謎の箱?
背中に押し付けられていた結花の温もりがゆっくりと離れていった。
彼女は小さく息を吐いてから俺の横に並んで歩き始めた。
ショッピングモールの裏口から駅へと向かう帰り道だ。
空はすっかり茜色に染まり、長く伸びた二人の影がアスファルトの上に並んでいる。
先ほどの不良たちとの騒動が嘘のように穏やかな時間が流れていた。
結花は黙ったまま少しだけうつむいて歩いている。
いつもなら俺の腕にピッタリと抱きついてくるはずなのに、今は少しだけ距離があった。
もしかしてまださっきの恐怖を引きずっているのだろうか。
それとも、俺が無理をして男の前に立ったことを怒っているのだろうか。
俺が横目で彼女の様子を伺っているとその視線に気づいたのか、結花がふいと顔を上げた。
夕日が彼女の艶やかな黒髪を赤く染めている。
その瞳はほんの少しだけ潤んでいて、俺の顔をじっと見つめ返してきた。
そして俺の服の袖をちょこんと指先でつまむ。
「空くん」
「あのね」
「手繋いでもいい?」
上目遣いだった。
少しだけ首を傾げて恥ずかしそうに頬を染めている。
ヒロインが主人公の心を完全に撃ち抜く必殺のアプローチだ。
俺の心臓がトクトクと早鐘を打ち始めた。
さっきまでの狂気なんてどこにもない。
ただ好きな男の子の温もりを求めている純粋で可憐な幼馴染の姿がそこにあった。
断る理由なんてあるはずがなかった。
俺は無言で頷き自分の右手を少しだけ彼女の方へと差し出した。
すると結花の顔にパッと明るい花が咲いたように笑顔が広がる。
「えへへ」
「ありがとう空くん」
彼女の小さな手が俺の大きな手をそっと包み込むように握ってきた。
結花の手は少しだけ冷たかった。
やはり不良に絡まれて本当に怖かったのだろう。
俺は彼女を安心させるようにその手を少しだけ強く握り返した。
指と指が絡み合いお互いの体温が直接伝わってくる。
「空くんの手」
「すごく温かくて安心するな」
「ずっとこのままでいたいよ」
結花は俺の肩にコツンと頭を乗せながら嬉しそうに呟いた。
俺たちは手を繋いだまま、茜色の空の下をゆっくりと歩き続ける。
駅に向かう人波の中で俺たちだけが特別な結界に守られているような気がした。
すれ違う高校生や仕事帰りの大人たちがチラチラと俺たちを見ていく。
誰もが羨むような、完璧な美少女との甘酸っぱい帰り道。
これが俺の思い描いていた理想の青春の一ページだ。
でも俺は知っている。
この繋いだ手の温もりの裏側には、俺のすべてを支配しようとする底なしの狂気が隠されていることを。
もし俺がこの手を振り払って別の女の子の元へ行こうとすれば、彼女は迷わずその手に刃物を握るだろう。
俺の命すらも自分のものにするために。
それでもいいとすら思えてしまう自分がいた。
こんなにも俺を必要としてくれてこんなにも俺を愛してくれている。
狂気と純愛は表裏一体だ。
俺はこの甘くて重い鎖に繋がれたままどこまでも彼女と一緒に堕ちていくのも悪くないのかもしれない。
そんな危険な思考が俺の脳内を支配し始めていた。
結花は繋いだ手を揺らしながら俺の顔を覗き込んでくる。
「ねえ空くん」
「今日は本当に楽しかったね」
「これからもずっと私だけの空くんでいてね」
見慣れた家の前に到着する。
俺の足がピタリと止まった。
あの恐ろしい生首を目撃した狂気の現場。
背筋に冷たい汗がツーッと伝い落ちるのを感じた。
デートの魔法が解けて一気に現実の恐怖が蘇ってくる。
「送ってくれてありがとう空くん」
