(九) 無明の闇
台風上陸中に公開した話は、たまたま、かなり暗く残酷なパートです。細かな描写はしていませんが、さらりと「首を刎ね」るだの、「手足を斬」るだのが出てきます。ご注意ください。出だしでわかることですが、今回の視点は源二郎ではありません。
白井般右衛門は黙々と房楊枝の先を木槌で潰していた。表向きの内職だ。三日前に府内だけで十度目の引っ越しをし、今は由次という男が住む裏店の居候になっている。
房楊枝作りは由次の職のひとつだ。
手先の器用な般右衛門は、由次が教えたら、あっという間に師匠と遜色ない出来の房楊枝を作れるようになり、今では喜んだ由次が二人で作った房楊枝をまとめて問屋へ卸している。
「なんであの若侍の息の根を止めなかったんです?奴は旦那の顔を知ってるんですよ」
由次が楊枝作りを一休みして訊いてきた。
般右衛門は答えなかった。一言で説明できないからだ。由次には弟のことも、浪人となった理由も話していない。今さらくどくどと話す気にもならない。
当初は殺すつもりだった。刀を抜かなかったのは、源二郎が相当な剣客だと思っていたからだ。鍛えた身体をしていることに加え、釣竿の扱いや教えたことの飲みこみの早さから感じた。
それゆえに、あの真面目な気性ならばこちらが刀を抜かない限り抜くまいと、般右衛門は素手で攻撃したのだ。
読み通り源二郎は刀を抜かず、なんとか素手で般右衛門とやりあおうとした。
素手ならば勝てる。その般右衛門の読みは正しかった。
源二郎の肋を折った直後に下から顎を殴りあげた時、相手は気を失ったと確信した。
その時、咄嗟に般右衛門は源二郎の腕を掴んでいた。そのまま後ろへ倒れ、後頭を強く打ち付けることを防いでしまった。
般右衛門は後頭に手を添え、そっと源二郎を地面に横たえた。自分が何をしようとしているのかわからなかった。
頭の中では二人の般右衛門が言い合いをしていた。
――殺せ!こいつはお前と似ている。危険だ!
――この若者は名前だけでなく、気性も少し弟と似ているではないか。おまえはまた弟を殺すのか?
般右衛門は源二郎の首に手を伸ばした。しかし力を入れることはできなかった。
頭には弟、源次郎の死に顔が浮かんでいた。無惨に痛めつけられ、死んでしまった弟の死に顔が。
顔立ちは似ていないのに、弟の死に顔が気を失った源二郎の顔に被さった。
弟に着せられた着物の襟を少し緩めただけで見えた数多の生々しい傷……。
その有り様を思い出した般右衛門は、覚えず、源二郎の首から手を離していた。
「人が来ますよ」
由次の声に般右衛門はほっとして立ち上がり、その場を立ち去った。
振り返ってみれば、白井般右衛門こと黒木半右衛門の弟、源次郎の悲劇は骸となる一年と一月前に始まっていた。長井貞之助が勘定所で見習いの増員があると知らせてきた時だ。
長井と半右衛門は同じ塾に通った十歳からの付き合いだった。
長井の家は代々勘定所に勤めてきた役方の家で、東軍流の指南役として殿様とその家中に仕えてきた番方の黒木家とは真逆といっていい家柄だ。
弟の養子先がなかなか見つからず、やきもきしていた半右衛門は長井の話に喜んで口利きを頼んだ。代々の勘定役人である長井に任せれば、大丈夫だと思った。支度金を捻出して渡し、祈る気持ちで結果を待った。
一月後にもたらされたのは採用の通知。
半右衛門も源次郎も、半右衛門の妻、邦枝も心から喜んだ。長井には礼金も渡した。勤め始めには同僚への挨拶もきっちりと行った。
源次郎は半右衛門の屋敷を出て、勘定所の役人が住む組屋敷へと引っ越し、休みは月に三日しかない日々を「忙しいけれど、やりがいを感じます」と言っていた。
