サッカーしようぜ!
俺はカッターナイフの恐怖と自らの尊厳を引き換えにしてどうにか二人のヤンデレを自室から追い出すことに成功した。
「過去の俺と今の俺は同一人物だ」という俺の決死の宣言が結花の心に深く突き刺さったらしい。
彼女はカッターを静かに引き下ろし、満足げな笑みを浮かべて立ち上がった。
「空くんがそこまで私の体を求めていたなんて本当に可愛いんだから」
「今日は空くんも退院したばかりで疲れてるだろうから、特別に一人にしてあげる」
「でも明日からは私が空くんの身の回りの世話を全部してあげるからね」
「朝起きたらまず私に連絡して私のご飯を食べて、私の言うことだけを聞いて生きていくのよ」
結花は俺の頬にひんやりとした唇を押し当ててから部屋を出て行った。
澪は最後まで「結花先輩だけずるいです。私だけは先輩の部屋に泊まり込みます!」と抵抗していたが結花に首根っこを掴まれて引きずられていった。
「先輩!絶対に私のことも思い出してくださいよ!」
「私の愛の深さは結花先輩なんかよりずっと海より深いんですからね」
「明日には私が先輩の記憶を私色に染め上げるための特製アルバムを持ってきますから、震えて待っていてください!」
嵐のような二人が去り、一階の玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
家の中に完全な静寂が訪れる。
俺はベッドの上に大の字に倒れ込み深く深く息を吐き出した。
まとわりつくような高い湿度がスッと引いていき、ようやく普通の空気を肺の奥まで吸い込めた気がした。
誰もいない一人きりの自室だ。
窓の外を見ると町並みが夕暮れの光に染まり始めているのが見えた。
遠くには島のシルエットが薄っすらと浮かんでいる。
俺はこの見覚えのない見慣れた景色を眺めながら、自分の置かれた状況を改めて整理しようと試みた。
記憶喪失の俺を取り巻く環境はあまりにも異常すぎる。
重すぎる愛を押し付けてくる幼馴染。
中学生という立場を利用して俺を染め上げようとする後輩。
完璧な監禁環境を構築しようとした理系少女。
そして人外の怪異でありながら俺に寄り添おうとしてくれた骸徒の小夜。
俺の過去には一体何があったというのか。
なぜこれほどまでにヤバい女たちから命がけの執着を向けられているのか。
ただの文学青年を気取っていた男子高校生が背負うにはあまりにも過酷なカルマだ。いや、文学少年を気取っていたからか。
俺はのろのろと起き上がり部屋の中を見渡した。
本棚の裏には死霊魔術の本が隠されているし、机の棚の中には結花そっくりのグラビア写真集が入っている。
どう考えても俺自身の過去の人間性にも少なからず問題があったとしか思えない。
だが今はとにかく休もう。
肉体的にも精神的にも限界が近かった。
俺はポケットからあの伝説の鍵を取り出して机の上に放り投げ、ベッドの布団に潜り込んだ。
明日になればまたあの重すぎる愛の洪水が俺を飲み込みにやってくる。
それまでに少しでも体力を回復させておかなければ、俺は本当に窒息死してしまうだろう。
目を閉じると首元に小夜の冷たい唇の感触や、結花のカッターの冷気がフラッシュバックして全身に鳥肌が立った。
俺の平穏な日常なんてものはもうどこにも存在しないらしい。
俺は泥のような眠りへとゆっくりと落ちていった。
窓の外から差し込むオレンジ色の光がまぶたをチカチカと刺激した。
重い体を寝返らせると、シーツの擦れる音がやけに大きく聞こえる。
「あれ……」
ここがどこなのか最初はまったく把握できなかった。
見慣れたようでいて、どこか他人の部屋のような違和感がある。
まばたきを繰り返すうちにぼんやりとした脳が徐々に再起動していく。
病院での監禁騒動。
血塗られた地下室と小夜の刀。
結花と澪の怒涛のヤンデレラッシュ。
そしてカッターナイフとグラビア写真集。
濃密すぎる記憶の濁流がドッと押し寄せてきて俺はベッドの上で頭を抱えた。
夢じゃなかったのか。
朝に帰宅して泥のように眠りこけていたせいですでに窓の外は夕方少し前くらいになっていた。
空が赤く染まり始めている。
「ふぁ」
俺は大きなあくびを一つした。
