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圧制者よ!

 やばい逃げろ。

 本能がそう警鐘を囁く。

 血濡れた結花の生首が網膜にこびりついて離れない。見開かれた虚ろな瞳が俺を真っ直ぐに射抜いていた。


 はぁはぁ。


 はぁはぁはぁ。


 腕と足の動きが上手く合わない。

 脳からの指令が神経を伝わる途中で決定的なノイズに変換されているかのようだ。もつれて転びそうになる体を強引に前へと押し出す。アスファルトに何度も靴の底を打ち付け、夜の住宅街を狂ったように駆け抜けた。


 口で精一杯呼吸するせいで顎の感覚はとうに失っている。喉の奥がカラカラに乾き鉄の味がした。それでも止まれない。止まったら死んでしまう。あの生首を門扉に突き刺した何者かが闇の底から俺を追ってきている気がして振り返ることすらできなかった。街灯の光が作り出す自分自身の影すらも恐ろしい。


 頭が痛い。


 痛い、いたい、イタい、痛い居たい異体痛いいたい遺体懿靆いたい悼い。


 脳髄を直接目の粗いヤスリで削られているような激痛とバグが思考を完全に埋め尽くす。

 何が起きた。どうして結花が死んでいる。あんなに俺に執着してカッターまで突きつけてきたあの女がどうしてあんな無惨な肉塊に成り果てているんだ。


 俺のせいか。俺が記憶を失ったせいであんなことになったのか。思考が無限のループに陥り、視界がぐにゃりと歪む。


 遺体遺体異体。


 彼女の首の断面から垂れていた赤黒い粘液の記憶がフラッシュバックして、胃液が激しく込み上げてきた。吐き気を強引に飲み込み、俺はただひたすらに自分の家を目指した。


 どうやってあの鍵を穴に挿し込んだのかすら覚えていない。

 震える両手でドアノブを回し転がり込むようにして玄関の三和土(たたき)に倒れ込んだ。背後のドアを蹴り閉め、鍵をかける。冷たい床に這いつくばったまま俺は激しく肩を上下させて僅かな酸素を貪った。


 「どうしたんだい?そんなに震えて」


 頭上からひんやりとした声が降ってきた。顔を上げると玄関の上がり(かまち)に白衣姿の理が立っていた。

 俺が食材を探しに出てから、ずっとこの暗い家で待っていたのだろう。彼女の顔には俺の異常な様子を心配する色が浮かんでいたが、その奥には明らかに俺の壊れかけた精神状態を観察して喜ぶような猟奇的で恍惚とした表情が張り付いていた。