一年たったら、源次郎に嫁を迎えさせねばと、ひそかに半右衛門と邦枝は嫁探しもしていた。
八歳年下の源次郎は、半右衛門、幼名、源太が生まれた時から見守ってきた弟だ。
姉と妹に囲まれていた源太は、漸く生まれた弟がかわいくて仕方なかった。進んで子守をし、塾や武術の稽古で忙しい中、できるだけ遊び相手になった。
源次郎が十歳になるまでにその気性は番方に向いていないと気づいた。以降はなんとかその優しい気性が活かせる道を探した。
親戚も皆番方で、なかなか養子先が見つからなかったから、長井が道を開いた役方の勘定は、待ちに待った、天の巡り合わせの源次郎に向いた道に見えていた。
何もかも順調に進んでいるように思っていた。
全てが一変したのは、もうすぐ源次郎が勘定所へ務め始めて丸一年経つという時だった。
半右衛門と邦枝は源次郎が目付に連れていかれたと長井から聞かされ仰天した。慌てて組屋敷の源次郎の住まいへ行った。米櫃や水瓶に至るまでひっくり返され、徹底的に荒らされていた。
半右衛門はすぐさま目付に問い合わせた。身内には何も言えない、会わせることもならぬと突っぱねられた。
驚きはしたものの、何かの間違いだと、すぐに解放されると思っていた。
だが源次郎が生きて解放されることはなかった。
公金横領の疑いがかけられているという噂が聞こえてきたが、詳細はわからぬまま半月が過ぎた初夏の早朝、源次郎は骸となって半右衛門の元へ帰ってきた。
筵をかけた源次郎の亡骸を大八車にのせて半右衛門宅へ運んできた目付方の下役もその奉公人と思われる小者も、沈痛な顔をしていた。
「ここへ運んだことは、なにとぞ内密にしていただきたい。上からは罪人だから、身内に渡してはならぬと命じられたのです。しかし、そんなこと、拙者には耐えられませぬ」
それだけ言うと、その若い男と小者はすぐに黒木家を去った。
半右衛門はそっと筵をめくった。
震える手で触れた源次郎の痩せ細った顔。丸顔の童顔だった顔が頬骨が出るほどにやつれていた。襟元に見えた傷に恐る恐る襟を開いたら、胸から腹に見えたあまりに過酷な拷問の痕。背中の有り様は正視に耐えなかった。
源次郎が責め殺されたと知った時、般右衛門の感情は大風(台風)の方がまだ静かだろうと思うほど荒れ狂った。
号泣しながら源次郎の亡骸を抱きしめた。時がわからなくなるくらい泣き続けた。
半右衛門には弟の無実が明らかだった。
弟は幼い頃から純粋で、蚊さえも殺すのをためらうような優しい心の持ち主だったのだ。その優しさが災いし、武芸の腕前は今一つだったが、気性はいたって真面目で素直だ。
しかも勘定所へ務め始めて丸一年もたたない。公金横領など考え付くはずがないし、考え付いたとて、実行できる立場ではない。上から指図されない限り。
そう、上から指図されない限りは。上がお膳立てしない限りは。
どうにかするといいながら、源次郎の疑惑を晴らす動きをした形跡のない長井に半右衛門は少し前から疑惑を感じてはいた。どうやら動かせぬ証しが出たらしいとだけ返してきた長井に、何かの間違いだ、詳細を確かめて教えてくれと半右衛門は食い下がったが、その後音沙汰無しだった。
まさかと疑惑を一度ならず打ち消した。しかし、やはりどう考えても腑に落ちない。
兄上のおかげで勘定見習いになれたと喜んだ、一年前の源次郎の笑顔が半右衛門の頭に甦って仕方がなかった。甦る度に涙は溢れる。
――もしも貞之助が黒幕だとしたら、わしは、わしはこの手で源次郎を……
半右衛門の手は怒りのあまり震えが止まらなかった。
――わしも源次郎も騙された……騙した奴は許さん!