とりあえず今日はもうこのまま朝まで寝てしまおう。
そう思って再び布団を被り直そうとしたその時だった。
「おはよう」
耳元でひんやりとした声が響いた。
「うわぁっ!?」
俺は心臓が口から飛び出そうになるほど驚き、そのままの勢いでベッドから転げ落ちた。
ドンッと背中を床に打ち付け激痛に顔を歪める。
「痛ぇ……っ」
呻きながら視線を上げると俺が寝ていたベッドのすぐ脇に白衣を着た理がちょこんと座っていた。
銀色のフレームの眼鏡が夕陽を反射してギラリと光っている。
病院で結花と澪に物理的に処理されたはずの彼女がなぜ俺の自室にいるんだ。
「そんなに驚くなんて心外だね」
「まるで幽霊でも見たかのような反応じゃないか」
「私は君のバイタルサインが安定するのをずっとここで静かに観測していただけだよ」
理は悪びれる様子もなく淡々とそう告げた。
いや幽霊よりタチが悪いだろ。
玄関は鍵がかかっているはずだぞ。
俺は床に這いつくばったまま抗議の声を上げた。
「そりゃあ仕方ないだろ。ずっと一人だと思ってぐっすり寝ていたら急に耳元で誰かの声がするんだから。それに勝手に入るのはやめてくれ、その……そういうことをしだしていた可能性だってあるわけだろ?」
俺は口走ってからしまったと思ったがもう遅い。
思春期の健康な男子高校生が自室で一人きりだと思い込んでいる状況なのだ。
引き出しの中には結花そっくりのグラビア写真集だってある。
一歩間違えれば取り返しのつかない大惨事にして社会的な死を、理の目の前で繰り広げていた可能性は十分にあるのだ。
俺は恥ずかしさで少し頬を赤く染めながら理から視線を逸らした。
すると理は眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ完全に分かり切ったような笑みを浮かべた。
「そういうことってどういうことだい?」
「私の計算式には君の言うそういうことの具体的な変数が代入されていないのだけど」
「もしかして生殖本能に由来する単独での自律的な刺激行動のことかい?」
言い方が理すぎるし、絶対分かってて聞いてるだろ。
俺の顔は一気に沸騰したように熱くなった。
「ちっ、違うわ!そういう学術的な言い方をしないでくれ。とにかく他人の部屋に勝手に入り込むのは犯罪だぞ」
「犯罪?人間の定めたちっぽけな法律で、私と空の引力を縛れるとでも思っているのかい」
「それに君の部屋の窓の防犯パッチはあまりにも脆弱すぎたよ」
「ヘアピン一つと私の頭をもってすれば、三秒で突破できるレベルの難易度でしかなかったからね」
理は平然と言ってのける。
玄関からではなく二階の窓から侵入したのかこいつは。
どうやら俺の部屋は物理的にもヤンデレたちの侵攻を防ぐことができないらしい。
理の湿度は一見すると低いように見えるが、その実態はきちんとストーカーの極みだった。
「私がいない間にあのメス豚どもに君の細胞を書き換えられていないか心配だったんだ」
「でも安心していいよ。寝ている間に君の髪の毛を数本採取してDNAを解析しておいたからね」
「君は間違いなく私だけの空だ」
事後報告の狂気がエグい。
俺はベッドのシーツを掴んだまま深い絶望の溜息をつくしかなかった。
ぐぅ。
静まり返った部屋に情けない音が響いた。
俺の腹だ。
昨日の夜からロクなものを食べていない上に、地下室での決死の逃走劇でカロリーを消費し尽くしている。
俺は赤面して腹を押さえた。
理が眼鏡の奥の瞳をキラリと光らせる。
「お腹が減ったのかい空」
「バイタルデータを見る限り血糖値が著しく低下しているようだね」
「このままだと脳へのグルコース供給が不足して、君の思考回路にエラーが生じる恐れがある」
「いっ、いや別にそんなんじゃ……」
俺が強がろうとした瞬間、再びぐぅぅぅ、とさらに大きく腹の虫が鳴いた。
体は正直だ。
俺は観念して立ち上がり、一階のキッチンへと向かった。
理もペタペタと背後をついてくる。
冷蔵庫を開けてみるが、中には水と賞味期限の切れた調味料しか入っていない。
戸棚を開けても乾麺の一つも見当たらなかった。
どうやら以前の俺と家族は、家で自炊をする習慣が皆無だったらしい。