「今日は本当に楽しかったよ」
結花は繋いでいた手を名残惜しそうに離した。
そしてアパートの階段を一段だけ上って、俺を振り返る。
月明かりが彼女の綺麗な顔を照らしていた。
本当にどこにでもいる可愛い女子高生にしか見えない。
このままおやすみと言って別れられればどんなに幸せだろうか。
「ねえ空くん」
「少しだけ上がっていかない?」
甘くて優しくて絶対に断れない悪魔の誘いだった。
俺の心臓がけたたましい警鐘を鳴らし始める。
あの部屋に入れば、また俺は出られなくなるかもしれない。
理の研究室に帰らなければ、小夜も心配して探しに来るはずだ。
でもここで断れば結花の狂気スイッチが再び入ってしまうのは火を見るより明らかだった。
せっかく買った新しい服を切り刻まれるだけじゃ済まないだろう。
俺は引きつった笑顔を無理やり浮かべて、コクリと頷くしかなかった。
「やったあ」
「美味しい紅茶を淹れてあげるね」
結花は嬉しそうに微笑んで俺の手を再び引いた。
重い鉄の扉の前に立つ。
鍵が開くカチャリという音が夜の静寂にやけに大きく響いた。
結花が扉をゆっくりと押し開ける。
甘い芳香剤の匂いが真っ先に鼻を突いた。
しかしその奥に微かに血のような鉄の匂いが混ざっている気がして胃がせり上がる。
「どうぞ入って」
俺は促されるまま靴を脱いで暗い廊下に足を踏み入れた。
バタン。
ガチャン。
背後で重い扉が閉まり二重の鍵が施錠される音がした。
逃げ道が完全に断たれた瞬間だった。
結花が電気をつける。
そこは昨日と何も変わらない普通の可愛らしい女子高生の部屋だった。
ピンク色を基調とした家具とベッドにたくさんのぬいぐるみ。
しかし俺の目は部屋の隅にあるクローゼットに釘付けになった。
「空くんどうしたの」
「そんなに緊張しなくても何もしないよ」
「ソファに座って待っててね」
結花は俺の新しいジャケットを受け取ると、ハンガーに丁寧に掛けた。
俺は言われた通りに小さなソファに腰を下ろす。
心臓の音がうるさくて自分の鼓動が部屋中に響いているんじゃないかと錯覚する。
結花はキッチンに向かい、お湯を沸かし始めた。
コポコポという音が密室に響く。
本当にただ紅茶を淹れてくれるだけなのだろうか。
その時だった。
結花がキッチンから音もなく俺の背後に回り込んできた。
そして俺の視界を彼女の冷たい両手で突然塞いだのだ。
「えっ、おい。結花、何するんだ」
俺は恐怖で声が裏返った。
「だめだよまだ目を開けちゃ」
「空くんが絶対に喜ぶものを準備してるんだから」
「そのまま大人しく待っててね」
視界を奪われた恐怖で全身の毛穴が開く。
背中から伝わる結花の体温だけが俺の現状を繋ぎ止めていた。
耳を澄ますと、カサカサという何かが擦れる音がする。
そしてドスンという重いものがローテーブルに置かれる鈍い音。
「いいよ目を開けて」
結花の手がゆっくりと離れた。
俺は恐る恐る瞬きをして焦点を取り戻す。
部屋の中央のローテーブルの上にそれは置かれていた。
綺麗にリボンでラッピングされた巨大な白い箱。
しかしその箱の底からは赤黒い液体がじわじわと染み出しピンク色のカーペットを汚していたのだ。
「これね」
「空くんを不良のナンパから守れなかった私からの謝罪のプレゼント」
「あの不良たちに少しだけ反省してもらったの」
「中身当ててみてね」
結花の狂気に満ちた声が耳元で甘く囁かれた。
俺は呼吸の仕方を完全に忘れてその血に染まった箱を見つめるしかなかった。