半右衛門は源次郎の亡骸を密葬した直後に妻を離縁した。認められない仇討ちに巻き込まないための離縁だった。
十年近く連れ添ってきた妻は仇討の成就を祈りますと言って、実家へ去った。生まれた子が二人とも夭逝した時には暫く何もする気にならないほど妻と共に悲しんだ半右衛門だったが、このときはそれが不幸中の幸いだったと思えた。
四人いた奉公人も老僕を一人残して暇を出した。半右衛門を生まれた時から知っている老僕は、主の覚悟をとうに悟り、どのみち自分の先は短く、今さら新たな主に仕えようとは思わない、最後まで旦那様に仕えると言ってきた。その心に半右衛門は老僕と仇討ちを行うことにした。
それからの半右衛門は、老僕の助けを借りて長井をこっそり調べ、見張った。
その調べと見張りで長井がここ数年、密かに分不相応な高価な品を買い求めていることや、城下で二番目の豪商である材木商の江嶋屋と懇意にしていることを知った。江嶋屋はこの五年くらいの間に大きな普請をいくつも競り落とし、年々財を増やしてるという噂だった。
見張り始めて十日後、半右衛門は長井が江嶋屋の寮を訪れた時の会話を床下に潜り込んで盗み聞きした。二人きりであることに油断したらしい、その時の会話でついに事の真相が判明した。
「お人好しは簡単に利用できる。兄弟揃って底抜けにお人好しだ」
そんな長井の言葉が聞こえた。
「証しがあるし、本人が死んだとあっては、どんなに兄が申し立てようと無駄だ」
「その証し、偽物だとばれませぬか?」
その日に初めて聞いた江嶋屋の声は面白がっていた。
「そんなすぐにばれるようなものは作らんよ。それに金はまいておいたからな」
最悪の予想どおりだった。半右衛門は怒りで気が狂いそうだった。
「あの半右衛門があわてふためく様は見物だった」
長井の含み笑いが続いた。
半右衛門は愕然とした。片膝ついている地面が歪んだ気がした。長井が自分に抱いていたのは、友情ではなかったのか。
――源次郎が陥れられたのは、わしのせいなのか?そんな……そんな……
これだけ聞けばもう十分だ、我慢ならないと、半右衛門は床下を出て濡れ縁に上がり、座敷の外に侍っていた長井の若党の首を一刀で刎ねた。相手が声をあげるまもない早業だった。そして、障子を開けて座敷に入り込むなり、言った。
「よくも源次郎を罠にはめたな。公金を横領したのはおまえ達だろう。その罪を何も知らない、何の咎もない源次郎になすりつけるとは、何も知らない源次郎を嬲り殺しにするとは!己らはそれでも人か?悪鬼でもそこまでのことはするまい!」
怒りの強さとは裏腹な、語気は強くも、自分でも驚くほど低く冷たい声だった。
「ま、待て、何か勘違いしておるぞ。わしの話を聞け」
「先ほどから、お前と江嶋屋が話していたことを全部聞いたのだ」
長井と江嶋屋の顔色が変わったのが行灯の灯りでもよくわかった。
長井より手前に座っていた江嶋屋は濡れ縁に転がる首なしの若党に気がついたらしく、唐突にヒッという声をあげて、部屋の奥へ四つん這いで行こうとした。半右衛門はその足を掴んで引き戻した。
「た、たすけ!」
江嶋屋は最後まで言うことができなかった。その首を半右衛門は逡巡なく刎ねたからだ。
長井の目が目の玉が落ちるのではないかと思うくらいに見開かれた。
「お前のことは友だと思っていた……勘定見習いの話を持ってきたのが、まさか源次郎を己の罪を着せる、人身御供にするつもりだなどと、考えもしなかった。わしは何よりも企みを見抜けなかった己の目と竹馬の友を裏切ったお前を許すことができない」
「だ、だから、誤解だと申しておる」
震えた声で長井が返してきた。
この期に及んでも己の悪事を認めない姿に半右衛門は源次郎と同じ目にあわせてやると思った。