財布を探してみたがどこに置いたのか記憶になく、手元にはあの伝説の鍵しかない。
詰んだ。
このままでは餓死する。
俺が途方に暮れていると背後から理がぬっと顔を覗き込んできた。
「食材がないなら私が作ってあげようか」
「必須アミノ酸とビタミンを完璧な比率で配合した流動食のレシピがあるんだ」
「私の料理を食べたいと君が望んでくれるなんて、こんなに嬉しいことは久しぶりだよ」
「君の胃袋の粘膜細胞一つ一つを私の好みの味に染め上げられるんだからね」
「まずは消化酵素の分泌をコントロールする薬を飲んでもらって、君の味蕾を私専用に改造してから……」
理の言葉には食欲をそそる要素が一つもなかった。
むしろ生物実験の被検体にされる恐怖しかない。
胃を好みに染め上げられるとかいう猟奇的なワードを聞いて俺の空腹感は一瞬で恐怖に塗り替えられた。
だめだ。
こいつに頼ったら人間としての尊厳と引き換えに、一生チューブで栄養を摂取する体になりかねない。
「いや遠慮しておくよ。ちょっと散歩がてら外の空気を吸ってくるから、ついでに何か買ってくる。理はここで待っててくれ」
俺は逃げるように家を飛び出した。
外はすっかり日が落ちてあたりは夜の闇に包まれている。
街灯の光がアスファルトを頼りなく照らしていた。
金はない。
だが空腹は限界だ。
俺の足は無意識のうちに朝訪れたあの場所へと向かっていた。
結花の家だ。
あの豪邸ならきっとまともな食材が腐るほどあるはずだ。
愛が重いとはいえ彼女なら俺にご飯を食べさせることくらい喜んでしてくれるだろう。
毒が入っている可能性は否定できないが理の実験食よりはマシなはずだ。
わずかな記憶を頼りに夜の住宅街を歩くこと数十分。
見覚えのある巨大な門扉が闇の中にそびえ立っていた。
「ここだ……」
夜に見る白川家の豪邸は朝とは違って不気味な威圧感を放っていた。
門柱の上の街灯だけがぼんやりと周囲を照らしている。
俺はインターホンのボタンを押した。
ピンポーン。
音が屋敷の方へ吸い込まれていくが応答はない。
「結花?俺だ空だ」
「ちょっと腹が減ってさ何か食べさせてくれないか」
マイクに向かって話しかけてみるが、スピーカーからはノイズ一つ聞こえてこない。
留守だろうか。
いやこの時間なら誰かしら使用人や家族がいるはずだ。
それとも飯を食いに来ただけの不審者だと思われているのか?たしかに不審者だ。
仕方なく俺は門扉ではなく屋敷の玄関ドアのインターホンを直接鳴らそうと考えた。
重厚な鉄格子の門に手をかける。
鍵はかかっていないようだった。
しかし押しても引いても門はびくともしなかった。
「あれ?おかしいな」
ガチャガチャ。
ガシャンガシャン。
何度力を込めても何かに引っかかっているように途中で止まってしまう。
錆び付いているわけでもなさそうだ。
「くそっ開かない」
俺は息を切らして一歩下がった。
何かが物理的に門の動きを阻害している。
俺は何気なく門の上部を見上げた。
鋭利な槍の穂先のような装飾が並ぶ鉄格子の頂点。
そこに黒い塊のようなものが乗っかっていた。
ボールか?
いや違う。
街灯の逆光で黒く潰れているが、絹糸のようなそれは微風に揺らいでいた。
そしてその下にある球体は不自然な位置で鉄格子の穂先に突き刺さり、固定されていた。
俺は目を凝らした。
暗闇に目が慣れてくると、その物体の輪郭が徐々に浮かび上がってくる。
白い肌。
見開かれたままの目。
半開きになった口。
それはボールなどではなかった。
人間の頭部だ。
「……ひっ」
喉の奥から空気が抜けるような情けない音が漏れた。
腰の力が一瞬で抜け、俺はその場にへたり込んだ。
アスファルトに尻餅をつき、後ずさりする。
俺が門をガチャガチャと揺らした振動のせいだろうか。
その頭部がゆっくりと傾いた。
ブチブチという肉の千切れる嫌な音が静寂に響く。
そして。
ボトッ。
鈍く湿った音を立てて、その物体は俺の股のすぐ目の前に落ちてきた。
コロコロと転がり俺の方を向いて止まる。
街灯の光がその顔をはっきりと照らし出した。
そこに転がっていたのは見間違えるはずもない。
結花だ。