 だが今の俺にはそんな理の異常性を警戒する余裕すら残っていなかった。

 精神が完全にすり減り、限界を迎えていたのだ。床の冷たさだけが唯一の救いだった。

 俺は理の問いかけに対して何も答えることができずただ焦点の合わない目で虚空を見つめ続けていた。


 俺が何も返事をしないことに気づくと、理の表情からスッと温度が消えた。恍惚とした笑みが消え失せ、絶対的な零度の影がその顔を覆い尽くす。


 彼女はゆっくりと俺の目の前にしゃがみ込み氷のような手で俺の顎を掴んで無理やり上を向かせた。


「誰?」

「誰にやられた?」


 地を這うような恐ろしく低いトーンだった。その声に込められた底知れない殺気とどす黒い怒りに俺の身体は恐怖でガタガタと大きく震え出した。


 理の瞳の奥に広がる絶対零度の闇を見て俺の全身の毛穴が粟立つ。

 震える歯の根が合わずカチカチと情けない音を立ててしまう。

 俺が恐怖に完全に支配され息すらまともにできなくなっているのを見て、理はふっとその冷たい表情を緩めた。


 彼女は俺の目の前でゆっくりと膝をつきまるで怯える小動物をあやすかのようにそっと俺の肩に手を置いた。


「すまない。そんなつもりはなかったんだ」

「ただこの怒りをどうすればいいのか私でも分からなかったんだ」

「落ち着いて。息を吸って、吐いて」

「そう。偉いね。よしよし」


 理の言葉は驚くほど優しく、そして酷く甘かった。

 彼女の氷のように冷たかったはずの手のひらが今はひどく温かく感じられる。

 俺の乱れきった呼吸に合わせて、理は背中をさすりながら俺の頭をゆっくりと撫でてくれた。

 髪の毛を梳くようなその穏やかな感触に俺の張り詰めていた神経が少しずつ解けていくのを感じる。

 白衣から微かに漂う薬品の匂いすら、今の俺にはすがりつきたくなるような安心感を与えてくれた。


 はぁはぁと荒れまくっていた呼吸が徐々に正常なリズムを取り戻していく。

 俺は玄関の冷たい床に座り込んだままようやく乾ききった唇を開いた。


 そして途切れ途切れの声で先ほど結花の家で見た信じがたい光景を理に打ち明けた。


 巨大な門扉のこと。

 そこに突き刺さっていた生首のこと。

 それが間違いなく幼馴染の結花であったこと。


 俺は自分が狂ってしまったのではないかと疑いながらも、見たままの地獄の光景を必死に言葉にして紡いだ。

 しかし俺の話を聞き終えた理の反応は俺が期待していたようなものではなかった。


 彼女の顔には恐怖も悲しみも一切浮かんでいなかった。

 代わりに彼女の眼鏡の奥の瞳には純粋な科学的懐疑心を思わせるような微かな戸惑いが浮かんでいた。


「本当にそんなことが?」

「私の見解ではあのメス豚どもがそう簡単に物理的な死を迎える確率は極めて低いはずなんだけどね」

「君の極度のストレスが引き起こした一時的な幻覚という線も視野に入れるべきかもしれないね」


 理は顎に手を当ててブツブツと論理的な推論を構築し始めた。

 その信じてくれない表情を見た瞬間俺の中で何かが完全に音を立てて千切れた。


 人が死んだんだぞ。

 あんなに残酷な形で結花が殺されていたんだぞ。

 それなのにこいつは幻覚だの計算だのとまるで実験のデータに誤差が生じた程度の反応しか示さない。


 俺の脳髄を恐怖と疲労とそして得体の知れない激しい怒りが一気に支配した。

 俺は自分でも制御できないほどのどす黒い感情に任せて理に向かって怒鳴り散らしていた。


 「ふざけるなよ。俺はこの目で結花が死んでるのを見たんだ。お前おかしいんじゃないのか。人が死んだって言ってるのになんでそんな平然とした顔ができるんだ」


 いけない。これ以上は口を噤まなければ。


「お前みたいな血の通っていない化け物には人間の死すらただの数字の羅列にしか見えないんだろうな。どうせお前が結花を殺したんだろ!俺の周りにいる女は全部、消せばいいって思ってるんだろ」


 ダメだ。だめだめだめ。


「お前が死ねばよかったんだ。あの門に刺さっていたのがお前の首だったら俺はどんなにせいせいしたことか。気持ち悪いんだよお前のその猟奇的な執着も全部。俺に触るな。お前みたいなイカれた女に好かれるくらいなら死んだ方がマシだ!」