半右衛門が近づくと長井は奥の襖に張り付いた状態で脇差しを抜いた。半右衛門の強さを長井はよく知っている。構えた脇差しが震えていた。
半右衛門は震える脇差しなどなかったように、あっさりと首筋への峰打ちで長井を昏倒させた。
簡単には殺さない。そう思っていた。弟の亡骸を見たときの激情がこの時も半右衛門の身体を駆け巡っていた。
時をかけるわけにいかなかったが、半右衛門は手拭いで口をふさぎ、手を一括りに縛った長井をできるだけ苦しむよう、少しずつ斬り刻んだ。
「これでも源次郎が受けた苦しみよりは遥かにマシだ。おまえの苦しみはすぐに終わるからな」
手足を斬り落とされ、首にも腹にも斬り傷のある長井を残し、半右衛門は江嶋屋の寮を出た。
半右衛門が去るとき、痛みのあまり気を失ってはいたが、長井にまだ息はあった。間も無く失血死するだろうが、その最期を見届ける暇はなかった。まだやらないといけないことがある。
半右衛門は次に源次郎を拷問した目付二人の屋敷に立て続けに忍び込んだ。事前にどこで寝ているかは調べてあった。
どちらも実に呆気なかった。あっという間に腕や足を切り落とし、首を刎ねて半右衛門は去った。妻女と同じ部屋に寝ていた方は最初に妻女の気を失わせるという一手間が必要だったが、大した違いはなかった。
仇討ちを実行する前は、終わったら自害するつもりでいた半右衛門だった。
ところが、四人をあの世に送っても気持ちがどうにも落ち着かない。むしろ、更に腹立たしくなっていた。殺しても殺し足りないとはこのことかと半右衛門は思った。さすがに若党の首まで刎ねたのはやりすぎたという後悔の念がいくらかは湧いてきたが、その後悔も収まらない腹立たしさで間も無く消えていった。
東軍流の極意である「無明切」が半右衛門には異なる意味に思えた。
長井等の元本の無明(性悪)※を斬ることで、己もまた元本の無明に堕ちたと思った。
自分はすっかり鬼になったと思った。それが消えない怒りの理由にその時は思えた。
半右衛門は自害を止め、あるだけの金を懐に夜明け前に老僕とともに屋敷を出た。
老僕には手元の金を一部渡し、国(藩)境で別れた。ほとぼりがさめたら、源次郎をこっそり葬った黒木家の墓守りを頼む、長生きしてくれと、半右衛門は別れ際に老僕に頼んだ。
老僕は目に涙をためながら「旦那様こそ、御達者で。どうか源次郎様の分も長生きしてください」と返してきた。
それからの半右衛門はあちらこちらを彷徨った。あてはなかった。
離縁した邦枝が半右衛門が四人を斬殺した翌朝に喉を付いて自害していたと知ったのは、かなり後のことだった。彷徨っているうちに隣の御領分に入り込んでいたら、行商の男が地元の連中に話しているのが聞こえたのだ。
半右衛門は男の話から、上つ方が半右衛門が斬殺した三人の役人を病死と公表していることを知った。巷はそんな嘘を見抜き、怪談として事件は人の口を渡っているのだった。
半右衛門は妻を悼み、城下の外れにある盛り場で人目も憚らず泣きながら酒を煽った。自分には過ぎた妻だった。自害したのは、離縁では自分とのつながりが切れないと思っていたからか、自分と源次郎のためだったのか。
邦枝も源次郎の死を半右衛門同様に悲しみ、半右衛門が仇討ちすることを後押しした。あのときにもう覚悟を決めていたのだ。自害するつもりだったのだ。今から振り返るとそうとしか思えない。
――わしはわかっていたのではないか。邦枝の覚悟は離縁で消えはしないほど強いものだと……
半右衛門は妻と弟の小さな木彫りの位牌を作り、懐へ入れた。
さらにあちらこちらを放浪した。武芸に秀でた半右衛門だから、道中絡んできた破落戸の類いは、反対に腕や足をへし折り金を奪った。
どうせ博奕や強請で得た金だろうと、半右衛門はその金で酒を煽った。
