の形をしただけの底知れないバケモノ。

 俺が顔を青ざめさせていると横からスッと白い手が伸びてきた。

 結花だ。

 彼女は俺の手からスマホを強引に奪い取った。


 「理系女。空くんに何の用」


 結花がスマホに向かって低い声で威嚇する。

 電話越しでも二人のヒロインのバチバチとした火花が散っているのが分かった。


 『私は私の検体の安全を確認しているだけだよ。君のような非論理的な感情の塊に、彼の繊細な細胞を壊されたくはないからね』


 「空くんは私のものよ。細胞の一個一個まで全部私が愛してあげるんだから。あんたみたいな泥棒猫は二度と空くんに近づかないで」


 『ふん。君のその所有欲は極めて前時代的で非科学的だ。それに空は今ものすごく君に怯えているよ。自分の愛が検体を破壊していることにも気づけないなんて愚かの極みだね』


 理の容赦のない正論のカウンターだった。

 結花の顔がみるみるうちに赤黒い怒りに染まっていく。

 スマホを握る結花の手にギリギリと尋常じゃない力が込められていた。

 画面にミシッとひび割れが走る。


 やばい。

 俺のスマホが物理的に破壊される。


 「あんたなんか……あんたなんか私が……!」


 結花が叫ぼうとしたその瞬間だった。


 『空。今すぐそこから逃げたまえ。その女は確実に君の精神を食い殺す』

『私がナビゲートしてあげるから私の指示通りに動くんだ』


 理の声がスマホのスピーカーからリビング全体に響き渡った。

 結花は完全にブチギレてスマホを床に叩きつけようと腕を振り上げた。


 「やめろ結花」


 俺は咄嗟に立ち上がり、結花が振り上げた腕にすがりついた。

 しかし遅かった。

 俺の力では彼女の異常な執着が込められた腕を止めることはできなかった。

 振り下ろされた結花の手から俺のスマートフォンが勢いよくすっぽ抜ける。


 ガッシャァァンッ。

 乾いた破壊音がリビングに響き渡った。

 スマホはフローリングの床に叩きつけられ、画面がクモの巣状に無惨にひび割れた。

 液晶のバックライトが一瞬だけチカッと点滅し、そのまま完全に暗転する。


 理からの声も同時にプツリと途絶えた。

 俺の外界との唯一の繋がり。

 助けを呼ぶための命綱が物理的に完全に粉砕されてしまったのだ。


 「あぁ……」


 俺は床に散らばったスマホの残骸を見つめて絶望的な声を漏らした。

 結花は荒い息を吐きながら床の破片を冷たく見下ろしている。

 そしてゆっくりと俺の方へ振り返った。

 その顔には先ほどまでの激しい怒りは消え失せ、凪いだ海のように静まり返っていた。

 それが逆に恐ろしかった。

 狂気が臨界点を超えて、完全に振り切れてしまった人間の顔だった。


 「空くんの邪魔をする悪い虫は、これでいなくなったね」


 結花の声は恐ろしいほどに優しくて甘かった。

 彼女は俺の頬にそっと冷たい手を添えてくる。

 俺は蛇に睨まれた蛙のように一歩も動くことができなかった。

 身体中の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出しているのが分かる。


「ねえ空くん」

「外の世界には理系女みたいな空くんを壊そうとする悪い人たちがいっぱいいるんだよ」

「前だって変な化け物や銃を持った女に命を狙われたんでしょ」

「空くんは優しすぎるからすぐに騙されちゃうんだから」


 どうして彼女があの出来事を知っているんだ。

 理の研究室での出来事なら、監視カメラか何かで見ていたのかもしれない。

 でも夜の屋上まで把握しているなんて異常すぎる。

 俺の背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。


「私が守ってあげる」

「空くんの綺麗な心と身体を、この安全な場所でずっとずっと、大事にしてあげるね」


 結花の瞳孔が黒く見開かれている。

 俺の意思なんて最初から彼女の中には存在していない。

 ただ自分の所有物として安全な箱の中にしまい込んでおきたいだけなのだ。


 彼女は俺の手首をガシッと力強く掴んだ。

 その細い腕のどこからこんな力が出てくるのか不思議なくらい強烈なホールドだった。

 俺はズルズルと引きずられるようにして、部屋の奥へと連れて行かれる。


 「や、やめろ結花。話せば分かるだろ?俺はどこにも行かないから。閉じ込めないでくれ」


 俺が必死に抵抗して懇願するが、結花は全く耳を貸そうとしない。

 彼女の目はすでに完全にイカれていた。

 連れて行かれたのは窓一つない真っ暗な寝室だった。

 ピンク色の家具とは無縁の冷たいコンクリートの壁に囲まれた異様な空間。


 俺は結花に突き飛ばされるようにして、その部屋の床に倒れ込んだ。

 バタン。

 重い扉が閉まる音がした。

 そして外側からガチャガチャと幾重にも鍵がかけられる音が響き渡る。

 俺は暗闇の中で立ち上がり、必死に扉を叩いた。


 「開けろ結花。ここから出してくれ!お願いだから開けてくれよ」


 しかし外からは結花の楽しそうな鼻歌が聞こえてくるだけだった。

 完全に閉じ込められた。

 理の生体データ監視も、小夜の日本刀もここまでは届かない。

 俺はこの狂気に満ちた密室で結花の狂気という名の愛情に完全に飼い殺しにされるのだ。

 絶望が暗闇と共に俺の全身を完全に飲み込んでいった。

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