 口から出た言葉は自分でも信じられないほど呪わしくそして醜悪なものだった。

 俺のことが好きな人が十人いたとしたらその十人全てが俺に愛想を尽かして立ち去るような最低最悪の暴言の数々だ。


 相手を根底から否定し、存在そのものを呪うような言葉の刃を俺は理の顔面に向けて容赦なく叩きつけた。

 しかし言い終えて荒い息を吐き出す俺の心には後悔の念すら全く浮かんでこなかった。


 精神が限界を超えてすり減り、他者を思いやる機能が完全にショートしてしまっていたのだ。

 ただこのどうしようもない絶望を誰かにぶつけて壊してしまいたかった。


 沈黙が玄関を満たした。

 理は俺の暴言の暴風雨を一切遮ることなくただ無表情で正面から受け止めていた。

 彼女の眼鏡のレンズが暗い玄関の光を反射してその瞳の感情を完全に覆い隠している。


 やがて理は薄く冷たい唇をゆっくりと動かした。


 「それで満足?」


 感情の起伏が一切存在しない機械のような声だった。

 そのあまりにも冷たい言いように、俺の底の浅い怒りが再び着火した。

「ふざけるな」と再び怒鳴ろうと口を開きかけたその時だった。

 俺の口よりも先に俺の右手が動いていた。


 そうだこの手でこいつを殴ってしまおう。


 言葉で通じない女なら暴力で俺のこの怒りと恐怖のすべてを叩きつけて抑え込んでやる。

 自分自身の理不尽な暴力をそう正当化して俺は振り上げた右の拳を理の細い頬に向けて全力で振り下ろした。


 だが俺の拳が理の顔に届くことは永遠に叶わなかった。

 一体何が起こったのか俺の脳は全く処理できなかった。

 視界が急激に反転した。

 右腕に凄まじい牽引力を感じたかと思うと俺の体は宙を舞い次の瞬間には胸から冷たい床に激突していた。

 肺の中の空気が一気に絞り出されカハッと無様な声が漏れる。


 気づけば俺の両手首は背中の後ろで硬い万力のようなものに完全にホールドされていた。

 目の前にはただ玄関の冷たいタイルがあるだけだ。

 俺は床に顔を押し付けられたまま完全に制圧されていた。

 背中からのしかかってくる重みと両腕を極められている激痛で身動き一つ取れない。


 俺は全力で抵抗しようと体をよじったが背後にある拘束はビクともしなかった。

 力で全く敵わない。

 俺は健康な男子高校生のはずなのに細身の理系少女の腕力に完全に屈服させられていたのだ。

 頭の上から理の吐息が降ってくる。


「私を女だと思って油断していたんだろうけど」

「私、強いんだ。頭脳もだけど、肉体的にもね。柔道を極めることくらい、私にとっては簡単な物理演算の応用でしかないんだよ」

「君の女の子が弱いという考えなら、ここで力負けして地べたに這いつくばっている君は女の子だ」

「女の子みたいに可愛く着飾った姿もいいかもね?その無力な体を私好みの服で包み込んであげるのも、素晴らしい結果をもたらしてくれそうだ」


 理の言葉は淡々としていた。

 俺は精一杯の力を振り絞って抵抗を試みているのにも関わらず理にはそんなふざけた冗談を言う余力さえ残されているのだ。


 圧倒的な力の差。

 生物としての完全なる敗北。

 俺の男としてのプライドは粉々に打ち砕かれ床の塵と同化していた。


「こんな時に冗談やめろよ……!」


 俺は屈辱に顔を歪めながら床に擦れるような声で必死に絞り出した。

 すると背中の上の重みがわずかに移動した。

 理の顔が俺の耳元まで近づいてくるのが気配でわかる。


「冗談?」

「私が君に対して非論理的な冗談を言うとでも思っているのかい」

「それとも、冗談かどうか確かめてみようか?」


「は?なにを……」


 理の左手が俺の拘束されている両腕を片手で軽々と押さえ込んだ。

 そして自由になった彼女の右手が俺の背中を這い下りシャツの裾から直接俺の素肌へと滑り込んできた。


 冷たい。

 氷のような指先が俺の脇腹から腹部周りへとゆっくりと侵入してくる。


 理の指先はまるで高価な美術品を鑑定するかのように繊細に、そして執拗に俺の腹部の皮膚を撫で回した。

 肋骨の形を確かめるように指が這う。

 へその周りを円を描くようになぞる。

 胸部をなぞるように指の腹が滑っていく。

 その触れ方はあまりにもいやらしくそして、性的な正確さを伴っていた。


「おっ、い……やめっ……」


 俺の口から情けない声が漏れる。

 完全に制圧され自由を奪われた状態で他者の指先が自分の急所である腹部を蹂躙していく感覚。


 抵抗できないという絶対的な絶望。

 しかし俺の脳髄を恐怖以上に支配したのはその冷たい指先がもたらす異常な感覚だった。


 背筋をゾクゾクと駆け上がる強烈な悪寒。

 それは狂気に対する恐怖に間違いなかった。

 だが同時に俺の体の奥底で何かが痺れるように熱を帯びていくのを確かに感じていたのだ。


 支配されることの悦び。

 全てをこの圧倒的な力を持つ女に委ねてしまいたいという背徳的な感情。


 恐怖にも似たその感覚の正体は間違いなく快感だった。

 俺は理の指先が動くたびにビクビクと体を震わせながら、自分の精神が完全に別の形へと作り変えられていくのを感じていた。

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