ところが、どんなに酒を飲んでも、飲んでも飲んでも、酔わない。鬼になったら酒に酔わなくなるのかと、妙に納得した。
そんな放浪を一年近く続けた頃、一人の男が居酒屋で酒を水のように飲んでいる半右衛門に声をかけてきた。
「旦那、めっぽう強いじゃありませんか。見ましたよ。ならず者五人を簡単にやっつけちまうのを。その懐から金を抜くのもね。そいつらを囲っていたあこぎな商人をこらしめるのも。どっちも見ててスカッとしましたねぇ」
男はにやりと笑った。行商の町人風体だったが、半右衛門は男に堅気ではない気を感じた。
半右衛門は男の目的は金の無心だろうと思ったが、違っていた。仲間に入らないかという誘いだった。男は由次と名乗った。
「あこぎな商人を凝らしめて金をいただくんです。一緒にやりませんか」
話の出だしでは断ろうと思っていた半右衛門だったが、あこぎな商人をこらしめるという言葉に少し興味が湧いた。まだ江嶋屋のことが尾を引いていたのだ。
「どこに押し込むのだ?」
半右衛門が仲間と引き合わされたのは、押し込む直前だった。半右衛門と同じような薄汚れた成りをした浪人二人、由次、船頭である文五郎だった。般右衛門を入れて五人。それが賊の総勢だった。
成りだけでなく年齢も半右衛門と同じくらいに見えた二人の浪人は、それぞれ安宅関之助、蒲井直次郎と名乗ったが、偽名なのは明らかだった。半右衛門も偽名を使おうと、白井般右衛門と名乗った。咄嗟に頭に浮かんだ名だ。
押込み先にはいわゆる引き込み役がいるのかと思っていた般右衛門だったが、由次が蒲井の助けを借り、驚きの身の軽さを見せて塀を越えた。
母屋に濡れ縁から上がった般右衛門は、あこぎだと由蔵が言った主と真っ先に対峙した。
「金はやる!あたしの命だけは助けてくれ!」
主の中年の男は自分だけの命ごいをした。
般右衛門には成田屋の主と江嶋屋の主が重なって見えた。
江嶋屋の首を刎ねた時に家族は側にいなかったのだから、成田屋の主と同じことをしたかどうかはわからない。般右衛門の勝手な思い込みだ。江嶋屋が般右衛門の悪どい商人の象徴なのだ。
般右衛門は江嶋屋を見たときの怒りを甦らせ、バッサリと成田屋の主を斬った。父親に見捨てられた二人の息子も一刀で斬り殺した。
その間に安宅と蒲井は女、年寄りを斬っていた。
押し入る前に聞いた約定は「顔を見られたら斬る」だった。
般右衛門は一抹の納得できないものを感じた。安宅は人を斬るのを楽しんでいる気がしたのだ。
若旦那を斬った直後、隣の部屋から誰かが走り去る音がした。仲間を見ると、その音と気配に気がついたのは般右衛門だけらしかった。
それならばと、般右衛門は黙っていることにした。顔は見られていないのだから、追いかけて殺す必要はない。金を持ち出す方が大事だ。
自分を鬼だと思っていた般右衛門だったが、安宅と蒲井が押込み直後に何事もなかったように、酒を飲み飯を食べている様子に自分にはまだ人の心が残っているのだと思った。二人の顔を見るだけで不快になった。この二人とは付き合いたくないと思った。
ことに安宅にはその目を見ただけで、般右衛門は悪寒が走った。
蒲井には自分と似た鬱屈を感じたが、話をする気にはならなかった。
成田屋の押込み後、般右衛門は江戸を離れたり、戻ったりを繰り返しながら、由次とだけ時々会った。
そのうちに浪人三人に対して腰は低いが、由次が賊の頭格だということが般右衛門に見えてきた。
由次は実際に押し込む四人以外に押込み先を下調べする者を何人か確保していると見えたが、そうした下調べの手先を般右衛門達と引き合わせることはしなかった。全体を把握しているのは由次だけということだ。
由次は般右衛門にはつかみどころのない不思議な男だ。いつも淡々としている。物腰は柔らかいが、油断はない。真の盗賊、悪党はこんな男なのかもしれないと思った。
