第32話 本物令嬢の署名練習
視察の翌朝、ロザリンドは私の机へ白紙を持ってきた。
「署名の練習をしたいの」
書く内容は二つ。ひとつは、離宮運営に関する権限を今後一切主張しないこと。もうひとつは、王都の療養院付属の植物講座へ通う希望願いだった。
「あなた、本当に行く気なのですね」
「ええ。今さら社交界は無理でも、植物なら逃げずに向き合える気がするの」
私は新しい紙を差し出した。
「なら、見栄えより読みやすさを優先してください」
「相変わらず厳しいわ」
「署名は飾りではありません」
ロザリンドは苦笑しながら、ゆっくりとペンを走らせた。以前の丸く流れるような筆跡ではなく、一文字ずつ確かめるような字だ。
途中で彼女は顔を上げた。
「エルマ。あのころ、あなたに代わりをしてもらえば、自分の不安も見なくて済んだの」
私は少しだけ手を止めた。
「今は」
「今は、自分の分を自分で書きたい」
その答えで十分だった。
書き終えた紙には、きちんとした署名があった。癖は残っている。けれど、逃げた字ではない。
「綺麗です」
私がそう言うと、ロザリンドは目を丸くしてから、静かに笑った。
「褒められると、まだ少し照れるわ」
「帳面は褒めるものではありませんが、これは別です」
誰かの代わりではなく、自分の名前で未来を申請する。その一筆は、離宮の再建とは別の意味で、とても大きな前進だった。