だが由次は言う。
「旦那方に比べたら、あたしなんぞ、小物も小物。旦那方がいるから、押込みが成功しているのです。これからもよしなに」
そんな言葉を由次から聞いた直後は、二度と誘いに乗るまいと思っていたのに、次の押込み話を由次が持ってきた時、般右衛門は断らなかった。
自分でもなぜ断らなかったのか、良くわからない。短時間に大金を手に入れた容易さに味をしめたのだろうと思った。とうに地獄に落ちた身だ。今さらもう一つ二つ悪事を重ねたところで、さほど変わるまい。そう思った。
二軒目の中屋の押込みで、手先の下調べが必ずしも正確ではなく、自分にはまだまだ人の気持ちが残っていることを般右衛門は思い知った。
中屋では主も若旦那もあこぎな商人という雰囲気はなく、揃って妻子を庇おうとしたのだ。
主のその動きに気づいたのは刀を振り下ろした時だったため、戸惑いは斬った後にやってきた。若旦那の時は刀を振り上げる前に一瞬躊躇った。妻子を庇おうと大きく腕を広げ、斬るなら自分だけにしてくれと言ったからだ。
般右衛門は躊躇った己を「何を今さら」と嘲笑い、刀を振り下ろした。中屋の若旦那は最後まで妻子を庇っていた。
その心根に般右衛門はすぐに次の動きに出れなかった。赤子を抱いて「この子はお助けを」と叫ぶ若い母親の姿も般右衛門をしばし動けなくした。
母子から顔を背け、後ろ手に障子を閉めたのは咄嗟の決断だった。
しかし、なんとか斬らずにすませられると思ったのに、若女房は赤子を抱いて部屋から出てきてしまった。安宅に赤子が殺されると思ったからだろうが、短慮だと般右衛門は思った。
――せっかく助けてやろうとしたのに、馬鹿な女だ……
般右衛門はそう思いながら、千両箱を船に運び、また中屋に戻った。そこで目にした光景は、十手を持った若侍に、倒れている安宅と蒲井だった。
――若いの、なかなかやるではないか。
そのときの般右衛門は盗賊でも鬼でもなく、一人の剣士だった。好敵手と出会った時の身の引き締まる高揚感があった。少なくとも般右衛門はあのときの己を振り返ってそう思っている。
相手を殺したくはなかった。だが、手加減するには相手が強すぎた。
般右衛門は今でもあの若者を斬り殺したことを悔いていた。
――わしは鬼に成りきれていない。そのくせ、こやつらと決別もできない。なんと中途半端な。
自嘲し、今度も押込み直後にけろりとして酒色を貪る仲間から離れ、一人、酒を飲みながら中屋の押込みを振り返るうち、般右衛門はふと思った。人だから鬼になるのだ、と。
その悟りは麹町の伊勢屋で般右衛門に確かなものとなった。
安宅も蒲井も残忍きわまりなかった。二人とも伊勢屋の誰かに恨みがあるわけではなかった。わずかしか蓄えがなかった怒りをそのまま主一家にぶつけたのだ。
見抜けなかったのはこちらにも落ち度がある。般右衛門はそう思ったが、そんな二人の所業を止めることなく、視界の隅で冷静に見ていた。
決して自分は奴等よりマシだと思ったわけではない。二人の所業は、弟の仇に般右衛門がしでかした残酷な仕打ちよりはまだマシに思えるのだから。
何故五才の子を見殺しにしたのか。
源二郎が発したその問いに、今の般右衛門は明確に答えることができない。言えることがあるとしたら、人だからこそ、一つ踏み外せば、鬼になるということだけだ。
――人はみな鬼なのだ。誰もが鬼を心に隠し持っていて、何かのきっかけでその鬼が表に出てくるだけだ。そして、一度出てきた鬼はそう簡単には元のところへ戻せない……
それが信用していた友が弟を計略で陥れて獄死させたという事実と、怒りのあまり、弟の仇を長く苦しむように、残酷に斬り刻んだ般右衛門の実感だった。
「旦那、押し込む店を変えろって仰いましたね」
これまでのことを思い返していた般右衛門は由次の声に「今」に引き戻された。
「……ああ、そうだ。田之助が町方に見つかった以上、奴がこちらに図面を売った店は町方が狙われていると知らせ、多かれ少なかれ警戒するだろうからな」
昨夜、押し込む店を大きく変えたほうが良いと、由次が出かける直前に般右衛門は言ったのだ。他の押込み役の三人に次の押込みのことで会いに行くと思ってのことだった。もうひとつ納得しきれないものの、由次はどうやら押込み先を田之助が図面を売ってきた中から佐久間町の酢醤油問屋、内田屋に決めたらしかった。
般右衛門は田之助の顔を知らない。由次の手先の一人だと知っているだけである。
半年ほど前に般右衛門が椙杜神社の南にある、庄助屋敷と俗に呼ばれる一角の棟割長屋へ移った時に、由次が椙杜神社の大木に商家の図面が御神籤に隠して結びつけられることを打ち明けてきたが、その時に手先の名は言わなかった。
手先との繋ぎを般右衛門に教えた由次の真意がどこにあったかはわからない。椙杜神社の近くに越してきた般右衛門を利用するのが単に便利だと思っただけかもしれない。三人の浪人の中では一番頼りになると思ってのことだったかもしれない。
手先の名を打ち明けたのは、田之助が番屋に連れ込まれたことを知らせに来た時だ。
麹町の伊勢屋押込みの上がりが少なかったために安宅が煩く、すぐさま次の押込みを練り始めた由次だったが、どうやら田之助以外の手先に何らかの支障が出たらしく、計画は難航していると般右衛門は見ていた。
そんな状況に、とうとう由次は手の内をいくつか般右衛門に打ち明け、手伝ってくれと言ってきた。
ひとつは椙杜神社の大木から図面が隠されている御神籤を取ってくることだった。
もうひとつ、下調べを手伝ってもらうかもしれないと言った。
田之助が結んだ御神籤を見つけに行ったら、まだ結びつけられておらず、由次と共に出直した時に般右衛門は御神籤に手を伸ばす源二郎を見た。
源二郎が御神籤を開いて中から紙を取り出すのを目の当たりにした由次は「あのお侍、図面を見つけてしまいましたよ。早く始末してくださいまし」と般右衛門に囁いてきた。
その由次の声が般右衛門には遠く聞こえた。
当初から町方の役人ではないかと疑っていた。疑ってはいたが、実際に黒羽織を着た源二郎を見たことはなく、最後に一緒に釣りをする少し前に人から聞いて知った。
椙杜神社で久しぶりに見た源二郎は、黒羽織を着ていなかったものの、探索していたとしか思えない、御神籤の中の図面を見つけ出したことに、般右衛門の心には複雑な嵐が吹き荒れた。殺意と懐かしさ、よく見つけたと褒めたくなる気持ちと嘘をつかれたという怒りだ。
どうしたら、そんな相反する感情が一時に沸き起こり渦巻くのか、般右衛門は自分で自分が不思議だった。その感情の渦のまま、源二郎の後ろに忍びより、その首に腕を巻き付けて絞めた。しかし、止めを差すことはできなかった。
「どこへ変えるんです?今からよさげな店を見つけて下調べするとなると、慎重にことを進めるには半年近くかかりますぜ」
「よさげな店を二つ見つけてある。少し詳細を確かめれはどちらかに押し込める」
「いつの間にそんなことを……」
「外から見ていて、たまたま気になった店があったのだ。知り合いを使って少し調べてみたら、どうやら造りも我等の狙いやすい造りのようだ」
「恐れ入りました。さすがですな。安宅様達の説得はあたしがやりましょう。御意のままに」
由次は恭しく般右衛門に頭を下げた。
※注: 元本の無明: 仏教用語です。分かりやすいよう「性悪」としましたが、いくつかの解釈があるようです。ざっくりまとめると、人間が誰しも持っている悪い面が「無知の知」(これはギリシアの哲学者の言葉ですが…)に無自覚なことにより表にあらわれる……みたいな感じのことです。たぶん(←)




